大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(1837~1913)は薩摩を討つため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。鳥羽街道を北上する幕府軍と,これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍は,この地小枝橋で衝突した。幕府軍1万5千人と官軍6千人の激しい戦いであった。この石碑は,翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地を示すものである。
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋
小枝橋は、慶応四年(一八六八)正月三日に京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。大政奉還し大阪城にいた徳川十五代将軍慶喜は薩摩を討つため上洛を決意します。大阪から淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がア-ムストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の激しい戦いが始まります。 こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。
贈 京都伏見ライオンズクラブ 平成十年七月建立
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道とかに 斜めに 設置されています
正面が愛宕山に正対するようにしてあるのだろうか
弘化2年 の建立 弘化2年は 1845年だ 鳥羽伏見の戦いの時1868年には 真っ只中に建っていた
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この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、11世紀の末、応徳3(1086)年に造営されたものを、昭和38年から42年にかけ調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる。
元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と別に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場殿があった。それは淀川につながる大きな池沼の近辺に配置されていたものである。北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のためこわされていた。東殿は、いまの安楽寿院附近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。田中殿は遺跡がみつかっている。馬場殿は、城南宮の北と考えられるがあきらかでない。城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よせて、後鳥羽上皇が13世紀のはじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。
これらの御所に付属する仏殿として、南殿に証金剛院、北殿には勝光明院、東殿には安楽寿院と成菩提院・不動堂があり、田中殿には金剛心院があった。南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中間廊・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている。
鳥羽離宮について記された文献は数多いが「平家物語」巻3に見る「秋の山の春風に 白波瀬に折懸 紫鴛逍遥す」この歌は、当時の鳥羽離宮の環境を示して最も印象的である。
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