これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

隙の無い状態

2015-03-03 23:51:27 | 武道のはなし
達人の佇まいとは、空気のように透明なものです。
しかし、そこに隙はありません。

若い頃は、筋肉をガンガン鍛えて腕力をつけたりスピードを磨いたりするものです。
相手と対峙をした時は、隙を作るまい、絶対に入らせまいと全身からブワーッと気合いを出していたかと
思います。
覇気とかオーラとかいうやつですね(笑)
全身ハリネズミのようになって、寄らば斬るゾの気迫です。

今日は武道の話ですが、心の持ち方についての比喩にもなっていますので、オーバーラップさせて読んで
頂けると幸いです。

全身クマなく針を出し続けるのは、心がとても疲れます。
そして、ふと心が緩んだところに隙が出来てしまいます。
心を緩めまいと必死に頑張っても、自分の観えているところしか針を出せていないと、頭隠して尻隠さず
で、他のところが隙だらけになります。
ならば、それも無くそうと、またガンガン鍛えてさらに気合いを出していくわけです。

それはまるで炎の鎧を着ているようなイメージです。
相手に入らせまいという気持ち、斬られる前に斬ってやるという気持ち、それら我欲が燃えたぎって
います。
炎の鎧は、執念の心です。
確かにそれは強いものではありますが、長くは持ちません。
少しずつ心が疲弊してきます。
外向けの炎は、内をも焼き尽くすのです。
努力の人は、折れそうな心すらバネにしてさらに炎を燃やしますが、それは内には健康問題として、
外には家庭問題や人間関係として、様々な形で表に現れるようになります。

ただ、年齢とともに体力が落ちていくと、拠り所を無くした心は気迫を失っていきます。
自信過剰な慢心が薄れ、弱気の虫が出てきます。
本来はそれこそが、執着や囚われを薄めるための、天地自然の計らいなのですが、それまでの生き方に
自分の存在を投影させてしまっている人は、それを失うことが自分を失うことに思えてしまいます。
それがアンチエイジングとなり、度を過ぎると老醜となってしまいます。
なぜならば、それは本当の自分を弱々しいものだと思い込んでいる状態、本当の自分を受け入れて
いない状態だからです。
本当は誰よりも自分を受け入れるべき「自分」が、他の誰よりも自分を受け入れていないわけです。
天地の全てが嘆き悲しむ事態です。

武道の話に戻りますと、我欲の炎をバチバチぶつけあっている試合は、観ていて気持ちいいものでは
ありません。
見た目が分かりやすいので、外国人はそちらを好む傾向にあるようですが、私たち日本人は、やはり
シーンと心が落ち着いた者同士が全力でぶつかり合っている試合の方を好みます。
それは我欲のぶつけ合いではなく、それまで研鑽してきた自分の「今」を、互いに混じり気なしに
出している姿だからです。
勝ち負けの結果などはどうでもよくなり、ただ、その姿に心奪われます。
観ている人たちの心は洗われ、澄んだ状態になります。

武道で礼節を重んじる理由や、 勝敗よりも心の在り方を重視する理由も、そこにあります。

ガッツポーズや相手への不敬など、醜悪の極みです。
相手より上だ下だという幼稚な優越感や、勝った負けたと見た目に囚われるさもしさ、自分こそが
強いという自己顕示と自己満足・・・
それらは全て上っ面の価値観でしかありません。

スポーツは純粋な娯楽や運動として楽しむだけならば何の問題もありませんが、それが勝ち負けに
重きを置くようになってしまうと、少々キナ臭くなってまいります。
もちろん勝ち負け自体は何も悪いものでありません。
それはただ、結果を表現したものです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
そして、目指す先があればこそ、過程がより充実します。
そういう意味での勝敗が無ければ、面白さも半減してしまいます。
ですから、それは遊びをより充実させるためのスパイス、方便であればいいのです。
いけないことは、それに囚われてしまうことだけです。

勝つためにお互い頑張る。
その過程を楽しむ。
勝負が終われば、即ノーサイドです。
しかし、勝ち負けに囚われてしまうとあちこちギクシャクしてきます。
遊ぶ楽しさだけに向いていた心が、他へ分散してしまい、楽しさそのものが薄まっていくきます。
知らず知らずのうちに、上っ面の価値観や囚われを強化していくことに全力疾走していたりします。
そうなると”健全な精神は健全な身体に宿る”どころではなくなります。
社会に出てからも、勝ち負けの囚われに縛られ続け、苦しみの元となってしまいます。
本来スポーツ自体は何も悪くないのに、それへの関わる姿勢で全く別物になってしまうわけです。

