アートプラス京めぐり

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源氏物語の遺跡 40ヶ所

2019年01月25日 17時53分36秒 | 平安京

 

 

1  平安宮内裏遺跡(源氏物語の中心舞台) 上.下立売通智恵光院西入下丸屋町(上京歴史資料館前)

2  平安宮内裏凝華舎跡(梅壺)・飛香舎跡(藤壺) 上.土屋町通出水下る西神明町(民家)

3  平安宮内裏弘徽殿跡    上.出水通千本東入下る東神明町(民家)

4  平安宮内裏清涼殿跡(天皇の居所)  上.下立売通千本東入田中町(民家)

        源氏物語遺跡19 平安宮朝堂院昌福堂跡

5  平安宮内裏承香殿跡     上.浄福寺通出水下る西入東神明町(民家)

6  平安宮内裏蔵人町屋跡    上.下立売通千本東入田中町(民家・店舗)

7  史跡平安宮跡 内裏跡(内郭回廊跡) 上.下立売通千本東入田中町(史跡指定地)

8  平安宮内裏紫宸殿跡     上.下立売通浄福寺西入田中町(民家)

9  平安宮内裏淑景舎跡(桐壺)  上.出水通浄福寺東入田村備前町(民家)

10 平安宮内裏昭陽舎跡(梨壺)   上.浄福寺通出水下る東入田村備前町(ガレージ)

11 平安宮内裏温明殿跡(内侍所跡) 上.下立売通智恵光院西入下丸屋町(ガレージ)

12 平安宮内裏東限跡と建春門跡  上.智恵光院通出水下る分銅町(松林寺)

13 平安宮内裏南限跡と建礼門跡  上.浄福寺通下立売下る中務町(京都市立二条城北小学校)

14 平安宮内裏宜陽殿跡      上.浄福寺通下立売上る下丸屋町(ガレージ)

15 平安宮大蔵省跡・大宿直跡   上.中立売通裏門西入多門町(京都市立正親小学校)

16 平安宮朝堂院大極殿跡     上.千本通丸太町上る小山町(内野児童公園)

17 平安宮西限と左馬寮跡・藻壁門跡 中.西ノ京左馬寮町(京都市立朱雀第2小学校)

  源氏物語遺跡17 平安宮西限 左馬寮跡・藻壁殿跡

18 史跡平安宮跡・豊楽院跡(豊楽殿跡) 中.聚楽廻西町(史跡指定地)

  源氏物語遺跡18 史跡平安宮跡 豊楽院跡(豊楽殿跡)

19 平安宮朝堂院昌福堂跡     上.千本通丸太町下る東入主税町(民家)

20 平安京一条大路跡       上.一条通大宮東入石橋南半町(民家)

21 一条院跡(一条院内裏跡)    上.大宮通中立売上る糸屋町(名和児童公園)

22 二条院候補地(陽成院跡)    中.夷川通小川東入東夷川町(夷川児童公園)

23 大学寮跡           中.西ノ京北聖町(京都市立中京中学校)

   源氏物語遺跡23 大学寮跡

24 斎宮邸跡           中.西ノ京東中合町(京都市立西京)

25 朱雀院跡           中.壬生花井町(日本写真印刷株式会社)

26 西鴻臚館跡          下.朱雀堂ノ口町(京都市中央卸売市場第1市場)

   源氏物語遺跡26 西鴻臚館跡

27 羅城門跡           南.九条通新千本東入唐橋羅城門町(唐橋・花園児童公園)

28 鞍馬寺 北山の「なにがし寺」候補地 左.鞍馬本町(鞍馬寺境内、由岐神社横)

29 大雲寺旧境内 北山の「なにがし寺」候補地  左.岩倉上蔵町北山病院敷地内(旧大雲寺境内)

       源氏物語遺跡29 大雲寺旧境内 北山の「なにがし寺」候補地

30 雲母坂(比叡山延暦寺の横川への上り口)   左.一乗寺竹ノ内町(関西セミナーハウス敷地)

31 雲林院            北.紫野雲林院町(雲林院)

