アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

神社伏0076-2 御香宮神社2  伏見義民  桃山天満宮

2016年10月27日 05時09分22秒 | 神社

 

 

大手筋木鳥居旧基礎石について

江戸時代・萬治2年(1659)紀州徳川頼宜は当神社境内入口の大手筋に石鳥居を奉納した。その鳥居は寛文年間の大地震により倒壊、その後数度の建替を経て、明和4年(1767)に現今の鳥居が奉納された。数回の修理後、平成10年9月の台風により傾斜したのを機に解体修理を行った。今回修理にあたり基礎を鉄筋コンクリートにて補強するのに際して旧来の柱根石を交換したが、柱根を支えていた石底根石は再利用している。ここに十数トンの重さを支えていた基礎石の状況を図示して、往時の土木技術の状況を図示して、往時の土木技術の確かさを感じ取っていただければ幸いである。平成11年9月 吉日

 

 

延享 丁卯 

延享5年(1747)

 

伏見義民事蹟

天明5年(1785)、時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら七人を伏見義民という。

江戸時代(1603~1867)伏見は交通の要衝として栄え、政治・経済上重要な地であったため、幕府の直轄地として奉行所が置かれた。安永8年(1779)に奉行となった小堀政方は数々の悪政を行い、住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものがあった。

文殊九助丸屋九兵衛麹屋伝兵衛伏見屋清左衛門柴家伊兵衛板屋市右衛門焼塩屋権兵衛の7人は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を座視するに偲びず、苦心惨憺の末、天下の禁を破って幕府に直訴した。このため、天明5年(1785)政方は奉行を罷免されたが、九助ら七人も獄中で相ついで病死した。この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である。毎年5月18日には伏見義民顕彰会によって慰霊祭が執行される。京都市

 

 

天明5(1785)年9月,伏見の町人文殊九助丸屋九兵衛が寺社奉行へ出訴した。これは伏見奉行小堀政方が町人に対し不法な御用金を課したことなどを訴えたものである。その後京都町奉行所や評定所で審理が行われ,天明8年5月に小堀は改易,出訴当事者として調べられた町人7名は御構いなしという判決が出された。しかし7人ともすでに病死や牢死で判決時に在世したものはいなかった。

  明治になり,小室信介『東洋民権百家伝』(明治16年刊)で取り上げられ,自由民権運動のさきがけとして注目された。この碑は7人の同志を顕彰するために,事件落着後百年を期して建立されたものである。

  なお,この碑の礎石は古代寺院の塔心の礎石ではないかという説がある(京都新聞1994年1月12日付朝刊)。

 

伏見義民之碑

   内大臣三条実美書

        (印)(印)【白文印「藤原実美」朱文印「梨堂」】

 【以上題額】

 いにし天明の頃伏見のさと司とれる某とかや奢つよく私多かりけれは酷吏ねちけ人」

 等時を得其私を助け政あらぬ方にみたれ行民其たつきを失ひ歎きのさきり深くして」

 払はむすへなかりしに里人文珠九助ぬし才賢こく志実やかにて思を潜めもろ人の為に」

 身の難をかへり見す同し志の友丸屋九兵衛麹屋伝兵衛柴屋伊兵衛焼塩屋権兵衛板屋市」

 右衛門伏見屋清右衛門等と密に謀心思を一にし万苦をしのきいくかへりか江戸に出て歎き」

 訴ふる所あり終に此真心貫きて呉竹の伏見の里人の為に直なる道ふみ開き其苦」

 厄を払らひたりしに此事半にして伝兵衛ぬしは病に死九助ぬしは事果し後天明八とせ」

 正月三日九兵衛ぬしは同しき月廿三日江戸の旅寝の露と消えぬ今哉其没後百とせを」

 経ぬ此里人遠を慕ひ義にいさみもゝとせも猶一日のこゝちして其なきたまを祭り其」

 いさをを世に伝むとす嗚呼むかしも今も鬼いはらよもきはことに茂り安し九助ぬし」

 の如きはそをかり払ふよき利鎌といはむ歟 明治二十年月日 海舟散人誌」

 

 

当社は学問書道の神「菅原道真」をお祀りしています。その昔、御香宮の東に蔵光庵というお寺がありました。1390年

頃(室町時代)この寺の僧の夢枕に菅原道真がたたれました。数年後、同門の僧から菅原道真の画像が贈られました。それは夢で見た雄型と同じであったので、僧は自分の学問を守って下さる神として寺の中に天満天神としてお祀りしました。

江戸時代、「山ノ天神」として伏見の町の寺子屋の子供等は、2月と6月には必ずお参りしていました。

しかし、次第に荒れてきましたので観音寺の僧教覚が町の中にお遷ししようと、本谷市造と、宮大工坂田岩次郎の協力を得て、20年間の歳月をかけて1841年(天保12年)に完成しました。この時、坂田岩次郎は使用した大工道具を完成御礼として奉納しました。この大工道具約70点は日本の木造建築を支えた道具文化財として大切に保存されています。

洛南保勝会

 

 

 

菅原道真を祭神とする旧村社、俗に「山の天神」といい、はじめ桃山の中腹にあった竜幡山蔵光庵の鎮守社であるが、伏見築城に際して寺は嵯峨臨川寺の東にうつし、神社は前田家の屋敷内に祀られた。伏見城破却のとき、前田家も取り払いとなったが神社は残った。しばらく旧地にあったが、天文10年(1541)御香宮神社の西に移され、次いで昭和44年(1969)現在の地に移った。什宝に天保12年(1841)、造営時に用いた大工道具一式および「渡唐天神図」がある。

 

去来の碑

 

明治35年6月25日(1901)

一千年祭 建立 

 

 

 

 

牛の親子が彫られています

厳島社

 

老松社 

白太夫社

 紅梅殿

 

この石碑は

大正15年に建立されている

 

 

 

天満宮の歴史が書かれています 

 

祭神は菅原道真。もと木幡山の中腹,御香宮神社旧地の東方にあった竜幡山蔵光庵の鎮守社。伏見城の築城によって,庵は臨川寺(りんせんじ,右京区嵯峨北造路町)の東に移され,天満宮は同所に築かれた加賀前田家の邸内に祀られた。その後城下町伏見の衰退とともにと荒廃し,天保12(1841)年に御香宮の西,現近鉄桃山御陵前駅前に社殿が再興された。のち昭和44年,御香宮神社境内に遷宮された。この碑は明治35(1902)年の菅原道真千年祭にあたり,天保12年の再興の経緯を記して記念としたものである。なお碑文の撰者鳥羽重晴は真幡寸神社社司。

 

此の天満宮社はし応永のむかし伏見石井庄に鎮座豊公桃山城を造営み

 諸藩邸を造らしめらるゝ加賀前田侯邸内なるは遠祖の縁に依て祠を

 改造祭祀も荘厳に挙行れしを時世変遷さしも殷盛なりし桃山城は

 荒さるあはれ祠宇も葎の中に朽果なむ状なるを観音寺住職山本教

 覚工匠阪田岩次郎は赤心を振起し教覚は資金を募集篤志者本

 谷市造之を賛敬和次郎は工事を負担廿年間一日の如く共に労き天保十

 二年此所に瑞の神殿美しく造竟遷し奉しは最も愛き事なりけり然を

 許々多の年月を経て甚く破損しかは社掌矢野弟一郎有志の人々と謀り

 修理ひ奉り又社務所社標玉垣等新設明治三十五年六月千年の

 大祭仕奉ぬ如此社頭の光輝のます随に神威もいよ@@益曜き渡るらん今般

 岩次郎男忠兵衛発起て此事跡を碑になしけるになん 

 

    京都御幸町六角                        宇治郡山科字八軒

       阪田忠兵衛               谷口清三郎         田島与三吉

 発   北村与三次郎            山田常次郎         前田常吉

       本谷市兵衛               西岡卯八            前田幸吉

       清水半兵衛               高城清蔵            武田清助

 起   藤岡伊兵衛               山崎又右衛門      吉川芳之助

       長谷川清三郎            荒木三郎兵衛      森清次郎

       桜井又兵衛               山崎末吉            久乗広吉

 人   楠本定治                  西定治郎            田村久吉

       一ノ瀬清兵衛            若代隼太郎         長谷川伝吉

       山田吉三郎               藤本定七            矢野弟一郎

                                        

 

 

御香宮  前回の記事  ➡  神社伏0076-1   御香宮神社1

 御香宮  次回の記事  ➡ 神社伏0076-3 御香宮神社3  道標 車石 東参道

 神社 前回の記事  ➡  神社山0075  蝉丸神社

 

今日の川柳

絵に描いたような正直者の友  /菅原

 

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まち歩き滋賀0212  琵琶湖疏水 大津閘門

2016年10月26日 14時16分23秒 | まち歩き

 

『大津閘門(こうもん)』ここでは京都より、また、琵琶湖より乗り入れた

舟の水位を調節するために作られている。

2つの閘門の間に入った舟は、水位の調節を受けて京都に、

また琵琶湖に漕ぎ出していく。

閘門の扉を開閉する機械。

昔はすべて手動式でしていたが、当時としては、最新の技術であった。

 

上流から見たところ

 

 

 

下流から見たところ

 

 

 

敷地内にありました

明治天皇聖蹟

 関連記事 ➡ 各所にあります 明治天皇 行幸地 など

琵琶湖疏水 前回の記事  ➡  まち歩き滋賀0211  琵琶湖疏水を渡る京阪電車 石山坂本線

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き滋賀0211  琵琶湖疏水を渡る京阪電車 石山坂本線

 

今日の川柳

未完の絵誰にも底は覗かせぬ  /定本

 

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まち歩き滋賀0211  琵琶湖疏水を渡る京阪電車 石山坂本線

2016年10月26日 08時07分37秒 | まち歩き

 

 

 

向こうに 見えるのは 三井寺

すぐ左に 三井寺の駅がある

 

2両の運転

まち歩き 前回の記事  ➡ まち歩き滋賀0210  琵琶湖疏水 第2取水口

今日の川柳

長電話用件忘れまた電話  /喜久

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神社伏0076-1   御香宮神社1

2016年10月26日 06時24分21秒 | 神社

 

表表門

元和8年(1622)徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した旧伏見城の大手門と伝わる薬医門で、重厚な屋根を腕木でささえているさまは、いかにも城門らしい感がある。また正面4個の蟇股には、中国の故事に因んだ彫刻があり、豪華なそ装飾は見られないが、雄大で豪壮の気あいは桃山時代建築の特徴をよくあらわしている。なお棟の両端に「しゃち」をのせているのは珍しく、城郭形式の名残。

 

 

 

 

 

御祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇など九柱を祀る。

社伝によれば、貞観4年(862)境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、「御香宮」を賜った。

以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたが、度々の兵乱や天災により荒廃した。文禄年間(1592~96)豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたが、慶長10年(1605)徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重要文化財)が建立された。表門(重要文化財)は、旧伏見城の大手門と伝えられている。宝物として、秀吉の寄進した金熨斗付太刀(重要文化財)を蔵する。

境内には、伏見義民文殊九助らの顕彰碑がある。毎年、10月の神幸祭は、伏見祭・花笠祭とも呼ばれ、神輿や花傘、獅子などが出て、盛大に行われる。 京都市

 

昭和15年2月  建立  

紀元2600年 と同じ年だ

 

 

弘化2年  (1844) 

 

文化2年 (1804)

大坂屋七兵衛

播磨屋治兵衛

鳥羽屋 伊助

 

 

伏見城の遺構 主な建物(京都市周辺)

伏見城に関係する建物は、廃城後にさまざまなところへ移築され、リサイクルされました。★のついているものは豊臣時代の伏見城を移築したものですが、それ以外は徳川時代の伏見城を移築したものです。

 

