鳥羽伏見戦跡碑
大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(1837~1913)は薩摩を討つため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。この地に布陣した薩摩砲兵の一隊と幕府軍の間で戦いが繰り広げられた。この石碑は,翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の跡を示すものである。なお,石碑の建つ小高い丘は秋の山といわれ,鳥羽離宮庭園の築山の一つと伝える
鳥羽洛南之名勝也 白河帝時建離宮于此 鳥羽帝時増修 列聖時時
臨幸游豫載在史牒不知其廃于何時土人今猶指秋山一帯地曰城南離宮秋山
東有真幡寸神社旧称城南神鳥羽氏世掌其祭祀明治紀元正月官軍大破徳川
氏兵於鳥羽街道於是鳥羽之名益著矣時徳川慶喜在大阪城遣会桑等兵犯京
師自鳥羽伏見両道而進薩長等諸藩兵奉 勅守両道鳥羽則薩藩当之三日日
暮接戦于秋山下奮闘移時賊遂潰走伏見亦同時開戦亦大克之官軍追撃南下
慶喜倉皇東還尋謝罪反正其後雖東北有梗命者旬月之間悉帰平盪豈非此一
戦為之端耶距今已四十有五年矣 皇治休隆文明之化日躋桑麻被野民生安
富欲問当日戦争之跡父老希復存者今真幡寸神社社司鳥羽重晴君与地方有
志之士胥謀以斯後維新基業所由定将立石以表遺蹟又以見 聖代恩徳之深
厚也見徴余文余*此挙乃不敢辞叙其梗概又併識往古離宮故事是亦考古者
之所宜致思也
明治四十五年二月 貴族院議員従三位勲二等小牧昌業撰
平安処士 山田得多書
鳥羽は洛南の名勝の地である。白河天皇が離宮をここに建設され,鳥羽天皇が拡張された。歴代の天皇はしばしば行幸し楽しまれたことは歴史書に載るところである。離宮がいつ廃止されたかはわからない。この地の人は今なお秋の山一帯を城南離宮とよぶ。秋の山に真幡寸神社があり,古くは城南神社という。鳥羽氏が代々神官として仕えている。
明治元年正月,官軍は徳川方を鳥羽街道で大敗させた。このことで鳥羽の名は有名になった。当時,徳川慶喜は大坂城にいて,会津藩・桑名藩などの兵を京都に派遣した。軍勢は鳥羽経由と伏見経由の二つのルートを通り,薩摩藩・長州藩などの兵は,天皇の命令によりこの二つのルートを守備していた。鳥羽ルートには薩摩藩が当り,正月三日の日暮れに秋の山で衝突した。しばらくはげしい戦闘が続き,賊軍(幕府軍)は敗走した。伏見ルートでも同時に戦闘が始まり,同様に官軍が勝利を収めた。官軍は逃げる幕府軍を追撃した。慶喜はあわてて江戸へ帰り,官軍にはむかったことを謝罪した。その後,東北で官軍にさからう者はいたが,ひと月で官軍に掃討された。
鳥羽伏見の戦は実に戊辰戦争の発端をなすものである。今を去ること四十五年。こんにちでは明治の文明の恵みが行きわたり,戦争のことを尋ねたくても,当時のことを知る人は非常に少なくなった。そこで真幡寸神社社司鳥羽重晴氏は鳥羽の有志と相談し,維新の偉業の基礎となった場所に石碑を建て,現在の日本の発展を記念することを計画した。そこでわたし(筆者小牧得業)に碑文を依頼された。そこで鳥羽伏見戦の概要を記し,あわせて鳥羽離宮のことを添えた。これもまた古いことを究明する者にとっては見過ごすことができない
発起人
真幡寸神社社司
鳥羽重晴
仝社掌
鳥羽重節
氏子総代
大橋三郎兵衛
高橋五左衛門
竹内源左衛門
小山浅次郎
西井栄次郎
山本市之助
長谷川末吉
京都石工 武輪角次郎刻
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