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源氏物語遺跡17 平安宮西限 左馬寮跡・藻壁殿跡

2019年01月31日 16時37分31秒 | 平安京

 

 

 

平安宮西限と左馬寮跡・藻壁門跡

藻壁門は宮城14門の1つで、平安宮西面の南から2番目の門である。切妻・瓦葺の門で正面5間に三扉が付く。焼亡・転倒の記事が多い。この門を入ってすぐの東南に左馬寮があり、さらに東へ進むと豊楽院・朝堂院の北端に至る。

左馬寮は、南にある右馬寮とともに嵯峨天皇の時に再編されたもので、宮中の馬の飼育・調教や馬具、及び諸国の牧を管理する役所で、その長官を左馬頭(さまのかみ)と呼んだ。『源氏物語』「帚木(ははきぎ)」では、「雨夜の品定め」の場面に、光源氏や頭中将とともに女性談議に興じる左馬頭なる人物が登場する。

 

 

 

源氏物語ゆかりの地 ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

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源氏物語遺跡36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡)

2019年01月31日 13時33分38秒 | 平安京

 

 

 

法成寺跡

寛仁3(1019)、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に落慶供養、以降10年ほどかけて金堂・薬師堂・釈迦堂・五重塔など壮麗無比な諸堂が出現した。平安京外の東一帯に位置することから、「北東院」とも呼ばれ、鴨川から臨むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれている。度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきたが、14世紀前半にはかなりすたれた(『徒然草』)、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅した。ここには寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑がある。発掘調査では法成寺跡の遺構は見つかっていないが、鴨沂高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦が出土している。

 

 

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石碑中0187  神泉苑 東西端

2019年01月31日 11時34分00秒 | 石碑

 

 

東端

 

西端


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石碑前回の記事 ⇒ 祠中043 鵺(ぬえ)大明神   石碑中0186 鵺池碑

 


平安京005  平安京左京北辺三坊六町

2019年01月31日 06時29分30秒 | 平安京

 

 

平安京左京北辺三坊六町 内膳町遺跡

当マンション建設地は、縄文晩期から弥生時代の集落跡である内膳町遺跡及び、平安京北辺三坊六町跡に該当する。平安時代この地には天皇の食事の調理などを司る内膳司の厨町が存在した。平安中期にはすでにこの内膳町は廃絶し、富裕な受領であった前安芸守藤原資良(すけよし)の邸宅があった。中世には「清浄華院(しょうじょうけいん)」が観応2(1351)に移転し、桃山時代に現在地(京都御苑の東側)へさらに移転する。その後は大名の邸宅が営まれた時代があった。

今回の調査では平安京造営にかかわる様子の一部が明らかとなった。条坊遺構(土御門大路)に先行する北東から南西に斜行する溝と、それを廃絶し埋めた後に成立する土御門大路の一部、平安時代の池が見つかっている。

斜行溝には平安京初期の土器が含まれており、平安京施行当初に物資を運ぶ運河として利用されたものとも考えられる。土御門大路は物資の搬入後に運河を埋めて作られたものと見られ路面からも平安京初期の土器が出土しており、平安京造営の様子の一端を見ることが出来た。この地が私領化されるとともに庭園が整備されたと考えられ、鎌倉時代の前半にはこの地は完全に埋まっている。

中世の遺構(柱穴や土壙)もある程度認められ、清浄華院関係の遺構と考えられる。桃山時代には聚楽第が整備されるとともに大名屋敷が設けられ、金箔の瓦を屋根に乗せて威容をほこったものとものと思われる。当調査地で出土した「橘」文の主は五奉行の一人であった前田玄以(15391602)の可能性が高い。

 

 

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