こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

刺激が生み出す幻想

2010年06月22日 | 仏教

以下は、貪りと怒りをテーマにした観察です。
題しまして、「クールな観察日記」(^-^)


私は、日々刺激を求めて飽くなき動物のようだ。
私を取りまく環境は、
すべてが刺激に基づいた社会構造になっている。
貨幣経済しかり、学校教育しかり、家庭生活しかり。

あれを手中におさめたい!という欲望がある。
この欲望は、生きる目標として誰からも正当化されるだろう。
その欲望を達成するために元気、やる気、パワーがみなぎるのだから。

あれが欲しいこれが欲しいと、とても苦しむ。
でも、その苦しさは、欲望達成の幸せへつながるためのスパイス。
でもそれは大きな大きな誤解だ。
時として、モノを欲する気持ちは過剰な刺激となっている。
ドキドキ感を味わう。なかなか心地よいモノだ。
あれを手にしたら、きっと幸せであるに違いない。
いやいや、それは幻想だな。大きな誤認だ。
仮に目的のモノが手に入ったとして・・・。
なんだか、こんなもんかあ、って思うに違いない、きっと。
私がこれまで増幅させ続けてきたイメージとはほど遠いモノ。
勝手に想像を膨らませ、モノに過剰な期待をし、
強い刺激を求めるモノだから、そんななっちゃう。
んじゃ、今度はこれじゃなくてアレにしよう、
ってまた同じ欲望の充足を求めて目的を定めるに違いない。
で、同じコトを繰り返すんだな。
この心の癖は、このまま飽きることなく、
ますます勢いをつけながら連鎖し続けるにちがいない。

・・・と思ったと同時に、
私の中でクールな観察力が芽生え出してきた。


人やシステムに対する怒りの感情、破壊してしまいたいという衝動、
これなんか貪りの心よりもより刺激的な幻想だなあ。
私にとってひどく都合の悪い人や組織は、
できれば私の目の前から消えて欲しいと願う。
邪魔なモノ。だからいなくなれば無くなれば幸福になれる、
って思ってしまう。
でも、実際怒りの原因と感じていたモノが排除されても、
私は幸福になることはできない。
なぜならば、過剰な感情、強い刺激、エキサイティングな思い、
・・・そんな刺激を欲しながら、
そんな刺激という幻想にしばられながら生きているのだから。

・・・と思ったと同時に、
私の中でクールな観察力が芽生え出してきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

止観(しかん)と加持(かじ)

2010年06月22日 | 仏教
仏さまは、分析の達人です。
つかみ所のない人間の精神活動を、
ひろく見渡し、深く洞察し、分析を徹底させていく。
私たちもこの仏の分析力に接近する努力と習慣を身につけていきましょう。

そのためにも、まずは「身心を静寂にする」ことが必要となります。
その上で、「心の観察」が可能となる。
これを、仏教の言葉では「止観(しかん)」といったり、
「加持(かじ)」と表現したりします。

止観の”止”は、幻想や過剰な欲望がおさまって、
気分がとっても静かに落ち着いた状態です。
いわば波立つ水面がぴったり止まって鏡のようになった状態。
これは加持の「持」です。

止観の”観”とは、鏡のようになった水面に、
空のお月様がお月様としてありのまま映ることです。
これが加持の「加」。

禅定によって心はありのままを正直に映しだす鏡となり、
その心の活動を一つ一つていねいに紐解くことで、
如実に自らの心が見えてくる、真理に至ると。
この一連の流れを、「加持感応(かじかんのう)」する、と表現します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする