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史跡中042  鵺池  鵺退治の鏃(やじり)を洗ったところ 

2019年01月26日 12時40分26秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

(ぬえ)池伝説

二条公園の北側には鵺池という小さな池がありました。傍らには不鮮明ですが鵺池碑て書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神

の祠があります。そこには新しく復元された碑が建っています。

平安時代、二条公園を含む一帯は、天皇の住まいである内裏や、現在の国会議事等に当たる大極殿を正殿ととする朝堂院、そして今の内閣に相当する太政官など、国家政治の中心となる官庁街でした。

『平家物語』巻4によると、院政期とも呼ばれる平安時代後期、深夜、天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺(ぬえ)であったといい、その時に血の付いた鏃(やじり)を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています

 

 

 

昔からあった 鵺池碑

 

 

 

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       鵺(ぬえ)の正体 トラツグミ 恐ろしい声で鳴く

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡南041 鳥羽殿跡

 

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まとめ042  陵墓

2019年01月26日 06時52分26秒 | テーマ数々

 

 

 

72 陵墓左041 建礼門院大原西陵 

71 陵墓左040 最胤法親王 墓

70 御陵左039 後鳥羽天皇・順徳天皇  法華堂

69 陵墓左038 後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵  承久の乱の人

68     陵墓左037 宗諄女王墓

67    陵墓左036 冷泉天皇 桜本陵

66    陵墓左035 智成親王 墓

65    陵墓向日034 淳和天皇火葬塚

64   陵墓向日033 桓武天皇皇后高畠陵

63     陵墓長032 土御門天皇 金原陵

62     陵墓左031 実相院宮陵

61   陵墓左030 冷泉天皇 皇后 岩倉陵

60     陵墓右029 後嵯峨、亀山、後伏見天皇火葬塚  

59  近衛天皇火葬塚

58  後冷泉天皇 火葬塚

57  大歓喜寺 、大聖寺宮墓

56  清和天皇陵 水尾山陵

55  文徳天皇陵

54  嵯峨天皇皇后 嘉智子 嵯峨陵

53  堀河天皇火葬塚

52  二條天皇香隆寺陵 23歳で亡くなる

51  白河天皇火葬塚  43年間の院政 

50  後朱雀天皇火葬塚  小学校のすぐ前にありました

49  光厳天皇髪塔

48  花山天皇 紙屋川上陵

47  後二條天皇 北白河陵 ・後二條天皇皇子 邦良親王墓

46  後白河天皇法住寺陵  平清盛や木曽義仲、源頼朝を翻弄

45  光孝天皇  後田邑陵 

44  醍醐天皇 後山科陵

43  光明定院墓

42  桓武天皇 柏原陵  散歩に訪れる人も多い

41  大光明寺陵  JR桃山駅の南

40  嵯峨天皇陵  見晴は抜群

39  伏見宮・久邇宮墓  

38  陵墓  慶光天皇 他

37  林丘寺宮墓地

36  衣笠山を目指して2   宇多天皇   大内山陵

35  円融天皇火葬塚 衣笠山をめざして5

34  一條天皇陵 堀河天皇陵  衣笠山を目指して6

33  三条天皇陵

32  一條天皇・三條天皇火葬塚

31  御室陵・・・

30  般舟院陵

29  桓武天皇 皇子 仲野親王 高畠墓

28  陵墓 遊義門院今林陵

27  陵墓左027 後嵯峨院天皇中宮  大宮院粟田山陵

26  陵墓左026 惟喬親王 陵墓

25  陵墓北025  媞子内親王 火葬塚

24  陵墓南024  浄菩提院塚 陵墓参考地

23  陵墓東023 仁明天皇女御 贈皇太后澤子 中尾陵  道標東0122 中尾陵

22  陵墓府022  筒井浄妙墓

21  陵墓府021  以仁王  神社府0108  高倉神社

20  陵墓東020 六絛天皇 高倉天皇 御陵

19  陵墓東019  鳥戸野陵  藤原道長はここで火葬にされた

18  陵墓東018 守脩親王・淑子内親王・朝彦親王 墓

17  陵墓伏017  十二帝陵

16  陵墓東016  東山本町 陵墓参考地

15  陵墓伏015  伏見松林陵

14  陵墓伏014  仁明天皇 深草陵

13  陵墓伏013  伏見桃山陵  明治天皇・昭憲皇后 陵墓

12  陵墓山012   人康親王

11  陵墓山011  天智天皇陵

10  陵墓西010  大枝陵  高野新笠 桓武天皇の母

9  陵墓西009  宇波多陵  桓武天皇の夫人

8  陵墓右008  暲子内親王 陵  父・鳥羽天皇 母・美福門院 弟・近衛天皇 

7  陵墓右007  後宇多天皇陵 

6  陵墓右006  花園東陵 統子内親王

5  陵墓上005 後花園天皇火葬塚

4  陵墓右004  禮子内親王 陵墓

3  陵墓右003  後宇多天皇髪塔

2  陵墓右002 花園西陵 鳥羽天皇皇后 璋子

1  陵墓右001  長慶天皇陵

 