子供の頃は、結果など気にせず、ただ遊んでいるのが楽しくて仕方なかったはずです。
楽しいという感覚に全身を投じていたわけです。
でもそれが、勝ち負けに大人が一喜一憂する姿を見ているうちに、心の向きがブレ始め、純粋な喜びが
徐々に薄れていってしまったのです。

スポーツは、もちろん健全な精神を育みます。
ただ、スポーツの場合は初めから勝ち負けを目的としており、勝敗の大義のもと優越感や自己満足の
高揚を肯定してしまっているのが危険なところです。
ただ一方で、「今」だけに集中しきることの充実感を体験できるという素晴らしい部分もあります。
勝ち負けをニンジンとして鼻の先にぶら下げることで、苦しいトレーニングにも正面から向き合い、
「今」に集中しきることができる、そして気づけば上達という形をともなって自分の視野も変わる。
落とし穴と純粋性は紙一重です。
勝敗というものをあくまで方便として割り切れるかどうかが、天と地ほどの違いになると言えます。

それらをうまいことやってる例としては、中年オジさんの草野球があげられるかもしれません。
勝ち負けに嬉しがったり悔しがったりするわけですが、この場合は悔しさも本当に楽しんでいます。
体力の限界を知ればこそ、楽しみの向きが、勝敗よりもプレーそのもの、つまり遊びそのものに集中して
いるわけです。
我欲に囚われないスポーツであれば、これほど心に良いものはありません。
すべては私たちの心次第ということです。

武道も、結果よりも心の在り方を重視します。
本当の喜び、本当の美しさとはどこにあるのかを導き示します。
見た目の囚われを無くし、凝り固まった視界を開かせることに重きを置きます。
そして、我欲を払った心の清涼感と、穏やかな広がりの中にある幸福感に気づかせます。
それらを刻んでいる過程に喜びを見いだして、その後の結果は付け足しと見なします。

ガッツポーズを唾棄したり、敗者に敬意を表するというのも、決して綺麗事からではないのです。
それは相手に失礼だとか、惻隠の情だとか、そのような浅い理由ではありません。
そこで分かったつもりになって思考停止させてしまうと、かえって危険です。

子どもの頃を思い出すと、遊んでいる最中の喜びに身を投じていれば、終わったあとにも幸福の余韻が
残ったものです。
勝ち負けの結果は、それはそれとして理解するのですが、喜びの対象はむしろ過去にあるわけです。
「いやぁ、ホントに面白かったなぁ」と。
そして、その喜びの瞬間を共に分かち合った相手には肩を叩いて親愛の情を示すのです。

それが、形としては敗者への敬意に見えていたりするだけです。
過程を楽しみ尽くせば、結果などオマケでしかないのです。
ガッツポーズを諌めるのも、”いったいオマエは何処を見ていたのか””何を楽しんでいたのか”という
だけのことです。

しかし、それが外国人には分かりにくいようです。
目に見えないものを深く味わうことが、習慣として馴れていないのかもしれません。
ですから、一部の武道は方便として勝敗を設けられているだけなのに、それがスポーツと味噌クソ一緒に
なってしまったりするのです。
その過程や心の在り方などスッ飛ばして、見た目に分かりやすい勝ち負けへフォーカスしてしまうのです。
残念ながら、オリンピックの柔道は完全にスポーツと化してしまいました。
武道の本質は、囚われやすい心や固定観念をクリアにするところにあると思います。
私たちの視野の外に、幸せや喜びがあることを気づかせるものです。
ですから自分自身を磨くということに繋がってくるわけです。
何としても、この日本の中だけでも、武道としての柔道を遺して欲しいと切に願うばかりです。


武道であっても、スポーツ同様、自分の心次第で毒にも薬にもなります。
上手くなりたい、結果を残したい、という気持ちがあまりに強すぎてそれに囚われてしまうと、自分の
中心から外れていってしまい、出口のない迷宮へ迷い込んでしまいます。
しかし、その気持ちを上手に使って、厳しい稽古へ心を向けるためのモチベーションにするならば、
一転して「今」に集中した過程を刻むことになります。
染み付いた心癖を取り払わない限りは、武道も諸刃の剣であるわけです。

