私たちの人生は、子どものおつかい番組を観ているようなものだと以前に書きました。
このテレビ画面の子どもを優しく見守っているのが、天地の心であるのでした。
ただ、それを安易に“愛”と表現すると、どうしても歪んでしまうのが難しいところです。
言葉というのは囚われやすいものなのでよくよく注意が必要です。
もともと愛という言葉は、日本人にはシックリこないものなのではないかと思います。
とても西洋的な響きですし、そこには自我の存在を強く感じてしまいます。
決して透き通ったものではなく、主体となる個人の粒子、本人のカラーが色濃く混じってしまっているのです。
愛というものは、他人に気づかれても平気なものであり、時には積極的にその存在を示していることすらあります。
これと対照的なのが恋です。
他人からの見返りなど求めませんし、そもそも人には気づかれないようにするもの。
天地へとスーッと広がり、キラキラ消えゆくような透明感を感じます。
我欲が混じらない、透きとおった心とはこういうものではないかと思います。
日本に昔から存在する様々な想いは、むしろこうした恋に近い感覚だと言えます。
それは自我を混ぜ込むことなく、ソッと優しく見守る天地の心に近いものでしょう。
その心で私たちを観ている。
それは子どもの初めてのおつかいに限らず、発表会や競技大会を観ている感覚と同じものです。
発表が上手くできたり競技で一番になったりすれば親としてはもちろん嬉しいわけですが、それは優劣意識で喜んでいるのではなく、子供たち
の喜ぶ姿に喜びを感じているということです。
その時というのは一つ一つの事実や結果などはどうでもいいことになっています。
現象は単なるキッカケでしかなく、その先の一喜一憂に注目しているわけです。
失敗してもビリになっても関係ない。
目の前のすべてを、そのまま温かく受け入れる。
これが天地の心です。
そしてその心が、今この瞬間もこの世界に等しく注がれています。
ですから、私たちがその天地の心に近づくには、見た目の形や結果に色をつけないことが一歩となります。
見ようとする興味の対象が、結果や形ではなく、私たち自身へとシフトしていく。
そうすることで、全てをそのままに受け入れられるようになっていきます。
第一、初めてのおつかいを観ていて、買い物に失敗したのを本気で残念がる視聴者なんて居るでしょうか。
子供の運動会を観ていて、一番になれなかったことを本気でムカつく親なんて痛いにもほどがあります。
この世は、私たち自身の発表会であり運動会です。
転んだり、ケガをしたり、失敗したり、ビリになったりと、ガックリ落ち込むことが沢山あります。
でもそれを観ている、天地宇宙そして私たちの中心は、その姿を微笑んで受け入れています。
しかし、そんな失敗にこだわってクヨクヨしている姿には悲しくなってしまうことでしょう。
結果そのものは本当にどうでもいいことなのです。
それを私たちがどのように味わっているか、なのです。
ですかは、常に喜んだり楽しまないといけないということではありません。
悲しかったら泣いてもいいのです。
無理して笑う必要はありません。
その一喜一憂が、いいのです。
ただ、だからといって悲しみに流され続けるのは我執でしかありません。
殻に閉じこもり、後悔や劣等感にさいなまれている姿は、観ている方もツラく悲しくなってしまいます。
「泣いたと思ったらもう笑ってる」
それがいいのです。
失敗しようが、ビリになろうが、まずは自分の発表会をすべて受け入れるということです。
オールOK。
そうして自分の発表会を受け入れられるようになって初めて、他人の発表会もそのままを受け入れることができるようになるわけです。
自分のことは好きになれず、他人のことばかり寛容になろうとするのは本末転倒でしかありません。
まずは自分です。
自分自身の酸いも甘いも分かってこそ、他人のそれも受け入れられるようになります。
中心を自分の外に置いてしまうことは現実逃避でしかありません。
天地宇宙の中心は、どこまでいっても自分自身の中にあるのです。
世界の平和や、宇宙地球の健康を祈るよりも先にやることがあるわけです。
自分自身が平穏で健康になることが、そのまま世界の平和であり、宇宙や地球の健康となります。
この自分というのは、もっともっと大切なものです。
天地宇宙よりも先に重きを置くべき、尊い存在なのです。