祠中043 鵺(ぬえ)大明神   石碑中0186 鵺池碑

2019年01月26日 06時07分55秒 | 町内の小さな祠

 

 『平家物語』によると,近衛天皇(113955)の代,毎夜黒雲が立ち込めて御所を覆い,天皇を怯えさせていた。源頼政(110480)が,怪しい姿を発見し弓矢で射殺したところ,頭は猿,胴体は狸,尾は蛇,手足は虎,鳴き声がトラツグミ,という怪鳥(ぬえ)であった。この碑は,鵺退治で使用した矢の鏃を頼政が洗ったと伝承される池跡を示すものである。なお,元禄13(1700)年に建てられた原碑が摩滅し,現在では北面の題額部に「鵺池碑」の3字が確認できるだけなので,昭和11(1936)年に復元碑が公園の北に隣接する鵺大明神社内に建てられた。碑文は復元碑による。

鵺池碑

元禄13(復原碑1936)

建立者  太田毎資(復原碑出水学区有志)

我源朝臣松平紀伊君在京之日家臣太田毎資亦来居焉其宅後有

一池曰鵺池俗伝以為頼政卿嘗滌射鵺鏃之地矣今毎資者道潅七

世之孫而頼政卿遠裔也故聞斯事喜適居其地且懼其就泯減因使

予録其事上石鳴呼追遠之心不亦美乎遂書銘曰

   怪鳥当射   志不可敵   休矣邦彦   其声太逖

      元禄庚辰三月望日                              松崎正祐記

鵺池碑 碑文の大意

 わたし(筆者松崎正祐)の主君であるは丹波篠山藩主松平紀伊守が京都所司代に任じられ京都に赴任していたとき,家臣の太田毎資もまた主君に従い京都に滞在していた。毎資の官舎の庭に池があり,鵺池と呼ばれていた。源頼政卿がかつて鵺を射た矢じりを洗った地だと伝えられていた。

 実は毎資は太田道灌の七世の孫で,頼政卿の末裔である。だからその地に居をかまえた事をたいへん喜んだ。それだけではなく,この池の伝承が消え失せることを心配し,石碑を建ててわたしに碑文を書かせた。なんと美しい先祖を思う心情ではないか。この碑文は以上のような次第で書いたものである。(以上原碑の碑文)

この地は昔から鵺池と呼ばれていた。池のほとりに碑がある。しかし徳川氏の世になり京都所司代屋敷の中に取り込まれてしまった。だからその当時出版された京都ガイドブックの類には記されていない。

 明治の初めに所司代屋敷跡に監獄が置かれた。それでもなお碑は大切に保存された。ただし雨風にうたれ文字は次第にすり減って見えなくなった。昭和2(1927)年に京都監あらため京都刑務所が山科に移転し,昭和9年,跡地に二条公園が設けられた。そのころにはまったく碑文が読めなくなっていたので,心ある人は残念に思っていた。

 ところが元看守長青山咸懐氏という人がいて,在職時に原文を写していた。かすかに残る碑文の跡と青山氏が写した碑文の二つを総合したら碑文がはじめて明らかとなった。そこで有志が相談し,もとの碑とは別に新しい碑を建てて碑文を刻み,後世に伝えるものである。(以上昭和11年復元時の碑文)


 

此地古来称鵺池池辺有碑詳誌其伝説而及徳川氏執政柄地属所

司代之邸内以故当時所刊行名所誌之類或憚而不記焉維新之初

就邸址而置監獄猶用意於保存但碑石則風餐雨虐文字漸磨滅後

撤獄舎昭和九年新設二条公園之比至不可復読有志以為恨也偶

有元看守長青山咸懐氏在職之間手記原文両者相対照而主文始

歴如恨事乃除矣於是有志相謀更選碑石刻之以伝後世云爾

      昭和十一年三月望日                  出水学区建碑有志

 

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       鵺(ぬえ)の正体 トラツグミ 恐ろしい声で鳴く

前回の記事 ⇒ 祠北042 岩倉川 十王堂橋 付近 の草に覆われた祠

        寺院南0545 法傳寺   石碑南185 戊辰東軍戦死者之碑

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