我欲を払って目の前の「今」に集中すると、清らかな風が吹きぬけます。
それは自分の内だけではなく、日々に刻む「今」にも吹き抜けていきます。
その場所にはとても清らかな雰囲気が漂います。
そしてそれを向けた対象(仕事や作品)からは、とても気持ちの良い感じを受けます。
心が洗練されればされるほど、その風は深くまで沁み通ります。
それが長きにわたって積み重ねられれば、一層の厚みが増していきます。
我欲の心も強いエネルギーですが、透き通った心もまた強いエネルギーとなります。
夾雑物のない“空”というものが、天地に満ちるエネルギーそのものになります。
つまり、透明な心とは祓いのエネルギーでもあると言えます。
エイッという気合いも祓いのエネルギーですが、透明な心はスーッと清らかに相手を内側から綺麗にさせます。
この涼やかな風は、混じり気のない天地の心そのものです。
例えば、見渡すかぎりの大自然に囲まれた時、私たちの身体には澄み切った風が通り抜けます。
また何百年もの感謝が捧げられた場所では、心の内がスーッと軽くなってとても穏やかな気持ちになっていきます。
頑固一徹な職人の作品を前にすると、訳もなく心惹かれ、時を忘れて無我になります。
箱根駅伝や高校野球のような、みんなのために気力を振り絞って頑張る無私の心を観ると、胸の奥から熱い感動が湧き上がます。
美しさとは清らかさです。
混じり気のない透明感です。
それは我欲や執着など一切無い澄んだ状態です。
その風に触れた時、私たちの心の雑念はきらびやかに霧散していきます。
爽やかな風は混じり気のないものから漂います。
そして、澄み切ったものとは「真善美」にあります。
「真善美」とは、荘厳な大自然だったり洗練された芸術作品だったり、何千年も重ねられてきた伝統美だったり、いずれも作為や我執が一切なく
天地の心に溶けあったものです。
本物からは天地の清らかな風が漂います。
もしかしたら、芸術品などは自分なんかには分からないと思ってしまうかもしれません。
でもそれは分かる分からないという尺度で考えてしまうからです。
知識など必要ありません。
そこから醸し出される雰囲気が全てです。
目が肥えるというのは、見た目や知識ではなく、雰囲気を感じ取る皮膚感覚が研ぎ澄まされていくことだと思います。
ですから分かる分からないではなく、幸せな感覚になるかどうかであるわけです。
作品というのは、実際に生で観るのと観ないのとでは天地ほどの違いが生じてくるということになります。
知識がなくても、我執の無い透き通った作品というのは観ているだけで心が落ち着いてきて、いつまでも眺めてしまうものです。
それというのは、自分の我執が祓われて天地と溶け合っている状態であるわけです。
ああだこうだと論評したりせず、その清らかな雰囲気の中に自分をフルオープンにして天地の心にゆっくりと浸かるのが、鑑賞の醍醐味だと言えます。
ただ、いくら作品が素晴らしかったとしても、大勢の見物客にモミくちゃにされながらではなかなか落ち着いて浸ることはできません。
有名な作品を単に視覚として見るのでは、機械的に写真を撮るのと何も変わりません。
皮膚の感覚でしか風は感じ取れません。
あるいは、時間を気にしながら慌ただしく見てまわるのも同じです。
「見た」「行った」という即物的な囚われはやめて、雰囲気を肌で味わうのがリアルというものです。
そのためには時間をたっぷり取って、何にも追い立てられない状況でリラックスして毛穴を開いてフルオープンになるのが一番です。
オーケストラや観劇にしても耳や頭で分かろうとすると何も楽しめなくなります。
ズブの素人だからこそ、素直に純粋な心を広げて皮膚の感覚を澄ませていく。
上手いか下手かなんてどうでもいい。
気持ちがいいかどうかです。
私はまだ機会がありませんが、能や文楽などの伝統芸能もそうした肌感覚で雰囲気を味わえば、内容が分からなくても幸せな気持ちになるのではないかと思います。
演技というものも我執の差が清らかさの違いになってきますから、私たちの心が澄むほどに気持ち良さの違いを感じられるようになってくる
でしょう。
絵画や書も同じです。
技術的な素晴らしさ以上に、ただ見ているだけで心が落ち着いてくるものがあります。
そうしたものを部屋に飾ったりするのは、まさに自分の心を清らかにするためであるわけです。
だから、誰もが気持ちよく感じる作品はそれだけの高値がつくということです。
ただ、いくら有名な作品であっても貴重だ高価だという固定観念で眺めてしまうと、その風はピタッとやんでしまいます。
どんなに澄み切った作品であっても、受け手がガチガチ頭の唐変木だったら、それはそのまま「どこ吹く風」となってしまいます。
何ごとも結局は自分の心一つなのです。
私も昔は、芸術など分かるはずもないし分かりたくもないと、ひねた見方をしてました。
そんな生意気な後ろ頭を引っぱたかれたのは、伊勢の徴古館に行った時でした。
ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、そこは伊勢神宮の宝物を展示している場所です。
しかし、いかんせん地味です。
伊勢詣りに来たのに博物館に行こうという気はなかなか起きないでしょう。
私が行った時も館内はガラーンとしていました。
そうして何とはなしに眺め始めたのでしたが、思わずエッと絶句して固まってしまいました。
ふーん……………んっ!?