すべてを受け入れるというのは、すべてを自分の中心に通すということです。
天地があってそこに自分を置くのではなく、まず自分があってそこに天地が置くということです。
これを曲解してしまうと全く違うものになってしまいます。
本当は認めていないのに取り敢えずケチつけないようにしようというのは、自分の中心を通したことになりません。
相手の意見に反対なのにそれを表に出さず、その場を取りつくろって相手の言うことに同意するというのも、言わずもがなです。
それらは、受け入れとは全く異なるものです。
寛容なんかではなく、ただ単にスルーさせているに過ぎません。
受け入れているどころか、無視しているのと何ら変わらないわけです。
自分の中心を相手に置くというのは、寛容でも謙虚でもなく、単なる偽善でしかありません。
受け入れるというのは、自分の中心を今ココの自分にしっかりと保ったまま、心を広げることです。
しっかりと相手の言動を自分の中心で感じることです。
相手に賛同するかどうかは関係ありません。
内容のイエス・ノーに関係なく「相手のその言動をそのまま許容する」「プラスもマイナスも色付けせずそのまま優しく温かく見守る」という
のが、受け入れるということです。
そこを履き違えてしまうと、相手を受け入れるためには賛同しなくてはいけないとか、衝突しないように自分の中心から離れて相手の位置に
自分を置くということになってしまいます。
それを、相手の立場に立っているだなんて勘違いしてしまうとますますおかしくなってしまう。
相手の立場に立つというのは自分の中心を動かすことではありません。
それは、自我にしがみついている我執を取り払って視野を広げるということです。
つまり、どこまでいっても中心は今ココであるわけです。
その状態のまま、心を相手のところまで広げるということです。
自分の中心に柱が立った状態、つまり、私が私であることが独自性というものです。
そして他人も、他人自身であるわけです。
どちらも相手に迎合しないからこそ、それぞれユニークな存在として、自分という心柱を立てられます。
それが多様性を生み出し、大きな調和となって天地宇宙を埋め尽くしています。
天地宇宙というのは、幾千万もの多様な色彩に輝きあふれ、響き渡る重厚なハーモニーそのものなのです。
天地宇宙は、独自性こそ喜びとして受け入れます。
それを優しく見守る温かさに溢れています。
天地宇宙に満ちる柔らかな温かさとは、すべての存在をそのままに受け入れていることの現れであるわけです。
一方でまた、「情けは人のためならず」という言葉がありますが、この場合の“情”も、天地の心の一つであります。
無視したり、見て見ぬフリをしたり、関わらないようにするのは無情そのものです。
しかし現実的な手助けをしなくとも、相手に心を向けて見守ることは“情け”であるわけです。
実際の行動が伴おうが伴わまいが、相手に心をしっかり向けるところに、このコトワザの真意があります。
そして、自分が天地の心を広げていれば、相手もまた天地の心へと近づいていきます。
しかし、この“情”もまた“愛”と同じく自我が入りやすい言葉といえます。
“愛”も“情”も、それが良いもの正しいものという固定観念があるがゆえに、私たちは安心して我欲の入るにまかせてしまうところがあります。
天地の心だからといって無思考のままに力を注ぐと、大変な落とし穴に落ちる危険があるということです。
一例をあげるなら、ボランティアなどもその危険と紙一重だと言えます。
手助けというのは、本来は一切の貸し借りのない透明なものです。
目の前で転んだ人には思わず手を差し伸べるように、とても自然なものであるわけです。
そういう透明な感覚で人助けをされている方たちは本当に神様のような人たちだと思います。
ただ、それが形だけの正義や善悪に縛られると180°一転してしまうことになります。
手助けしないのが悪いことであるかのような強迫観念を抱いてしまったり、あるいは自分は良いことをしたんだという自己満足に溺れてしまう。
それは、いずれも我執であり囚われであるわけです。
行動の原動力が我執を満たすためのものであった場合、たとえ見た目は素晴らしいことに映ったとしても、実際は心の囚われを強めることに
しかなっていません。
あるいは“謙虚”という言葉にしても同じことが言えます。