冒頭に書いたハリネズミのような姿なども、外から来るものを弾き返そうとする心の現れです。
自分のまわりに壁を作って相手を入れさせまいとしているわけです。
表現を変えれば、それは固定観念の強化、自分の世界の強化です。
そして勝ち負け意識が強いと、その壁を強固なものにしようとさらにガチガチにしていってしまいます。
これではお互い、どこまでいっても我執の背比べになるだけです。
第三者としては、そんな雰囲気には近づきたくもないですし、観ていて何一つ心は動きません。

しかしながら、達人の佇まいはこれとは全く異なるものです。

そもそもが、柔らかい空気、透明な雰囲気です。
そこに壁はありません。
つまり、心のガチガチが無いのです。
囚われや執着がないため、天地に溶け合った状態です。
それは、ただ観ているだけで何故か幸せな気持ちになってきます。
でも、ホッコリしているからといって小さく観えるわけではありません。
むしろ、天地宇宙と隔たりがなくなっていますので、果てしない大きさを感じます。
そして、どこにも隙がないのです。
打とうにも打てない。
打ち込めないのです。

相手に飲まれて動けないということではありません。
それ以前に、見えない何かのせいで物理的に入れない感覚です。
打つ前から制されているというか、入ろうという気持ちがゼロにされてしまうわけです。
そのくせ、達人の方は、何かを作為しているようなことはありません。
相手を無効化しようとか、制止しようとかは一切考えてません。
ただ、そこに居るだけです。

つまり、それが「今」に中心を置いている状態ということなのです。

「今」にビシッと自分の全てを置いている。柱を立てている。
まさに、心御柱(しんのみはしら)です。
天地宇宙に自分の御柱を立てる。
そこに、圧倒的な存在感とともに、微動だにしない「今」が現れているのです。
その揺るぐことのない感覚を、私たちは隙がないと感じるのです。
何か仕掛けようとする思いが霧散するわけです。
その一方で、もしもこちらが親愛の心であれば、まるで磁石が惹かれるようにスーッとその間合いの中へ
吸い寄せられるのです。

天地宇宙に溶け合ったフルオープンの感覚のまま、「今」の一点に自分を100%置いた状態。
それこそが、達人の姿です。

そして、自分がそこに入れるか入れないかは、こちらの心の持ち方次第で180度変わってくるのです。
決して、達人自身が心を切り替えているわけではない。
天地宇宙と一体になっている時点で、むしろ全てを受け入れている状態です。
こちらの心次第で、勝手に跳ね返ってしまっているだけなのです。
これは、まさに天地宇宙というものがそうであることを示しています。
「神よ、何て無慈悲なんだ」と嘆くのは、お門違いなのです。

入るも相手次第、入らぬも相手次第。
全てを受け入れる心とは、物事がなるようになるのを見守る心でもあるのです。


天地宇宙へフルオープンになるのと同じく大事なのが、自分の中心をしっかりと立てることです。
それが欠けたままで、ただ天地宇宙へ溶け込んでいくのは、フワフワ流されるクラゲ状態です。
これは、風呂に入ってボーッとしている状態と同じです。
あれはあれで、雑味を無くして心を解放させた感覚を掴むのに最高のものですが、だからといって
あの状態のままで日常生活に出るのは危なっかしくて仕方ないでしょう。
湯船のあのボーッとした状態で街中を歩いたらどうなるか、考えればすぐ分かると思います。
数メートル以内でチャリに引かれます(笑)
ですから、心を広げるためにはあの開放感は絶対に必要なのですが、視界をシャキッと鮮明にさせること、
つまり「今」に焦点を合わせることがセットになって初めてバランスが取れるのです。

例えば、カメラも絞ってピントを合わせることで目の前の全景が鮮明に写ります。
瞳孔が開いたままではボヤけた景色しか見えません。
光を集中させること、焦点を合わせることが大切なわけです。
といって、心をギュッと締めるということでは決してありません。
単に、心を向けるだけでいいのです。
明確に向けるということが、集中することになっているのです。

自分を自分の「今」に立てること、つまり「今」に心を向けることが、天地の中心の「今」を鮮明に
させることになります。
それは、外に向けてエネルギーを出すものではなく、ただそこに在る状態です。
但し、これ以上ないほど「明確に」在る状態です。

一方で、天地宇宙と隔たりなく広がった感覚にあることが、エネルギーに満ち溢れ状態となります。
これも内から外へ流れるものではなく、天地宇宙に偏在した状態です。
外から来るものに対してぶつかるのではなく、全てを受け入れる状態であるのです。


そのような状態を目指すために武道では、基本稽古を重視しています。
移ろう心をシュッと集中させるために、反復動作を行ないます。
余計なことを何も考えず、ひたすらその動きだけに100%集中するのです。

「ヒゲ剃りに集中、ドライヤーに集中、着替えに集中」と今までシツコク言ってきたのは、そうした
稽古や訓練と同じものと言ってもいいかもしれません。
集中しようと漠然と思いながらやっていると、すぐに何か他のことを考えてしまうものです。
ですから、そうなった時は「今のこういう心癖を無くしていくための稽古なんだ。訓練なんだ。」と
割り切った方が、囚われに惑わされず集中しやすくなるかもしれません。

こうした一つ一つの積み重ねが、他の場面での条件反射へなっていきます。
逆を言えば、そういう小さな場面で心が散漫になってしまっているということは、散漫になる稽古を
いつも繰り返していることになります。
それが日常のあらゆる場面での、知らず知らずの散漫になってしまうわけです。
小さなことに集中できなかったら、大きな場面で集中することは不可能です。
ましてや、散漫になっていることにすら気がつけないとなると、集中しようとするキッカケすら失って
しまうことになります。

歯磨きや着替えなど、小さなこと一つ一つに集中していると、ハッと散漫になっている自分に気づきます。
これが大事なのです。
気がついて、それを正そうと思うことができるのです。
他の場面で散漫になっている状態にもハッと気がつくことができるようになるのです。
しかしそうした散漫が当たり前になってしまうと、最早それに気がつくことができません。
麻痺した状態になってしまうわけです。
ですから、そうしたものをリセットする場面が大切になってくるのです。

どんな大きな場面に観えようと、どんな小さな場面に観えようと、等しく価値ある「今」に変わりありません。
ヒゲ剃りでもドライヤーでも、その「今」を安く見ずに、きっちり集中していくことが、結局は全ての「今」を
等しく集中していくことへと繋がっていくのです。

この場面は重要だから集中しようとか、ここは手を抜こうとか、そういうことではなくなるのです。
だから心癖の訓練が大事なのです。

一つだけ細かい例をあげてみます。
着替えている途中や、ドライヤーで髪を乾かしている最中に、ハタと何か思いついた時には、「あと少し
だから」と、考えごとをしながら続けてしまいます。
でもそういう時は、その作業をやめて思いついたことを先にやるか、あるいは忘れてもいいと割り切って
元の作業に集中するか、どちらかです。
忘れたら困ることであるならば、なおさら意識は散漫になりますので、それはメモに書くなり何なりして
一旦リセットさせて、スッキリした状態で元の作業に集中するのがいいと思います。
ですから、洗面所や居間などにポストイットのような手軽なメモ紙とペンを置いておくといいかもしれません。
ただ、風呂で思いついた時は、もう諦めるしかないですね(笑)


四六時中、気を張ったままでいますと、心は本当にグッタリ疲れます。
あれこれ忙しくなると、どうしても頭の芯の部分がキュッと締まって緊張状態となります。
仕事でトラブルが続いたり、家の家事に追われたり、通勤ラッシュにもまれたり、おかしな人が近くにいたり
すると、グッと気を張って心を硬くしてしまいます。
それは、全身ハリネズミのようにしてエネルギーを放出している状態です。
疲れるだけでなく、気力も枯れてしまいます。

ですから、そういう時は毛穴の緊張を解いて、天地に向けて感覚をフルオープンに開き、頭の芯の部分と
後頭部あたりでギュッとなっている締まりをスッと緩めてみるのです。
それから自分の中心の一点にストンと心を置いて、そして目の前の「今」に気持ちを向けましょう。
ただ、そこに在るだけです。
一切余計なことをする必要はありません。

そうすると、何もしなくとも、変なものは入ってこなくなります。
逆に、それ以外のものは全て入ってきます。
そして自家発電ではありませんので、疲れ果てることもありません。
むしろ元気になります。

なぜならば、それが天地の姿だからです。

両手で囲わず、大海に溶けて一つとなった状態。
天地宇宙の中心が「今」に定まった状態。
この天地の姿は、文字通りの「自然体」です。

そしてその、天地の神氣に満ち満ちて、天地宇宙の中心が在る状態。
それこそが「隙のない状態」なのです。



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