32 遍照寺境内(夕顔のモデル大顔の舞台)    右.嵯峨広沢西裏町(遍照寺境内) 

      寺院右0014  遍照寺 昔は大規模だった

      道標右0202  おんど 車折  遍照寺境内

      石仏右031  遍照寺の石仏 と 石柱2本

33 棲霞観跡(清涼寺) 源融別業跡  右.嵯峨釈迦堂藤ノ木町(清涼寺境内)

34 野宮(野宮神社)         右.嵯峨野々宮町(野宮神社境内)

35 大堰の邸候補地(明石君邸推定値) 右.嵯峨天竜寺芒ノ馬場町(宿泊施設らんざん)

36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡) 上.荒神口通寺町東入荒神町(鴨沂高校北側グランド南塀沿)

  源氏物語遺跡36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡)

37 蘆山寺(紫式部実家推定地)    上.寺町通広小路上る北之辺町(蘆山寺境内)

38 梨木神社(中川の家候補地)    上.寺町通広小路上る染殿町(梨木神社境内)

39 鳥辺野(葬送の地)        東.妙法院前側町(豊国廟参道・七条通東大路東入北側)

40 大原野神社(藤原氏ゆかりの地)  西.大原野南春日町(大原野神社)

 

41 まち歩き下1594 京の通り・堺町通 NO71 石碑・源氏物語 夕顔


源氏物語遺跡19 平安宮朝堂院昌福堂跡

2019年01月25日 17時51分29秒 | 平安宮

 

 

平安宮朝堂院昌福堂跡

朝堂院は八省院とも呼ばれ、国家の政治や儀式を執り行う中枢の場であり、現在の国会議事堂に相当する施設である。

昌福堂は、平安宮朝堂院の12堂の1つで東側北端の最上位に位置する。規模は、72間の南北棟で、

東・西各3ヶ所に階段があり、建物内には太政大臣や左大臣・右大臣の座が設けられていた。

2007年に当敷地で行われた発掘調査では、昌福堂跡の北辺基壇最下段を構成していた凝灰岩の延石4石が

東西に約3m残存していたことから、ここが昌福堂の北端に位置することが判明した。

検出された延石はこの下に保存されている。

この調査結果を古地図とあわせて検討した結果、昌福堂は南北33m、東西18m規模の建物であることが判明した。

『源氏物語』では、光源氏は33歳で太政大臣になっているので(「少女・おとめ」)

儀式などの際にはこの昌福堂に坐していたことになる。平成203月 京都市

 

 

源氏物語ゆかりの地  ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

 


源氏物語遺跡18 史跡平安宮跡 豊楽院跡(豊楽殿跡)

2019年01月25日 13時14分49秒 | 平安京

 

 

史跡 平安宮跡 豊楽院跡

朝堂院の西側にあったのが、豊楽院で、延暦19(800)以後に完成した。規模は東西171m、南北402mあり、この正殿が豊楽院である。東西に楼閣を備え、その南方には回廊でつながる長大な4つの堂が建っていた。豊楽殿には天皇が御して国家的な饗宴が行われ、特に正月元旦、大極殿での朝賀の後の饗宴は盛大であった。しかし、9世紀中ごろ以降は豊楽殿から紫宸殿へ儀式の場が移り、11世紀に入ると次第に荒廃し、康平6(1063)の焼失後は再建されなかった。正月七日この豊楽殿では、前庭に白馬を牽き出して天皇が御覧になり、宴を催す白馬(あおうま)節会がある。『源氏物語』「少女」で、源氏が二条院で白馬節会を行っているが、実際に当時の貴族邸で催されていたかは不明である。1988年に豊楽殿の北縁西側が発掘調査され、緑釉瓦で縁取りされた建物は、東西9(39)、南北4(16)と判明し、検出遺構は史跡指定を受け保存されている。また2007年には豊楽殿北廊跡とその北にあった清暑堂南縁が検出され、幅5.2mの西側階段を構成する凝灰岩の一部が見つかっている。調査の結果、北廊は清暑堂(東西基壇幅35)造営と一連に造作され、当初は単廊で後に拡幅されたことが判明している。平成203月 京都市