特に誤解されやすいのが、自分を主張しない、意見をしないというものです。
確かに、主張したいという衝動が我欲に基づいたものであれば、それを出さないことは謙虚と言えるかもしれません。
しかし、何でもかんでも引っ込めればいいとなってしまうと、たちまちおかしなことになってしまいます。
相手に嫌われてしまうという理由で自分の意見を引っ込めるのは、謙虚などではないわけです。
外から見れば謙虚のように映ったとしても、その実体は我欲でしかありません。
「美しき善き自分であろう」とするあまりに、かりそめの謙虚さに縛られてしまう。
それを繰り返すことは、ただ我執を厚塗りしていくことにしかなりません。
そして残念ながらその結果は、他人から見ても薄皮一枚の金メッキでしかなく、今にも壊れそうな危うい姿にしか映らないのです。
観ていて痛々しいものには、人は近づきにくくなり距離を置くようになってしまいます。
人間関係での孤独感というのは、得てして自分自身が作り出してしまっているものであるということです。
それよりも、ガサツだ何だと言われようとも伸び伸びとやっている人の方が、まわりは安心して近づけます。
そう、50点、60点でいいわけです。
ツギハギの100点を目指そうとすると0点になりかねないのです。
金メッキはモロいものです。
それを維持するために薄氷を歩く日々はツラく苦しいものです。
自分の素直な心を、わざわざ濁らす必要はありません。
むしろ、そのような損得勘定など存在しないところに、本当の謙虚さがあるのではないでしょうか。
相手に優しく心を向けたまま、ただ見守るというのが真の謙虚さです。
相手がやりたいことをやるのを許容して、そのまま認めてあげる。
たとえ相手が好意で誘ってくれた時でも、自分が嫌だったなら、透き通った心を向けたままやんわり優しくお断りすればいいのです。
相手にどう思われるか?という不安は、自分の中心から離れてしまうことにしかなりません。
あれこれ理詰めで言い訳をすると、濁った心がかえって相手の心を波立たせることにもなります。
イエス・ノーではなく、我欲の無い状態にこそ、相手は謙虚さを感じるのです。
謙虚な心とは、つまり「透明なこころ」のことなのです。
愛や情け、あるいはボランティアや謙虚という言葉は、それを無条件に良いものだとする固定観念が免罪符となって、自制なしに我欲を垂れ
流させてしまう危険があります。
同じように、善悪という決めつけや、正義や大義という言葉にもその危険があるということです。
世界の紛争の原因も、すべてはそこにあります。
決して踊らされてはいけません。
正義も善悪も、あくまで人間が決めつけた価値観でしかありません。
それは単なる一つの指標でしかなく、いわば方便に過ぎないわけです。
価値観というのは、社会が混乱しないように取り決めた約束事のようなものです。
もともとこの世には存在していなかったものです。
あくまで架空のものでしかありません。
そんな空っぽのハリボテに自分の中心を置くことはないのです。
自分の中心は、常に自分の中にあります。
自分の中心に柱を立て、社会通念や常識というものに振り回されず、囚われや思いこみを手放していくことで、段々と透き通った状態になって
いきます。
それはもともとの状態、天地宇宙の姿そのものに還っていくことであるわけです。
あらゆる全てのものを、それそのままでOKと見なす。
あらゆるものを温かく優しい眼差しで見守る。
それこそは、透明な愛情を放っていることに他なりません。
透き通った心を放つことは、天地の姿そのものです。
天地自然は、透明な愛情に満ち満ちています。
我執の濁りが晴れわたり、外界を遮断している壁がなくなると、天地の神氣・エネルギーが私たちに流れ込んできます。
「情けは人のためならず」「与えれば与えられる」というのは、そういうことです。
与えられるのは、あくまで結果でしかありません。
自分が濁った心を向ければ、まわりの人間も、環境も濁った状態になり、それがそのまま自分に還ってきます。
自分が天地と溶け合って透明な心が広がれば、まわりの人も環境も透明に澄んでいき、それが自分に還ってくるのです。
神道では、あらゆる存在を鏡に喩えています。
一見すればプラスをイメージする、与えたり情けをかけたりというのも、その心が濁っていれば結果はそのままの反射となります。
