「光明真言」というご真言は、
比較的メジャーなご真言かも知れません。
どんな悪いことをした人も、
このご真言をひとたび唱えると、
その罪から逃れることができるという、
とてもパワフルなご真言。
ときどき落語の中にも出てきたりもします。
「おんあぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたやうん」
真言は真言のまま唱えるのが本義ですが、
あえて日本語に訳しますと、
「おーん、不空遍照尊よ。
大印を有する尊よ。 摩尼と蓮華の
光明をさしのべたまえ。フーン。」
となりまして、
松崎慈恭僧正の意訳には、
「はてからはてまで、かがやきわたる
わがみほとけのひかりのなかに
さいわいおおきただしきみちを
いついつまでもあゆましたまえ」
としたためられています。
直訳ではなかなか心に届けることが困難ですが、
この意訳ですと、リズムはさることながら、
極めてすんなりと処理できてしまう、
大正時代の魅力を感じます。
比較的メジャーなご真言かも知れません。
どんな悪いことをした人も、
このご真言をひとたび唱えると、
その罪から逃れることができるという、
とてもパワフルなご真言。
ときどき落語の中にも出てきたりもします。
「おんあぼきゃ べいろしゃのう
まかぼだら まにはんどま
じんばら はらばりたやうん」
真言は真言のまま唱えるのが本義ですが、
あえて日本語に訳しますと、
「おーん、不空遍照尊よ。
大印を有する尊よ。 摩尼と蓮華の
光明をさしのべたまえ。フーン。」
となりまして、
松崎慈恭僧正の意訳には、
「はてからはてまで、かがやきわたる
わがみほとけのひかりのなかに
さいわいおおきただしきみちを
いついつまでもあゆましたまえ」
としたためられています。
直訳ではなかなか心に届けることが困難ですが、
この意訳ですと、リズムはさることながら、
極めてすんなりと処理できてしまう、
大正時代の魅力を感じます。