★  源光庵(北・鷹峯) 本堂・血天井

★ 正伝寺(北・西賀茂) 方丈・血天井(元金地院←伏見城←聚楽第)

  観音寺(上・三番町)  三門 

  ➡寺院上0114  観音寺 浄土宗 百叩きの門 よなき地蔵 千人堂 

 

★勝林院宝泉院(左・大原) 廊下・血天井

 大雲寺(左・岩倉) 本堂(寛永年間)

 南禅寺(左・南禅寺) 小方丈

 南禅寺・金地院(左・南禅寺) 方丈

 長楽寺(東・円山町) 本堂(元正伝寺の法堂←金地院か?)

★高台寺(東・下河原町) 表門・傘亭・時雨亭・観月台

★養源院(東・三十三間堂廻り) 客殿;血天井

  ➡  養源院  宗達寺といわれたり、血天井のお寺とも

 

  豊国神社(東・茶屋町) 唐門(元金地院にあり、聚楽第ともいう) 

  ➡  豊国神社

 

  西本願寺(下・門前町) 浪ノ間・虎ノ間・玄関

  ➡  西本願寺の総門 西本願寺  本願寺 太鼓楼  

 

  正行院(下・東塩小路町) 本堂 

  ➡  猿寺と呼ばれています。悪事災難が去る(猿) 正行寺

 

★ 妙心寺天球院(右・花園) 血天井

  二尊院(右・嵯峨二尊院門前) 総門

★ 常寂光時(右・嵯峨小倉山) 本堂

  御香宮神社(伏・御香宮門前町) 表門 

★栄春寺(伏・桃山町丹下) 観音堂・血天井

  東本願寺伏見別院(伏・大阪町) 元徳川向島屋敷か

  醍醐寺三宝院(伏・醍醐)  唐門

  平等院(宇治市) 南門・北門

★平等院浄土院(宇治市) 客殿養林書院

★興聖寺(宇治市)  本堂

★神応寺(八幡市)  書院

 

神社 前回の記事 ➡   神社山0075  蝉丸神社

次回の 記事  ➡  神社伏0076-2 御香宮神社2  伏見義民  桃山天満宮

 

今日の川柳

異常なし途端に歩幅広くなり  /寺田

 

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道標滋賀0070  三井寺観音道

2016年10月25日 10時35分52秒 | 道標

ここは 観音寺西

 

 

右 山王唐崎道

右 三井寺観音道

文政10年(1826)

道標 前回の記事  ➡  道標東0069  亀山天皇分  粟田山

今日の川柳

もの言わぬ妻ほど怖いものはない  /鈴木

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史跡滋賀016  大津城  

2016年10月25日 08時22分35秒 | 史跡・旧跡

 

 

戦国時代の終わり、豊臣秀吉は坂本城を廃し、この付近一帯に大津城を築きました。築城年代は天正14年(1586)頃とされ、初代城主は坂本城主であった浅野長吉(長政)、その後、増田長盛新庄直瀬を経て、文禄4年(1595)に京極高次が就任しています。高次の妻は浅井三姉妹の次女「お初」でしたが、慶長5年(1600)の天下分け目の関ケ原の合戦においては、東軍についたため、西軍の大軍が大津城に押し寄せ、奮闘の末、関ケ原の合戦当日、開城しています。高次は西軍の大軍を引き付け、結果として関ケ原の勝敗を大きく左右したとしてその後、加増のうえ小浜藩主に転封しています。

大津城は合戦の翌年に廃城。徳川家康は、新たに膳所の地に天下普請第1号として膳所城を築いています。なお、大津城の天守は、落城しなかったという縁起をかついで彦根城に移されています。この付近は、復元された城の縄張図と照らし合わせると、西側の外堀に位置します。城が膳所に移された大津町は、その後、東海道と北国海道の分岐点として商業都市としての性格を強め、東海道五十三次の宿場町の中ではトップクラスの人口を有する町として繁栄しました。

 