まさに、与えたものは与えられるわけです。
良くない結果が現れた時に、まだ時間差だからこれは違うと思いこもうとしたり、無理やりプラス思考の解釈をつけるのは、自分で自分を
騙していることにしかなりません。
確かに私たちの世界は、クモの巣のように囚われやすい網が張り巡らされているといえるかもしれません。
言葉にせよ、概念にせよ、いちいち絡まりやすいものばかりです。
中には、そこに囚われることが素晴らしいことだとする誤った固定観念もあります。
そうしたものが、多くの迷いや苦しみを生んでしまっています。
ただ、それらの網自体を否定するのは筋違いでしかありません。
それ自体は、何も悪いものではないからです。
それぞれに相応の役割や、本来の意味があります。
私たちが勝手に囚われるだけで、網自体はもともと必要なものばかりであるわけです。
ですから最初から、心配などすることはないのです。
そもそもこの世にあるものは、すべてがOKなのです。
私たちはそこに不要な意味づけをすることで、自分たちを囚われの世界へと追いこんでしまいます。
自分自身が清らかに透き通った状態であれば、何かに引っかかって囚われることなどありません。
地平線へと広がる青々とした緑の大地を前にして、足元の雑草にオドオドするのは勿体ないことです。
コケたとしても、その時はその時でイイわけです。
この世界は、私たちのお遊戯の発表会です。
つまずいて転んだり、網に引っかかっても、泣いて笑えばいいのです。
そんな自分たちの姿を私たちは天地の心で見守り、ほほえみ楽しむのです。
現実の今、そして今の自分をそのまま受け入れることが、世界をそのまま受け入れることになります。
天地宇宙の心になれば、世界は鮮やな輝きとなります。
目の前に広がるこの大草原へ、思いっきり駈け出していきましょう。
あの人はどう思ってるかとか、自分はどう見られているかなんてバカバカしいことです。
何もかもを忘れて、走りまわり、飛びまわり、ハシャギまわる。
それこそが、この世を満喫している姿だと言えるのではないでしょうか。
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このテレビ画面の子どもを優しく見守っているのが、天地の心であるのでした。
ただ、それを安易に“愛”と表現すると、どうしても歪んでしまうのが難しいところです。
言葉というのは囚われやすいものなのでよくよく注意が必要です。
もともと愛という言葉は、日本人にはシックリこないものなのではないかと思います。
とても西洋的な響きですし、そこには自我の存在を強く感じてしまいます。
決して透き通ったものではなく、主体となる個人の粒子、本人のカラーが色濃く混じってしまっているのです。
愛というものは、他人に気づかれても平気なものであり、時には積極的にその存在を示していることすらあります。
これと対照的なのが恋です。
他人からの見返りなど求めませんし、そもそも人には気づかれないようにするもの。
天地へとスーッと広がり、キラキラ消えゆくような透明感を感じます。
我欲が混じらない、透きとおった心とはこういうものではないかと思います。
日本に昔から存在する様々な想いは、むしろこうした恋に近い感覚だと言えます。
それは自我を混ぜ込むことなく、ソッと優しく見守る天地の心に近いものでしょう。
その心で私たちを観ている。
それは子どもの初めてのおつかいに限らず、発表会や競技大会を観ている感覚と同じものです。
発表が上手くできたり競技で一番になったりすれば親としてはもちろん嬉しいわけですが、それは優劣意識で喜んでいるのではなく、子供たち
の喜ぶ姿に喜びを感じているということです。
その時というのは一つ一つの事実や結果などはどうでもいいことになっています。
現象は単なるキッカケでしかなく、その先の一喜一憂に注目しているわけです。
失敗してもビリになっても関係ない。
目の前のすべてを、そのまま温かく受け入れる。
これが天地の心です。
そしてその心が、今この瞬間もこの世界に等しく注がれています。
ですから、私たちがその天地の心に近づくには、見た目の形や結果に色をつけないことが一歩となります。
見ようとする興味の対象が、結果や形ではなく、私たち自身へとシフトしていく。
そうすることで、全てをそのままに受け入れられるようになっていきます。
第一、初めてのおつかいを観ていて、買い物に失敗したのを本気で残念がる視聴者なんて居るでしょうか。
子供の運動会を観ていて、一番になれなかったことを本気でムカつく親なんて痛いにもほどがあります。
この世は、私たち自身の発表会であり運動会です。
転んだり、ケガをしたり、失敗したり、ビリになったりと、ガックリ落ち込むことが沢山あります。
でもそれを観ている、天地宇宙そして私たちの中心は、その姿を微笑んで受け入れています。
しかし、そんな失敗にこだわってクヨクヨしている姿には悲しくなってしまうことでしょう。
結果そのものは本当にどうでもいいことなのです。
それを私たちがどのように味わっているか、なのです。
ですかは、常に喜んだり楽しまないといけないということではありません。
悲しかったら泣いてもいいのです。
無理して笑う必要はありません。
その一喜一憂が、いいのです。
ただ、だからといって悲しみに流され続けるのは我執でしかありません。
殻に閉じこもり、後悔や劣等感にさいなまれている姿は、観ている方もツラく悲しくなってしまいます。
「泣いたと思ったらもう笑ってる」
それがいいのです。
失敗しようが、ビリになろうが、まずは自分の発表会をすべて受け入れるということです。
オールOK。
そうして自分の発表会を受け入れられるようになって初めて、他人の発表会もそのままを受け入れることができるようになるわけです。
自分のことは好きになれず、他人のことばかり寛容になろうとするのは本末転倒でしかありません。
まずは自分です。
自分自身の酸いも甘いも分かってこそ、他人のそれも受け入れられるようになります。
中心を自分の外に置いてしまうことは現実逃避でしかありません。
天地宇宙の中心は、どこまでいっても自分自身の中にあるのです。
世界の平和や、宇宙地球の健康を祈るよりも先にやることがあるわけです。
自分自身が平穏で健康になることが、そのまま世界の平和であり、宇宙や地球の健康となります。
この自分というのは、もっともっと大切なものです。
天地宇宙よりも先に重きを置くべき、尊い存在なのです。
すべてを受け入れるというのは、すべてを自分の中心に通すということです。
天地があってそこに自分を置くのではなく、まず自分があってそこに天地が置くということです。
これを曲解してしまうと全く違うものになってしまいます。
本当は認めていないのに取り敢えずケチつけないようにしようというのは、自分の中心を通したことになりません。
相手の意見に反対なのにそれを表に出さず、その場を取りつくろって相手の言うことに同意するというのも、言わずもがなです。
それらは、受け入れとは全く異なるものです。
寛容なんかではなく、ただ単にスルーさせているに過ぎません。
受け入れているどころか、無視しているのと何ら変わらないわけです。
自分の中心を相手に置くというのは、寛容でも謙虚でもなく、単なる偽善でしかありません。
受け入れるというのは、自分の中心を今ココの自分にしっかりと保ったまま、心を広げることです。
しっかりと相手の言動を自分の中心で感じることです。
相手に賛同するかどうかは関係ありません。
内容のイエス・ノーに関係なく「相手のその言動をそのまま許容する」「プラスもマイナスも色付けせずそのまま優しく温かく見守る」という
のが、受け入れるということです。
そこを履き違えてしまうと、相手を受け入れるためには賛同しなくてはいけないとか、衝突しないように自分の中心から離れて相手の位置に
自分を置くということになってしまいます。
それを、相手の立場に立っているだなんて勘違いしてしまうとますますおかしくなってしまう。
相手の立場に立つというのは自分の中心を動かすことではありません。
それは、自我にしがみついている我執を取り払って視野を広げるということです。
つまり、どこまでいっても中心は今ココであるわけです。
その状態のまま、心を相手のところまで広げるということです。
自分の中心に柱が立った状態、つまり、私が私であることが独自性というものです。
そして他人も、他人自身であるわけです。
どちらも相手に迎合しないからこそ、それぞれユニークな存在として、自分という心柱を立てられます。
それが多様性を生み出し、大きな調和となって天地宇宙を埋め尽くしています。
