こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

無知であること

2010年06月24日 | 仏教
まえに、「むさぼり」と「いかり」の心について
ちょっと違った側面から観察してみました。
もうひとつ残されたテーマが「知らない}ということ。
無知であること。気づいていないこと、です。

高学歴で、知識の豊富な人だからOKかというと、さにあらず。
えてして不必要なプライドや慢心が邪魔して、
無知な状況を増幅させます。

「知らない」ということを別の言い方にかえると、
「先入観で決めつけてしまう」心理、とでも言えるでしょうか。
私たちは、知らないうちに「きっとこれこれこうであるに違いない」と、
信じ切って、思い込んでものごとを判断しています。
ですから、その自分で設定した枠組みが絶対のモノになって、
なかなかその枠組みから抜け出すことができなくなる。
自分で設定してしまった枠組みそのものが、
様々な苦しみの原因を生み出しているわけです。

私の祖母は97才でこの世を終わりました。
典型的な明治生まれの熊本産女性。
多くを語らなくてもご想像通り。(これがまた先入観。笑)
多くの人たちから頼られ、戦前戦後の苦しい世の中を生き抜いて、
今の礎を築いてくれました。
そんな祖母も、晩年は様々な身心の老化現象があらわになってきました。
常識を逸脱した発言や行動には、ほとほと困惑。
ことに私の父親にとってみれば、私の何倍も辛かったことでしょう。
これまで力強く、そして頼もしく育て見守ってくれた母親が、
あんな風になってしまって。とても腹立たしかったことと思います。

しかしある時、祖母の身の回りの世話をしていた妻の助言から、
祖母の不可解な発言行動の発端が、
日々のコミュニケーション不足から来ていることに気付かされたんです。

祖母は、70年以上の長きにわたり、お寺の看板娘(?)でした。
お参りに来た方にお茶をだし、会話を楽しみ・・・。
そんな長い習慣が少しづつ途絶えだし、それにあわせてちょっとづつ
痴ほう症状があらわになってきたようです。
一人でテレビを眺める時間が増え、一人で編み物をしている時間が増え。

妻の助言を発端として、
その日から祖母の発言や行動をそのまんま暖かく受け入れる方向にシフトチェンジ。
・・・と、なんだか嘘のように症状が軽減したんです。
高齢者福祉の世界では、当たり前の常識的なことかも知れませんが、
いざ自分の家族の中でこのような事態が発生すると、
「知らない」ということのために、家族一同が苦しみのどん底に陥ってしまいます。
悲惨きわまりない壮絶な戦いを余儀なくされるんです。

祖母の思いをそのまんま受け入れること。
それが、祖母の心にぽっかり空いてしまった大穴を埋めていく作業なんだということを
身を持って「気付」かされたんです。そのことを「知」ったんです。
これで、私ども家族の苦しみもだいぶ軽減されていきました。

わたしは、「あの祖母がこんなになるなんて」という
「思いの枠組み」から抜け出すことができなくて苦しみました。
知らない、気づいていないということの恐ろしさを、
身を持って気付かされました。
コメント (2)
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