この通りは 六軒町通(南北)南を見ています 左右の道は 出水通(東西)右が西方向
平安宮 宴の松原
平安宮中央部西寄り、豊楽院(ぶらくいん)の北側にあった広場で、「縁(えん)の松原」とも記され、南北約430m、東西約250mの広がりをもち、この説明板はその東端近くにあたる。
呼称から宴の場として用いられたと考えられるが、その事実を示す記録はない。また、平安宮の南北中心線を挟んで東側の内裏と対称の位置にあたることから、天皇の代替わりに当たって内裏を建て替えるための予備の空間として用意されたという説がある。しかしながら、天長6年(829)、宴の松原南東部に密教の加持祈祷を行う真言院が設けられたものの、平安時代を通じて大規模な施設が造営されることはなかった。むしろ『大鏡』や『今昔物語集』などの文学作品には、仁和3年(887)8月に松の樹下で女性が鬼に殺害されたという話や、若き日の藤原道隆(953~995)が、弟の道長と夜に競った肝試しで、右衛門陣から豊楽院へ行く途中、宴の松原あたりで聞こえてくる声に怯えて一目散に逃げ帰ったなどのエピソードが収められている。
この区域では、これまでに広い面積の発掘調査が実施されていないこともあり、遺跡の詳細は明らかではないが、丸太町通や六軒町通、七本松通沿いの調査では、地表から60~70㎝の深さで、平安時代の整地層が見つかっている。出土遺物も多くないことから、記録とおり平安宮内に広大な空き地が広がっていた状況が想像できる。
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