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平安宮017 朱雀門 17

2019年01月30日 21時45分04秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

平安宮 朱雀門跡

朱雀門(すざくもん)は、平安宮(大内裏)の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7(梁間2)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城12門の中でも最も規模が大きい。

朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅城門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。

平安時代の終わりころ頃に描かれた国宝『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』には、炎上する応天門へ急ぎ駆けつける群衆とともに朱雀門が描かれている。その姿は、壇上積基壇の上に建てられた壮大な瓦葺き朱塗りの門で、5間戸の全面には階段が敷設されている。

朱雀門の造営当初の具体的な規模や、その後の変遷については、発掘調査例がなく不明である。ただ、千本通りで実施した朱雀門跡推定地における立会調査で、平安時代の整地層が確認されている。

なお、朱雀門の前面は広い儀礼の場となっており、毎年恒例の6月と12月の大祓とともに、斎内親王(斎宮)の伊勢群行や大嘗祭などに伴う臨時の大祓などが朱雀門前で行われた。また、寛弘4(1007)の藤原道長による有名な金峯山参詣の折にも、土御門第から朱雀門大路に出て祓(身を清める神事)を行い、羅城門()から平安京を出立しており、朱雀門前の広さを物語るエピソードとして興味深い。

このように、平安宮の象徴的な門である朱雀門も、承元2(1208)9月に火災に遭い、翌年再建されたが、構造的欠陥からか建暦元年(1211)に自然倒壊し、以後は二度と再建されることはなかった。

 

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平安京004 土御門邸跡

2019年01月30日 18時54分27秒 | 平安京

 

 

土御門内裏跡   平成八年八月

 

土御門内裏は,鳥羽(110356)崇徳(111964)近衛(113955)三代の天皇が約24年間にわたって利用した方一町規模の里内裏。平安京大内裏を模して造営された最初の里内裏で,もと源師時(10771136)の土御門邸があった。たびたび火災などに遭遇したが,保元元(1156)年の再建が中止されて廃絶した。


 

土御門烏丸邸の沿革

平安京左京一条三坊九町にあたるこの地北は上長者町通、南は下長者町通、東は烏丸通、西は室町通は10世紀 村上天皇皇子具平(ともひら)親王の邸宅が造営され、12世紀に至って、曾孫源師時(もろとき)の邸宅・土御門第となった。白河院近臣の権勢者・藤原顕隆(あきたか)

この地を買得して内裏を模した最初の里内裏を営み鳥羽天皇から崇徳・近衛と続く三代、24年もの間、天皇の御所だった。この里内裏も、保元元年(1156)の乱によって廃絶した。鎌倉・室町時代には清浄華院が移ってきたが、のち豊臣秀吉により寺町に移され、そのあとには黄金塗瓦葺きの大名屋敷が建ち並んだものの、これも秀吉の伏見城造営に際して伏見に移された。江戸時代の寛永12(1636)になって水戸藩邸が営まれたが、幕末の文久4(1864)烏丸通を挟んで東向かいにある蛤御門(禁門)で起こった戦火により全焼した。現存する水戸彰考館所蔵史料の多くはこの藩邸で蒐集されたものである。明治時代に入った後は転々と所有者が変わり、平成8年その一部が京都ガーデンパレスとなった。平成8年仲秋

財団法人 古代学協会・古代学研究所

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平安宮019  高陽院跡

2019年01月30日 15時59分40秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

 

後一条天皇行幸の様子を描いた駒競行幸絵巻(重要文化財・和泉市久保惣記念美術館蔵)

 

『駒競行幸絵巻』に描かれた高陽院。関白の藤原頼通が自邸に甥の後一条天皇(正面に裾が見える)を迎えて催した際の宴の様子(万寿元年・1024)。右手に座っているのが東宮・敦良親王(後の後朱雀天皇)。簀子宴(すのこえん)には美しい模様の裾を高欄に懸けた公卿らが居並ぶ。池には奏楽を乗せた龍頭鷁首(りゅうとうげきす)が浮かび、当時の貴族の華麗な遊びがうかがえる。

 

 

高陽院(かやいん)の庭園

当所は、宇治の平等院鳳凰堂を建立したことで知られる摂関・藤原頼道が平安時代中頃(11世紀)に造営した邸宅、高陽院跡です。

高陽院の敷地は4町(250m四方)に及び、他の貴族の邸宅の4倍もある最大級のものでした。当時の高陽院は寝殿造の邸宅の四周に2つの池と四季の庭を配し、「駒競行幸絵巻」に万寿元年(1024)の後一条天皇行幸の様子が豪華絢爛に描かれ、池に船を浮かべています。また、後朱雀・後冷泉・後三条・白河天皇の里内裏(内裏以外での天皇の住まい)としても使用されました。昭和63年9月に石田大成社本社ビルの建設工事に先立ち、京都市埋蔵文化研究所が発掘調査を行い、庭園の一部が見つかりました。庭園は池を伴い、ゆるやかな曲線を描いた州浜があり、要所には景石が配され、絵図や文献でしかうかがえなかった貴重な遺構が発見されました。

発掘された景石を使って当ビル屋上に庭園の一部を復元、「この高陽院殿の有様、この世のことと見えず・・・」と『栄華物語』に記された華麗な様子を彷彿とさせています。平成23年5月5日

財団法人 京都市埋蔵文化財研究所  株式会社 石田大成社

 

 

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平安宮018 平安宮造酒司倉庫跡 13  造酒司倉庫跡柱穴

2019年01月30日 10時40分24秒 | 平安宮

 

 

京都市指定史跡 平安宮造酒司跡(みきのつかさ)

平安時代、国家政治の中枢である平安宮にあった造酒司は、ミキノツカサ・ゾウシュンあるいはサケノツカサとも呼ばれる宮内省所属の官司で、天皇や中宮などに出す供御及び朝廷の諸節会・神事に用いられる酒・醴(あまざけ)・酢などを醸造していました。造酒司のあった場所は『宮城図』(陽明文庫蔵)などによると、広さは一町(120m)四方を占め、現在の中京区聚楽廻松下町の京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)付近と推定されています。

『続古事談』によると、造酒司には大きさの違う醸造用の大瓶が三口あり、それぞれ口の部分二尺程(60)を地表面に出して、下は土中に埋め込んで据えてあったことなどが記されています。

1978年の京都市社会教育総合センター(当時)の建設に伴う事前発掘調査では倉庫跡を検出しました。この建物跡は、掘立柱構造、規模は方3(東西6m、南北7.2m)で、柱の痕跡から柱径は40㎝前後に復元できます。構造が均等に柱を配置する総柱建物であることから、醸造用の米などを保管する高床式倉庫の遺構と考えられています。柱穴からは少量ですが、平安時代前期の土師器、須恵器、瓦が出土しており、この建物が平安京遷都後の比較的早い段階で建設されていたことが判明しています。平安宮跡ではこれまで数多くの発掘調査をしていますが、全体が市街地化しており、建物跡がまとまって検出した例は極めて少なく、本倉庫跡のように平安京創建時跡のように平安京創建期の建物一棟分の遺構が良好な状態で検出できたことは特筆すべことです

 

高床式倉庫の遺構 

 

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