という感じです。
いやいや、実はこれ凄くないかい!と。
そのくせ何が凄いのかよく分かってない。
ただ、とにかく目が釘付けになってしまう状態。
そこにあったのはそれ自体は全く主張していませんでした。
でも吸い寄せられるように見入ってしまう。
そうしてよくよく見てみると、漆を惜しみなく使っていたり値段も手間も凄いことになっていることにようやく気づくのです。
しかしそれ自体はそれを感じさせない素っ気ないシンプルさです。
まさに理屈を抜きにし立ち尽くしてしまうばかり。
「本物」の凄みを知りました。
そんなものが、スポットライトをあてるでもなく普通にサラッと置かれている。
ギャップにも程があります。
というか、私が舐めてかかってただけなのですが 笑
二十年に一度の遷宮では、奉納される宝物もすべて新調されます。
各分野の当代随一の職人たちが、熟練の極みに達した年齢で大役を仰せつかることになりますので、これはもう一生に一度の大仕事です。
しかも相手は神様。
日本国民総体の大神様です。
そこにきて自分が歩んできた道の集大成になるのですから、一心不乱の全身全霊になることでしょう。
宝物は神様に捧げるものですから、人の目には触れられず二十年たてば土に埋められてしまいます。
誰かに見せるためのものではありませんし、評価判断されるものでもありません。
ただ、神様への真心だけです。
そうしますと、それは自分自身への嘘いつわりのない心ということになります。
実際、少しくらい手を抜いても誰にも文句など言われることはありません。
神様ご自身だって、それを良くも悪くも思わず、ただそのまま見守られるだけでしょう。
でも、自分は自分自身に嘘をつけません。
それで良しとするかどうかは自分が一番わかっています。
当然、材料も手間もこれ以上ないほど最上最高のものになります。
その上、まわりから評価されようとか上手く見せようという我欲も一切ありませんので、一所懸命の境地、真剣勝負の結晶となります。
神様への奉納は、同時に、自分自身への奉納になるということです。
そんなものがポンと置かれていたわけです。
本来は埋められるはずのものが、研究と伝承のために特別に保管されていたのでした。
そこには雑味の削ぎ落とされた、真に澄み切った心が現れていました。
とても清らかな風がサーッと流れ込んできました。
真善美に触れると自分の心も清らかになることを実感した瞬間でした。
囚われや執着で濁っている時、それを手放して軽くなる方法は様々にあります。
これまで書いてきたように子供のようにハシャぐのもその一つです。
あるいは一意専心で目の前のことに集中しきることも一つです。
ただ、自分の力だけではどうしようもない時があります。
たとえば、体調がどん底の時や心が疲れきって抜け殻のように枯れ果てている時、あるいは心の芯深くまで傷つき切ってこれ以上1秒たりとも
外の空気に触れられないような時などです。
そういう時に、頑張れとか楽しめとか言っても絶対に無理であるわけです。
ムチャ言うなってことです。
そういう時には、まさにこのような「真善美」が一つの手になるのではないかと思います。
具合が悪くて静かに過ごしたいのに、枕元でハイテンションに看病されたら有り難いどころか、ただシンドいだけでしょう。
心が無防備である時にガツガツした心を向けられるとダイレクトに受けてしまいます。
頑張れとか、こうすればいいとか、あれこれ言われても無理なのです。
そういう時は、ただそっと静かに見守って欲しいはずです。
そして雑味のない透き通った心を静かに向けてもらうだけで、心の底から少しずつ元気が湧いてきます。
やさしく見守ることは、無私の心であり透明な心です。
真善美とは無私の心であり、透明な心のことです。
その天地の心が、清らかな風となって、枯れた心の奥底から天地のエネルギーを湧き出させる呼び水になるということです。
あるいはまた、大きな挫折や多くの非難に打ちのめされて自分の居場所を見失ってしまうこともあります。
自信とは、自分を信じきっている状態です。
たとえ自分の中心に柱を立てていても、それがグラつけば自信を失ってしまいます。
でもひとしきり落ち込んだあとはそれが糧となり、さらにしっかりした太柱となり自信が戻ってくるものです。
