これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

アタリマエとおかげさま

2015-03-23 23:14:21 | 心をラクに
リラックスして心が広がっていきますと、今まで観えていなかったものが観えてきます。
感じていなかったものが感じられてきます。

これは超能力の話ではありません。
自分の囚われが薄れることで霧が晴れていくということです。
そうしていくうち、いかに多くのお陰様によって私たちが守られているか、生かされているかを感じられてきます。
スーッと心に思い浮かんだり、ジンワリと肌に染み入るようにです。

逆のことも言えるかもしれません。
様々なお陰さまに感謝をしていけば、自分の囚われが薄れて心の霧が晴れていく、と。

何故ならば、感謝の心とは我欲を祓う清らかな風であるからです。

そうなると、あらゆる感謝の言葉は祓詞ということになります。
長い呪文を唱えなくても、普通にありがたいなぁと思うことが謙虚な心となり、透明な心となっていきます。

私たちみんなが守られ、生かされています。

たとえば、赤ん坊の頃に他の誰かの助けがなければ私たちは今こうして生きていることもなかったでしょう。
でも当時、私たちはそのことを知りませんし気づきませんでした。
その時は無限に広がる輝く世界の中で、ただその喜びに浸っていただけでした。
そして、それでこそ親たちも十分に満足だったわけです。

今でも私たちはこの赤子と同じです。
護られて生きていることに気がついていない状態です。

でも本来、それに気づかなくても全くいいわけです。
赤ん坊と同じように、その御加護に全身を投じて無邪気に喜び楽しんでいればいいのです。
しかし下手に知恵がついてしまうと、自分で生きていると思ってしまい、そこから狭い世界で悩み苦しみ始めてしまいます。

考えてみて下さい。
もしも赤ん坊が、自分一人で生きてると思い込んで眉間にシワを寄せてアレコレ悩み始めたら、どのように見えるでしょうか。
おいおい、という感じではないでしょうか。
神ならずとも苦笑いするしかありません。

そしてその囚われを外すためには、両親(おかげさま)の眼差しを感じさせて安心させることが必要となるわけです。
でも本当はそんなことなどせずに、普通に無邪気にやってくれるのが一番なのはお分かりかと思います。

そして無邪気というからには、度を越えた感謝のやりすぎもよくありません。
観えない存在や観えない世界を必死に見ようとしたり、必死に感謝しようとするのはやりすぎです。
それは囚われてしまっている状態です。

赤ちゃんに「ありがたい、ありがたい、本当に感謝」と思われてしまったら、やはり苦笑いでしょう。
親からすれば、そこまで感謝されなくてもアタリマエのことなわけです。
“もう分かったから、そんなことより無邪気に楽しんでちょうだいよ”と思うでしょう。

ですから私たちも、お陰様への感謝はもちろん大事ですが、決してそれ一辺倒にならず純粋に無邪気に楽しむのがいいということです。

そうしたお陰様というのは目に観えないものです。
おかげさまとは何の色合いも垢もついていない無色透明な温かさです。
自らの存在を主張するようなものでなく、気づかれずにソッと私たちに寄り添っています。
それはあまりにもアタリマエになりすぎて、目に映っていながら観えなくなっているわけです。

アタリマエなことを濁りなく観てみますと、そこにそれまで気づかなかったお蔭さまが観えてきます。

現代のように、死なないのがアタリマエ、ご飯が食べられるのがアタリマエになってしまうと、どうしても心は緩み、焦点が定まらずボンヤリと
した状態になってしまいます。
いつも繰り返される平凡な毎日に薄ぼんやりとしてしまい、まわりに転がる物事に囚われ心はあちこちに分散してしまいます。

身のまわりの一つ一つが明日も保証されているという思いこみが、私たちをマヒさせてしまっています。
そうして、時間を有意義に過ごすという意味も履き違えられてしまうわけです。
一つ一つを全身で味わうよりも、あれこれ数多くやる方が有意義であると信じこんでしまっています。

音楽を聴きながら、メールを打ちながら、マンガを読む。
テレビを観ながら、家族と喋りながら、ゴハンを食べる。
仕事の電話をしながら、パソコン打ちながら、指示をする。

深みや味わいというのは、目に見えないものです。
しかし効率というのは、目に見える形を追うものです。
浅かろうが薄かろうがそういうことに関係なく、見えるものを追ってしまいます。
まるで狩りの成果に満足するかのようにです。