 

 重要文化財

 

 

源氏物語 関連 ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

 


平安宮011  豊楽院 

2019年01月25日 10時53分26秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

史跡 平安宮跡 豊楽院跡

(清暑堂跡 及び 豊楽殿北廊跡)

豊楽院(ぶらくいん)は、正月元日の節会、七日白馬の節会、16日踏歌の節会、11月の新嘗祭と天皇即位後の大嘗会などが行われた国家の饗宴の施設です。豊楽院の完成ははっきりとしませんが、文献から9世紀初頭には完成していることが分かっています。

この場所は、豊楽院の正殿である豊楽殿の真北に位置し、天皇控えの建物である清暑堂と、豊楽殿と清暑堂を繋ぐ豊楽殿北廊(以下北廊)にあたります。平成19年度に発掘調査が行われ、清暑堂と北廊の一部を確認することができました。

清暑堂では、基壇の盛土と、基壇の外装である凝灰岩を抜き取った痕跡が認められることから、清暑堂の基壇幅は東西約35m、南北約11mで、清暑堂と豊楽殿が約30m離れていることが判明しました。さらに、豊楽殿の階段幅(5.2)と同じ幅をもつ階段(西階段)が基壇に取り付いていたことが分かり、凝灰岩が組み合わさった状態で残っていました。

北廊では、版築による基壇の盛土と、屋根から落ちる雨水を受ける塼敷(せんしき)が残っていました。北廊は2度にわたって拡幅されており、北廊創建当初は、基壇幅6.4(1期)であったものが幅12.0(2期)に、さらに幅13.4(3期)に広げられていることが分かりました。

 

先の豊楽殿跡の発掘調査で、北廊は豊楽殿創建時には存在していなかったことが明らかになっており、今回の調査では、清暑堂と北廊の取り付き部分が注目されていましたが、清暑堂の中央には階段は存在せず、清暑堂と北廊は同時に造営されたことが判明しました。

清暑堂の規模を明らかにできたことは、豊楽院の解明を進めるための定点となり、北廊の変遷は、調査面積の狭い平安宮跡において重要な成果であることから、平成2年2月22日に「史跡平安宮豊楽殿跡」として指定を受けた豊楽殿跡を含めて、平成20年7月28日の「史跡平安宮豊楽院跡」と名称変更、追加指定されました。

 

 

 

 

 

 

平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所


平安宮010  豊楽殿跡

2019年01月25日 06時30分37秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

史跡 平安宮豊楽院

平安宮内には、天皇の住まいである内裏をはじめとして多数の役所が軒を連ねてました。国家的な儀式を執り行う場所として平安宮の南中央部には朝堂院が、その西側へは豊楽院が設けられました。豊楽院は、おもに天皇の饗宴を行うことを目的に造営されたものですが、先の都である平城宮や長岡宮には造られていません。

198710月から翌年にかけておこなった発掘調査によって、豊楽殿(豊楽院の正殿)の基壇の西北隅と北側建物への渡り廊下の一部を発見することができました。

盛り上がった土壇の周りに細い溝が巡っていました。これは基壇を化粧するのに用いた凝灰岩を据えた跡で、切り石の一部が部分的ではありますがよく残っています。こうした基壇を壇上積基壇といいます。これにより、今から1200年前に造られた頃の姿を知ることができます。基壇の上で、5ヶ所の礎石を据え付けた位置を確認することができました。

豊楽殿は東西(桁行)9(39.3)、南北(梁間)4(16.2)の建物で、屋根には緑色した瓦(緑釉瓦)が葺かれていました。鳳凰が羽を左右に大きく広げた姿をレリーフした緑釉の鴟尾も発見しています。

今回豊楽殿の北側で見つけた渡り廊下は、造営された時にはなく、後に造られたこともあきらかになりました。敷地内の一段高くなっている所は、基壇跡と廊下跡の一部です。平安宮跡の中でこのように基壇跡が今でも高く盛り上がっているのはこの付近だけです。

平安宮豊楽殿は、古代宮都を解明する上で重要な遺跡であることから平成2年度国の史跡に指定されました

 

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