しかし自分の中心に柱を立てず、外側のものを取っ掛かりにして相対的に自分を安定させている場合はそうはなりません。
その取っ掛かりが無くなってしまうと、自信(他信)を失って自己喪失した抜けがらになってしまいます。
時間とともに自然回復するようなものではありませんので、新たに取っ掛かりとなるものを探し始め、劣等感のスパイラルに陥ってしまいます。
ただそのような時に、中心は自分に立てろと言ったところで何も意味はありません。
自信を失って落ち込みきっている状態ではそんな屁理屈はやはり無茶であるわけです。
理屈や理想というのは、自力で動ける人のための方便でしかありません。
傷つききった時には、頭での理解ではなく肌の感覚こそが必要なのです。
ですから、透き通った風が優しく吹き抜けていくことはとても大きな力となります。
傷ついている人が自分ではなく他の誰かならば、そっと寄り添って一緒に涙する。
そうしてひとしきり泣いた後は優しく見守る。
余計なことは何も言わず、ただ見守るだけです。
こちらがヤキモキしても不安に波立った風しか届きません。
真善美とは、天地の心です。
清らかな心は真善美となりますし、清らかな心が映されたものは真善美となります。
美しい景色の自然もまた真善美そのものです。
自分が傷ついて、まわりに優しく見守ってくれる人もいない時は大自然へ行くのはとてもいいことです。
素晴らしい芸術に触れるのもいいでしょう。
あるいは、清らかな雰囲気の漂う神社や仏閣へ行くというのも。
決して無理することなく、とにかく気持ちよく感じたところへと行くわけです。
心が綺麗に洗われて、私たちの傷が優しく包まれるように。
我欲を払って目の前の「今」に集中すると、清らかな風が吹き抜けます。
それは自分の内だけではなく、日々に刻む「今」にも吹き抜けていきます。
私心のない日々の積み重ねとは、神ながらの道そのものです。
天地の心に溶け合った人は、優しく清らかな空気に包まれています。
頑固一徹に仕事に打ち込んだ人にも、透き通った雰囲気が漂います。
それは私心がない赤子と同じように濁りのない真心です。
その心からは、真善美の輝きが溢れ出ます。
そのような透き通った心に触れると、私たちの心も澄んでいきます。
それは、私たちからも真善美の輝きが溢れ出ているということに他なりません。
いつも清らかな状態に馴染んでいますと、少しの汚れにも気がつけます。
しかし汚れた状態が続いてしまうと多少の汚れも気にならなくなるものです。
慣れとはそういうものです。
そして汚れたままでいると、結局は自分がツラく苦しくなってしまいます。
ですから、いつでも心に清らかな風を吹かせていると早めに異変に気がつけるということです。
完全にゼロになってしまう前に、早め早めに山や神社に行くことができるようになります。
一人で頑張らなくても大丈夫。
頭であれこれ考えあぐねたり、心であれこれ悩んだりしなくてもいいのです。
温泉でもハイキングでも絵画鑑賞でもコンサートでも何でもいい。
すっきり気持ち良くなりたいという心のままに行動すれば、それで万事解決となるわけです。
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それは自分の内だけではなく、日々に刻む「今」にも吹き抜けていきます。
その場所にはとても清らかな雰囲気が漂います。
そしてそれを向けた対象(仕事や作品)からは、とても気持ちの良い感じを受けます。
心が洗練されればされるほど、その風は深くまで沁み通ります。
それが長きにわたって積み重ねられれば、一層の厚みが増していきます。
我欲の心も強いエネルギーですが、透き通った心もまた強いエネルギーとなります。
夾雑物のない“空”というものが、天地に満ちるエネルギーそのものになります。
つまり、透明な心とは祓いのエネルギーでもあると言えます。
エイッという気合いも祓いのエネルギーですが、透明な心はスーッと清らかに相手を内側から綺麗にさせます。
この涼やかな風は、混じり気のない天地の心そのものです。
例えば、見渡すかぎりの大自然に囲まれた時、私たちの身体には澄み切った風が通り抜けます。
また何百年もの感謝が捧げられた場所では、心の内がスーッと軽くなってとても穏やかな気持ちになっていきます。