天地宇宙というのは、幾千万もの多様な色彩に輝きあふれ、響き渡る重厚なハーモニーそのものなのです。
天地宇宙は、独自性こそ喜びとして受け入れます。
それを優しく見守る温かさに溢れています。
天地宇宙に満ちる柔らかな温かさとは、すべての存在をそのままに受け入れていることの現れであるわけです。
一方でまた、「情けは人のためならず」という言葉がありますが、この場合の“情”も、天地の心の一つであります。
無視したり、見て見ぬフリをしたり、関わらないようにするのは無情そのものです。
しかし現実的な手助けをしなくとも、相手に心を向けて見守ることは“情け”であるわけです。
実際の行動が伴おうが伴わまいが、相手に心をしっかり向けるところに、このコトワザの真意があります。
そして、自分が天地の心を広げていれば、相手もまた天地の心へと近づいていきます。
しかし、この“情”もまた“愛”と同じく自我が入りやすい言葉といえます。
“愛”も“情”も、それが良いもの正しいものという固定観念があるがゆえに、私たちは安心して我欲の入るにまかせてしまうところがあります。
天地の心だからといって無思考のままに力を注ぐと、大変な落とし穴に落ちる危険があるということです。
一例をあげるなら、ボランティアなどもその危険と紙一重だと言えます。
手助けというのは、本来は一切の貸し借りのない透明なものです。
目の前で転んだ人には思わず手を差し伸べるように、とても自然なものであるわけです。
そういう透明な感覚で人助けをされている方たちは本当に神様のような人たちだと思います。
ただ、それが形だけの正義や善悪に縛られると180°一転してしまうことになります。
手助けしないのが悪いことであるかのような強迫観念を抱いてしまったり、あるいは自分は良いことをしたんだという自己満足に溺れてしまう。
それは、いずれも我執であり囚われであるわけです。
行動の原動力が我執を満たすためのものであった場合、たとえ見た目は素晴らしいことに映ったとしても、実際は心の囚われを強めることに
しかなっていません。
あるいは“謙虚”という言葉にしても同じことが言えます。
特に誤解されやすいのが、自分を主張しない、意見をしないというものです。
確かに、主張したいという衝動が我欲に基づいたものであれば、それを出さないことは謙虚と言えるかもしれません。
しかし、何でもかんでも引っ込めればいいとなってしまうと、たちまちおかしなことになってしまいます。
相手に嫌われてしまうという理由で自分の意見を引っ込めるのは、謙虚などではないわけです。
外から見れば謙虚のように映ったとしても、その実体は我欲でしかありません。
「美しき善き自分であろう」とするあまりに、かりそめの謙虚さに縛られてしまう。
それを繰り返すことは、ただ我執を厚塗りしていくことにしかなりません。
そして残念ながらその結果は、他人から見ても薄皮一枚の金メッキでしかなく、今にも壊れそうな危うい姿にしか映らないのです。
観ていて痛々しいものには、人は近づきにくくなり距離を置くようになってしまいます。
人間関係での孤独感というのは、得てして自分自身が作り出してしまっているものであるということです。
それよりも、ガサツだ何だと言われようとも伸び伸びとやっている人の方が、まわりは安心して近づけます。
そう、50点、60点でいいわけです。
ツギハギの100点を目指そうとすると0点になりかねないのです。
金メッキはモロいものです。
それを維持するために薄氷を歩く日々はツラく苦しいものです。
自分の素直な心を、わざわざ濁らす必要はありません。
むしろ、そのような損得勘定など存在しないところに、本当の謙虚さがあるのではないでしょうか。
相手に優しく心を向けたまま、ただ見守るというのが真の謙虚さです。
相手がやりたいことをやるのを許容して、そのまま認めてあげる。
たとえ相手が好意で誘ってくれた時でも、自分が嫌だったなら、透き通った心を向けたままやんわり優しくお断りすればいいのです。
相手にどう思われるか?という不安は、自分の中心から離れてしまうことにしかなりません。
あれこれ理詰めで言い訳をすると、濁った心がかえって相手の心を波立たせることにもなります。
イエス・ノーではなく、我欲の無い状態にこそ、相手は謙虚さを感じるのです。
謙虚な心とは、つまり「透明なこころ」のことなのです。