私たちは日常にこの心癖が刷り込まれてしまっています。
分散した心では、薄い味わいになり実感も浅くなります。
実感が浅くなると、充実感も薄れてきます。
そうして地に足つかずフラフラしてしまうと、日々をつまらなく感じたり、青い鳥を探しに出かけたりしてしまうのです。

日々を薄く生きてしまうと、身近にある物事が「アタリマエ」なことになっていってしまいます。
そしてアタリマエのことはどうしても軽んじてしまい、いい加減に接してしまいます。

無意識のうちに効率を追ってしまい、アタリマエなこと以外の、見た目ハデな艶やかなことを数多くこなすことが人生の充足だと思い込んで
しまいます。
しかしアタリマエなことこそが、本当は途轍もなく貴重で価値のつけられないものです。
そしてそれらは、目に見えないお蔭さまによって支えられ存在しているのです。

アタリマエな話になりますが、音楽を聴けたりメールを打てるのも電気が安定供給されているからです。
ご飯が食べられるのは、異常気象もなく農作物が育っているからです。
家族と喋られるのも、みんなが健康だからです。
仕事ができるのも、会社が安定しているからですし、さらには社会が安定しているからです。

まさかそんなことが揺らぐことなど無いと信じ込んでいるとしたら、それはあまりにも想像力が足りなすぎですし、
なにより恩知らずと言わざるをえません。
それでは「子どもを育てるのは親の義務だ」と感謝もせずアグラをかいているのと何も変わりません。

確かに、天地は親心で育ててくれていますし見放すことはありませんが、それを当たり前だと悪態をついたり無視するのはあまりに幼すぎます。

アタリマエのその奥には、数多くの目に見えないお蔭さまがあります。

私たちが日頃目にしているのは、そんな幾万ものお蔭さまの上から少しだけ顔を出している氷山の一角でしかありません。

必要以上にありがたがることはありませんが、そこに心を向けることが多くの恩恵を一身に受けることになっていきます。
何故ならば、おかげさまは誰にでも満遍なくその光を届けていますが、私たちが勝手にそっぽ向いているからです。

お陰様のありがたさを感じれば、アレコレごちゃ混ぜにしていい加減に接することも少なくなってくると思います。
ご飯を食べる時はそれに向かい、家族と喋る時はそれに向かう。
静かに今に集中して、一つ一つを深く味わうようになります。

実際、アタリマエと化したものは、私たちの身のまわりに驚くほど沢山あります。

例えば、夜寝たら朝起きるのも当たり前のことです。
それもこのように考えれば、全く違ったものになるのではないかと思います。

この世を去る時、私たちは少なからず心残りがあるものです。
「ああしとけば良かった、謝っておけば良かった、楽しんでおけば良かった、恩返しをしておけばよかった、素直になっておけば良かった…」
と。

そして「次に生まれ変わった時にはそうしたことをキッチリしよう」と強く思うのです。
そうして、あちらの世界で長い時を過ごしてから念願かなってまたこちらの世界にやってくるわけです。

寝ている時というのは、私たちがこの一枚絵を離れて別の世界に行っている時です。

そうしますと私たちは、毎晩毎晩、死んでるようなものです。
もしかしたら、本当に死んで生まれ変わるプロセスと同じことをやっているのかもしれません。

ただ、あの世での時間が短すぎて、また同じ続きに戻ってきているために、生き続けていると思い込んでいるだけなのかもしれません。
そうしますと、本当にこの世を去る時の心残りのことを思うとこの一日一日の蘇りはトンデモなく贅沢で有り難いことだと分かると思います。
なにせ、すぐ生まれ変わっている上に、同じ人生に生まれ変わっているのですからです。

ちゃんとやり直しがきくのですから、諦めたり後悔したりすることなど一切無いということです。
謝ったり、恩返ししたり、心を改めたり、楽しんだり、素直になったりと、同じスクリーンの上でやり直すことができるのです。

書き足すことができるのです。

場合によっては上書きも可能です。
本当に死んでしまった時には、それをやりたくても出来ません。
次はいつになるか分からないし、そもそも全く違う映画になってしまうでしょう。
戻りたくても戻れないのです。