頑固一徹な職人の作品を前にすると、訳もなく心惹かれ、時を忘れて無我になります。
箱根駅伝や高校野球のような、みんなのために気力を振り絞って頑張る無私の心を観ると、胸の奥から熱い感動が湧き上がます。
美しさとは清らかさです。
混じり気のない透明感です。
それは我欲や執着など一切無い澄んだ状態です。
その風に触れた時、私たちの心の雑念はきらびやかに霧散していきます。
爽やかな風は混じり気のないものから漂います。
そして、澄み切ったものとは「真善美」にあります。
「真善美」とは、荘厳な大自然だったり洗練された芸術作品だったり、何千年も重ねられてきた伝統美だったり、いずれも作為や我執が一切なく
天地の心に溶けあったものです。
本物からは天地の清らかな風が漂います。
もしかしたら、芸術品などは自分なんかには分からないと思ってしまうかもしれません。
でもそれは分かる分からないという尺度で考えてしまうからです。
知識など必要ありません。
そこから醸し出される雰囲気が全てです。
目が肥えるというのは、見た目や知識ではなく、雰囲気を感じ取る皮膚感覚が研ぎ澄まされていくことだと思います。
ですから分かる分からないではなく、幸せな感覚になるかどうかであるわけです。
作品というのは、実際に生で観るのと観ないのとでは天地ほどの違いが生じてくるということになります。
知識がなくても、我執の無い透き通った作品というのは観ているだけで心が落ち着いてきて、いつまでも眺めてしまうものです。
それというのは、自分の我執が祓われて天地と溶け合っている状態であるわけです。
ああだこうだと論評したりせず、その清らかな雰囲気の中に自分をフルオープンにして天地の心にゆっくりと浸かるのが、鑑賞の醍醐味だと言えます。
ただ、いくら作品が素晴らしかったとしても、大勢の見物客にモミくちゃにされながらではなかなか落ち着いて浸ることはできません。
有名な作品を単に視覚として見るのでは、機械的に写真を撮るのと何も変わりません。
皮膚の感覚でしか風は感じ取れません。
あるいは、時間を気にしながら慌ただしく見てまわるのも同じです。
「見た」「行った」という即物的な囚われはやめて、雰囲気を肌で味わうのがリアルというものです。
そのためには時間をたっぷり取って、何にも追い立てられない状況でリラックスして毛穴を開いてフルオープンになるのが一番です。
オーケストラや観劇にしても耳や頭で分かろうとすると何も楽しめなくなります。
ズブの素人だからこそ、素直に純粋な心を広げて皮膚の感覚を澄ませていく。
上手いか下手かなんてどうでもいい。
気持ちがいいかどうかです。
私はまだ機会がありませんが、能や文楽などの伝統芸能もそうした肌感覚で雰囲気を味わえば、内容が分からなくても幸せな気持ちになるのではないかと思います。
演技というものも我執の差が清らかさの違いになってきますから、私たちの心が澄むほどに気持ち良さの違いを感じられるようになってくる
でしょう。
絵画や書も同じです。
技術的な素晴らしさ以上に、ただ見ているだけで心が落ち着いてくるものがあります。
そうしたものを部屋に飾ったりするのは、まさに自分の心を清らかにするためであるわけです。
だから、誰もが気持ちよく感じる作品はそれだけの高値がつくということです。
ただ、いくら有名な作品であっても貴重だ高価だという固定観念で眺めてしまうと、その風はピタッとやんでしまいます。
どんなに澄み切った作品であっても、受け手がガチガチ頭の唐変木だったら、それはそのまま「どこ吹く風」となってしまいます。
何ごとも結局は自分の心一つなのです。
私も昔は、芸術など分かるはずもないし分かりたくもないと、ひねた見方をしてました。
そんな生意気な後ろ頭を引っぱたかれたのは、伊勢の徴古館に行った時でした。
ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、そこは伊勢神宮の宝物を展示している場所です。
しかし、いかんせん地味です。
伊勢詣りに来たのに博物館に行こうという気はなかなか起きないでしょう。
私が行った時も館内はガラーンとしていました。
そうして何とはなしに眺め始めたのでしたが、思わずエッと絶句して固まってしまいました。
ふーん……………んっ!?
