平安時代この周辺一帯には、天皇の居所である内裏や現在の国会議事堂に相当する朝堂院、国家の饗宴施設である豊楽院のほか、二官八省など数多くの役所建物が建ち並び、国家の政治の中心地でありました。各場所に設けられた説明板などを巡りながら、平安王朝の雅な世界に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
朝堂院(ちょうどういん)
朝堂院は八省院ともいわれ、現在の国会議事堂に相当する南北470mを越す大規模な施設です。正門の応天門を入ると左右に朝集堂があり、さらに会昌門を入ると12堂が建ち並び、それぞれに役人の座が設けられていました。12堂の北側には、身分差を表す龍尾壇が設けられ、広場の東には青龍楼・西には白虎楼がありました。この交差点の北側には平安宮最大の建物で、屋根には緑釉瓦が葺かれた正殿の大極殿がそびえていました。
豊楽院(ぶらくいん)
豊楽院は、朝堂院の西隣にあった国家の饗宴施設で、南北400mを越す長大な施設です。天皇が出御されて新嘗祭・大嘗祭の宴や、正月慶賀・相撲節会・射礼などの国家行事が、ここで開催されました。
これまでの発掘調査で、正殿てある豊楽殿跡とその北の清暑堂跡及び両建物を繋ぐ廊跡が見つかり、史跡指定され保存されています。
朝堂院の正殿である大極殿は天皇の即位式などの重要な国家行事が行われるところです。正月元旦には、天皇が正殿の大極殿に出御して、皇太子以下文武百官から拝賀を受ける朝賀の儀なども行われました。
内裏は天皇の居所で、南半は紫宸殿など政治やセレモニーの場として使われ、北半の後宮は清涼殿など天皇の私的な空間で構成されていました。『源氏物語』の「桐壺」はこの後宮を舞台にした物語です。
平安宮にあった二官八省のひとつ中務省は、天皇を補佐し、詔勅(天皇の命令)の宣下や叙位などの朝廷の職務全般を担当する役所で、東南には、占い・天文・時(漏刻:水時計)・暦などを職掌する陰陽寮がありました。陰陽師安倍晴明もここで活躍しました。
平安宮(大内裏)は、東西約1.1㎞、南北約1.3㎞の規模を有し、周囲を高い築地塀と隍(ほり 濠)で囲まれ、
多くの役所建物が建っていました。これまで行われた数多くの発掘調査で、建物跡のほか、
築地塀跡や溝跡などが見つかり、文献資料や陽明文庫の「宮城図」などから、内裏や朝堂院、
豊楽院ほかの役所のあった位置がほぼ明らかになっています。
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