三重の堀に囲まれている

史跡 前回の記事 ➡  史跡中015  名和長年 もう1つの戦死地 三条

今日の川柳

幸福な時だと思う朝御飯  /浦

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まち歩き滋賀0210  琵琶湖疏水 第2取水口

2016年10月25日 06時55分52秒 | まち歩き

水面は静かだ 流れている様子がない

 

取水口  琵琶湖側

 

京都市上下水道局  琵琶湖第2疏水取水口

 

水利使用標識

 

平成28年 9月27日  撮影   後日行った時の様子 

ゴミを回収しているのかな

疏水 前回の記事  ➡   まち歩き滋賀0209  琵琶湖疏水 第1取水口

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き滋賀0209  琵琶湖疏水 第1取水口

今日の川柳

団塊は遊び上手で生き上手  /山原

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石碑滋賀0065  三保ケ崎 琵琶湖周航歌碑

2016年10月24日 12時13分50秒 | まち歩き

  よく歌ったなあ

三保ケ崎は、琵琶湖疏水掘削の際に埋め立てられた岬であったが、

明治26年(1893)、三高水上運動部がはじめて競技用のボートを進水させ、

第1回琵琶湖周航に出発したところであり、

その発祥の地に記念のため建てられた碑が

200m湖岸よりの京都市水道局用地内にある。

主碑の表面には「われは湖の子」と刻字され、

副碑にはその全歌詞が刻まれている。

 

 

 

石碑 前回の記事  ➡  石碑伏0064  台湾献木  台湾総督府

今日の川柳

たまにはねお話しよう足の裏 /古崎

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まち歩き滋賀0209  琵琶湖疏水 第1取水口

2016年10月24日 06時04分41秒 | まち歩き

ここの水が 京都に送られる

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き滋賀0208  琵琶湖 朝の浜大津港

 

今日の川柳

半世紀経ても校歌の温かし   /斉藤

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まち歩き滋賀0208  琵琶湖 朝の浜大津港

2016年10月23日 11時07分52秒 | まち歩き

平成28年9月15日  撮影

秋の空だ

 

遊覧船  ミシガン

 

 

 

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き滋賀0207  浜大津駅 と 大津絵

今日の川柳

猫までが 妻の真似して 俺またぐ /東京男性

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まち歩き滋賀0207  浜大津駅 と 大津絵

2016年10月23日 09時27分41秒 | まち歩き

 

西方向を見る

 

反対ホーム

 

駅構内に飾られた

大津絵

 

鬼の寒念沸

 

藤娘

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き右0206  地下鉄の階段

今日の川柳

やっと立ち 受話器を取れば 電話切れ  /奈良女性

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石碑伏0064  台湾献木  台湾総督府

2016年10月23日 06時54分48秒 | 石碑

 台湾献木  と書かれています

 

植樹総数  壹萬本(1万本)  品種 

扁柏  紅桧  羅漢松

台湾杉  台湾椿   ・・・

 

 

台湾総督府

 関連記事  ➡  乃木神社 全国にあるのでしょうが ここは、明治天皇陵の近くです

石碑 前回の記事 ➡ 石碑左0063  吉田松陰 詩碑

 

今日の川柳

希望なし 目標なくて 自由あり     /山形女性

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まち歩き右0206  地下鉄の階段 

2016年10月22日 22時41分39秒 | まち歩き

 

 

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き伏0205  京都一周トレイル 東山F1 ~F3

今日の川柳

血糖値プリンひとつの幸福度 /阿部

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まち歩き伏0205  京都一周トレイル 東山F1 ~F3

2016年10月22日 20時03分32秒 | まち歩き

京都を取り囲む山々をめぐる 山道をたどる 道標です

 

出発点は 東山F1

 

 

 

伏見区には 武家の名前のついた町名などが多いところです

この公園は

松平筑前 とあります

JR桃山駅にある道標 東山F3

 

東山トレイル ➡  まとめ004 京都一周トレイル

まち歩き前回の記事 ➡ まち歩き伏0204  御香宮門前町  黒田節発祥の地

今日の川柳

 

  髭剃ってつるんと今日を生き延びる  /板谷

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