という感じです。
いやいや、実はこれ凄くないかい!と。
そのくせ何が凄いのかよく分かってない。
ただ、とにかく目が釘付けになってしまう状態。
そこにあったのはそれ自体は全く主張していませんでした。
でも吸い寄せられるように見入ってしまう。
そうしてよくよく見てみると、漆を惜しみなく使っていたり値段も手間も凄いことになっていることにようやく気づくのです。
しかしそれ自体はそれを感じさせない素っ気ないシンプルさです。
まさに理屈を抜きにし立ち尽くしてしまうばかり。
「本物」の凄みを知りました。
そんなものが、スポットライトをあてるでもなく普通にサラッと置かれている。
ギャップにも程があります。
というか、私が舐めてかかってただけなのですが 笑
二十年に一度の遷宮では、奉納される宝物もすべて新調されます。
各分野の当代随一の職人たちが、熟練の極みに達した年齢で大役を仰せつかることになりますので、これはもう一生に一度の大仕事です。
しかも相手は神様。
日本国民総体の大神様です。
そこにきて自分が歩んできた道の集大成になるのですから、一心不乱の全身全霊になることでしょう。
宝物は神様に捧げるものですから、人の目には触れられず二十年たてば土に埋められてしまいます。
誰かに見せるためのものではありませんし、評価判断されるものでもありません。
ただ、神様への真心だけです。
そうしますと、それは自分自身への嘘いつわりのない心ということになります。
実際、少しくらい手を抜いても誰にも文句など言われることはありません。
神様ご自身だって、それを良くも悪くも思わず、ただそのまま見守られるだけでしょう。
でも、自分は自分自身に嘘をつけません。
それで良しとするかどうかは自分が一番わかっています。
当然、材料も手間もこれ以上ないほど最上最高のものになります。
その上、まわりから評価されようとか上手く見せようという我欲も一切ありませんので、一所懸命の境地、真剣勝負の結晶となります。
神様への奉納は、同時に、自分自身への奉納になるということです。
そんなものがポンと置かれていたわけです。
本来は埋められるはずのものが、研究と伝承のために特別に保管されていたのでした。
そこには雑味の削ぎ落とされた、真に澄み切った心が現れていました。
とても清らかな風がサーッと流れ込んできました。
真善美に触れると自分の心も清らかになることを実感した瞬間でした。
囚われや執着で濁っている時、それを手放して軽くなる方法は様々にあります。
これまで書いてきたように子供のようにハシャぐのもその一つです。
あるいは一意専心で目の前のことに集中しきることも一つです。
ただ、自分の力だけではどうしようもない時があります。
たとえば、体調がどん底の時や心が疲れきって抜け殻のように枯れ果てている時、あるいは心の芯深くまで傷つき切ってこれ以上1秒たりとも
外の空気に触れられないような時などです。
そういう時に、頑張れとか楽しめとか言っても絶対に無理であるわけです。
ムチャ言うなってことです。
そういう時には、まさにこのような「真善美」が一つの手になるのではないかと思います。
具合が悪くて静かに過ごしたいのに、枕元でハイテンションに看病されたら有り難いどころか、ただシンドいだけでしょう。
心が無防備である時にガツガツした心を向けられるとダイレクトに受けてしまいます。
頑張れとか、こうすればいいとか、あれこれ言われても無理なのです。
そういう時は、ただそっと静かに見守って欲しいはずです。
そして雑味のない透き通った心を静かに向けてもらうだけで、心の底から少しずつ元気が湧いてきます。
やさしく見守ることは、無私の心であり透明な心です。