ですから「寝る時は死んだと思い、起きた時には生まれたと思えば、日々を一所懸命になれる」という方便にしても、あれは本当の意味で
そうなのではないかと思うのです。

精神論や理念として聞いてもそれはそれで惹かれる響きですが、本当の真実としてそれを考えてみますとリアリティ溢れる皮膚感覚として
忘れようにも忘れられなくなります。

これは頭での解釈ではなく肌の実感ですから、すぐにその感覚へ繋がることが出来ます。

四六時中やるというのは難しいかもしれませんが、フト思い出した時にでもやれれば十二分だと思います。
その時だけでも自分は謙虚になれます。

朝起きて「今日の自分は少し素直になろう。挽回だ」と思えれば、それだけで最高ではないでしょうか。
何ごとも一歩一歩ですから、まずはそれでいいと思います。

寝て起きるという当たり前のことにも、目に見えない有りがたさが隠れています。

アタリマエというのは、目に映る景色は変化しないという思い込みによって生じます。
でも実際は、それ以上よく観ようとしていないだけなのです。
身のまわりのアタリマエをよく観察してみると、何ひとつ平凡なものなどはなくありがたすぎるものばかりです。
それらアタリマエのものが無くなった時のことを考えると背筋がゾッとするはずです。

そして、そのどれもが勝手にそうなっているわけではなく、大いなるサポートで成り立っていまることが分かります。
目に見えないおかげさまが、そうした全てを支えているわけです。

この世の一つ一つは、有り難さそのものであり、おかげさまそのものです。
まさに私たちは、お陰さまの海の中に居るわけです。

お陰さまとは、天地の心に溶けあった数多の存在です。
その総体が天地宇宙なのです。
この世界は、天地の心に満ち満ちています。


どんな人生でも、波風の立たない一生などありません。
そうした時に、アタリマエだったことが初めてアタリマエではなくなります。
それは天地が罰や感謝を求めて起こすわけではありません。
狭い世界に囚われた赤子が飽き飽きしないように、揺りかごを揺らすようなものなのです。

海水浴も、波があるから面白いわけです。
無風状態の真っさらな凪ぎでは、何も面白くありません。
大波に飲まれた瞬間は焦りますが、そのあとは大声でゲラゲラ笑ってしまうものです。

それは、派手な人生でも地味な人生でも全く同じことです。
派手だ、地味だ、というのは後付けの価値判断でしかありません。
どちらも同じ海に変わりないわけです。
そして、ここでの波というものは「変化」のことです。

成功や幸せという、目に映る形のプラスだけが波ではありません。
失敗や苦悩という、目に映る形のマイナスも同じく波です。
どちらもグンと盛り上がる波なのです。
プラスマイナスなど考えずに、それに乗って落ちて一喜一憂するのが人生です。

自分では避けたいと思っても、海に浮かんでいるかぎり波はやってきます。
そもそも波乗りをしたくて海に遊びに来ているのですからアタリマエの話です。
それを忘れてしまい、気を抜いてボケーッとそこにいるからアタフタするのです。

ですから私たちはアレコレ難しい顔をせず、素直に遊ぶのがいいわけです。
天地の眼差しを感じて、無邪気に楽しむだけです。
たとえそれが迫りくる大波に見えても、それは天地の父母がハイハイと上下にあやしてくれてるだけなのです。
ならば子どもの時のようにハシャいで、それを楽しんでやろうとするのが一番ではないでしょうか。

日々の親心に感謝を思い、当たり前のことにも時々でいいからおかげさまを感じていれば、天地の優しい眼差しを全身に感じるようになります。
無条件に護られていることに安心しますと、これまで恐ろしい大波に見えていたものが、レジャー施設の波乗りゲームに見えてきます。
寸前まではハラハラドキドキですが、ビックウェーブに乗った時の気持ち良さは格別です。

一度その楽しさを知ると、失敗の不安よりも、乗った時の幸せの方が勝るようになっていきます。
危機に面して目がキラキラと輝くようになりますと、もはや危機は危機ではなくなります。

揺りかごの中の私たちは、お蔭さまに「絶対的」に「超過保護」に守られてます。

安心しきって、無防備の素っ裸になって大丈夫です。
もしも心配になった時は、何か身のまわりのアタリマエのことに目を向けて見て下さい。
何気ないことに、ありがたさとお蔭さまが詰まり詰まっていることに気づくはずです。
そのとき、私たちが誰一人例外なく、天地宇宙の温かいまなざしに見守られているのを感じられるのではないかと思います。

あとは無邪気に楽しむだけです。
どうせ踊らなくてはいけないのですから、思いっきり踊らにゃ損です。

その心がまた、新たなお蔭さまになっていくことでしょう。


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