愛や情け、あるいはボランティアや謙虚という言葉は、それを無条件に良いものだとする固定観念が免罪符となって、自制なしに我欲を垂れ
流させてしまう危険があります。
同じように、善悪という決めつけや、正義や大義という言葉にもその危険があるということです。
世界の紛争の原因も、すべてはそこにあります。
決して踊らされてはいけません。
正義も善悪も、あくまで人間が決めつけた価値観でしかありません。
それは単なる一つの指標でしかなく、いわば方便に過ぎないわけです。
価値観というのは、社会が混乱しないように取り決めた約束事のようなものです。
もともとこの世には存在していなかったものです。
あくまで架空のものでしかありません。
そんな空っぽのハリボテに自分の中心を置くことはないのです。
自分の中心は、常に自分の中にあります。
自分の中心に柱を立て、社会通念や常識というものに振り回されず、囚われや思いこみを手放していくことで、段々と透き通った状態になって
いきます。
それはもともとの状態、天地宇宙の姿そのものに還っていくことであるわけです。
あらゆる全てのものを、それそのままでOKと見なす。
あらゆるものを温かく優しい眼差しで見守る。
それこそは、透明な愛情を放っていることに他なりません。
透き通った心を放つことは、天地の姿そのものです。
天地自然は、透明な愛情に満ち満ちています。
我執の濁りが晴れわたり、外界を遮断している壁がなくなると、天地の神氣・エネルギーが私たちに流れ込んできます。
「情けは人のためならず」「与えれば与えられる」というのは、そういうことです。
与えられるのは、あくまで結果でしかありません。
自分が濁った心を向ければ、まわりの人間も、環境も濁った状態になり、それがそのまま自分に還ってきます。
自分が天地と溶け合って透明な心が広がれば、まわりの人も環境も透明に澄んでいき、それが自分に還ってくるのです。
神道では、あらゆる存在を鏡に喩えています。
一見すればプラスをイメージする、与えたり情けをかけたりというのも、その心が濁っていれば結果はそのままの反射となります。
まさに、与えたものは与えられるわけです。
良くない結果が現れた時に、まだ時間差だからこれは違うと思いこもうとしたり、無理やりプラス思考の解釈をつけるのは、自分で自分を
騙していることにしかなりません。
確かに私たちの世界は、クモの巣のように囚われやすい網が張り巡らされているといえるかもしれません。
言葉にせよ、概念にせよ、いちいち絡まりやすいものばかりです。
中には、そこに囚われることが素晴らしいことだとする誤った固定観念もあります。
そうしたものが、多くの迷いや苦しみを生んでしまっています。
ただ、それらの網自体を否定するのは筋違いでしかありません。
それ自体は、何も悪いものではないからです。
それぞれに相応の役割や、本来の意味があります。
私たちが勝手に囚われるだけで、網自体はもともと必要なものばかりであるわけです。
ですから最初から、心配などすることはないのです。
そもそもこの世にあるものは、すべてがOKなのです。
私たちはそこに不要な意味づけをすることで、自分たちを囚われの世界へと追いこんでしまいます。
自分自身が清らかに透き通った状態であれば、何かに引っかかって囚われることなどありません。
地平線へと広がる青々とした緑の大地を前にして、足元の雑草にオドオドするのは勿体ないことです。
コケたとしても、その時はその時でイイわけです。
この世界は、私たちのお遊戯の発表会です。
つまずいて転んだり、網に引っかかっても、泣いて笑えばいいのです。
そんな自分たちの姿を私たちは天地の心で見守り、ほほえみ楽しむのです。
現実の今、そして今の自分をそのまま受け入れることが、世界をそのまま受け入れることになります。
天地宇宙の心になれば、世界は鮮やな輝きとなります。
目の前に広がるこの大草原へ、思いっきり駈け出していきましょう。
あの人はどう思ってるかとか、自分はどう見られているかなんてバカバカしいことです。
何もかもを忘れて、走りまわり、飛びまわり、ハシャギまわる。
それこそが、この世を満喫している姿だと言えるのではないでしょうか。
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