真善美とは無私の心であり、透明な心のことです。
その天地の心が、清らかな風となって、枯れた心の奥底から天地のエネルギーを湧き出させる呼び水になるということです。
あるいはまた、大きな挫折や多くの非難に打ちのめされて自分の居場所を見失ってしまうこともあります。
自信とは、自分を信じきっている状態です。
たとえ自分の中心に柱を立てていても、それがグラつけば自信を失ってしまいます。
でもひとしきり落ち込んだあとはそれが糧となり、さらにしっかりした太柱となり自信が戻ってくるものです。
しかし自分の中心に柱を立てず、外側のものを取っ掛かりにして相対的に自分を安定させている場合はそうはなりません。
その取っ掛かりが無くなってしまうと、自信(他信)を失って自己喪失した抜けがらになってしまいます。
時間とともに自然回復するようなものではありませんので、新たに取っ掛かりとなるものを探し始め、劣等感のスパイラルに陥ってしまいます。
ただそのような時に、中心は自分に立てろと言ったところで何も意味はありません。
自信を失って落ち込みきっている状態ではそんな屁理屈はやはり無茶であるわけです。
理屈や理想というのは、自力で動ける人のための方便でしかありません。
傷つききった時には、頭での理解ではなく肌の感覚こそが必要なのです。
ですから、透き通った風が優しく吹き抜けていくことはとても大きな力となります。
傷ついている人が自分ではなく他の誰かならば、そっと寄り添って一緒に涙する。
そうしてひとしきり泣いた後は優しく見守る。
余計なことは何も言わず、ただ見守るだけです。
こちらがヤキモキしても不安に波立った風しか届きません。
真善美とは、天地の心です。
清らかな心は真善美となりますし、清らかな心が映されたものは真善美となります。
美しい景色の自然もまた真善美そのものです。
自分が傷ついて、まわりに優しく見守ってくれる人もいない時は大自然へ行くのはとてもいいことです。
素晴らしい芸術に触れるのもいいでしょう。
あるいは、清らかな雰囲気の漂う神社や仏閣へ行くというのも。
決して無理することなく、とにかく気持ちよく感じたところへと行くわけです。
心が綺麗に洗われて、私たちの傷が優しく包まれるように。
我欲を払って目の前の「今」に集中すると、清らかな風が吹き抜けます。
それは自分の内だけではなく、日々に刻む「今」にも吹き抜けていきます。
私心のない日々の積み重ねとは、神ながらの道そのものです。
天地の心に溶け合った人は、優しく清らかな空気に包まれています。
頑固一徹に仕事に打ち込んだ人にも、透き通った雰囲気が漂います。
それは私心がない赤子と同じように濁りのない真心です。
その心からは、真善美の輝きが溢れ出ます。
そのような透き通った心に触れると、私たちの心も澄んでいきます。
それは、私たちからも真善美の輝きが溢れ出ているということに他なりません。
いつも清らかな状態に馴染んでいますと、少しの汚れにも気がつけます。
しかし汚れた状態が続いてしまうと多少の汚れも気にならなくなるものです。
慣れとはそういうものです。
そして汚れたままでいると、結局は自分がツラく苦しくなってしまいます。
ですから、いつでも心に清らかな風を吹かせていると早めに異変に気がつけるということです。
完全にゼロになってしまう前に、早め早めに山や神社に行くことができるようになります。
一人で頑張らなくても大丈夫。
頭であれこれ考えあぐねたり、心であれこれ悩んだりしなくてもいいのです。
温泉でもハイキングでも絵画鑑賞でもコンサートでも何でもいい。
すっきり気持ち良くなりたいという心のままに行動すれば、それで万事解決となるわけです。
