まわりの環境が変わると、それまでの当たり前が通用しなくてハッとすることがあります。
たとえば新しい土地に引っ越しますと、買い物やゴミ捨てのような些細なことでも勝手が分からず、頭が
フル回転になってしまって神経を使うものです。
今まで考えずにやれてたことに一つ一つ引っかかってしまうと、その度にペースが乱れてしまいます。
見知った環境では無意識のうちに先の先まで見通せていますので、頭も心も使わず自然にこなせますが、
勝手が分からないと視界が寸詰まりになって、目先のことに翻弄されてしまいます。
これは武道でも同じで、慣れないうちは相手の手足など末端だけを見てしまいます。
すると、次に何が来るか分からないので気が休まらず、組手が終わった時にはグッタリしてしまいます。
「こう来たらこう対処しよう」と一つ一つマニュアルで考えてしまうのが一つの原因です。
景色が見えないから一つ一つに囚われてしまうとも言えますし、一つ一つに囚われてしまうから景色が
見えないとも言えます。
それでもその苦労を続けていくうちに、蹴りも突きも、何も考えず勝手に自動で捌(さば)けるようになって
きますと、相手全体を包むように景色が広々と見え始めて、驚くほど疲れなくなります。
武道に限らず、普段の生活であっても心が狭まってしまうとまるで息が詰まるようにバテてしまいます。
ましてや、右へ左へと振り回されると尚更です。
これは決して、体力やスタミナの問題だけではありません。
まさに心の広がりがエネルギーに影響するということです。
どれだけ分け隔てなく天地に溶け込んでいるかによって、目に見えないエネルギーの差が生じます。
心が広がれば広がるほど、天地の氣が流れ込んできますし、逆に心が狭まっていると、その流れが遮断
されて天地のエネルギーが欠乏してしまいます。
また心が広がれば、心は安定します。
心が狭まれば、心は揺れに揺れます。
どちらがよりエネルギーを消耗してしまうかは明らかでしょう。
心が縮こまっていると、天地のエネルギーをうまく取り込めないだけでなく、必要以上の浪費までしてしまう
ということです。
慣れないことをしますと、どうしても心が目先に囚われやすくなります。
そして身の周りの環境が変われば、慣れないことだらけですので、それが顕著になります。
そういう意味では、職場などはその最たるものと言えるかもしれません。
なにせ、シンドイからといって自分で勝手に妥協したり、ノンビリやったりできませんので(笑)
たとえば仕事がまったく変わりますと、環境以前に自分が素っ裸にされてしまいます。
知識も経験もゼロからのスタートですと、そもそも何が起きているのか分かりませんし、何をすればいいの
かも分かりません。
しかし、そんなことはお構い無しに、仕事は次から次へと押し寄せてきます。
人員削減の時代、一つ一つ丁寧に教えてもらえることもありませんし、一人分以上の仕事処理を即日期待
されます。
遠くを見たり景色を広々と見ようとしても、次々と仕事が押し寄せてきますと、あとがつかえてますので
そんな悠長なことは言っておられず、目の前をがむしゃらにこなしていくだけになります。
ただそうなると、いくら気持ちを前向きに出していても目先のことしか見えていませんので、背中や脇は
スカスカです。
あちこちから仕事が殺到するうちに、ガラ空きの死角からズカーンと直撃を受けてしまいます。
そうなるとまさにサンドバッグ状態です。
キックボクシングでも、食らいたくないからといってすべてのパンチやキックを見極めようとしていると途中
から追いつかなくなり、総崩れとなって四方八方から滅多打ちに合います。
仕事にしてもキックにしても、色々なことが一斉に殺到すると思わずそれらを全て捌こうとしてしまいます。
でも、そこで焦って全部を見ようとしなくていいということです。
むしろ、見ないほうがいいと言った方がいいかもしれません。
1発2発くらい捌きそこねても死にはしません。
しかしその1発2発の失敗を嫌がってガチガチに構えてしまうと、それこそ何十発も食らうことになって
しまうわけです。
もしも幸いにして、器用に全てを捌けたとしても、神経はグッタリでしょう。
しかも下手にそのやり方でこなせてしまった方が、かえってダメージが根深くなり兼ねません。
ですから、そういう意味では不器用なほうがいいとも言えます。
何故ならば、目に見えてすぐにパンチを受けた方がダメージは小さくて済むからです。
手先器用や要領よしは、あとで大きな代償を払うことになってしまいます。
これは仕事に限らず、人生全般に言えることです。
待ったなしで今こなさなくてはいけない場面というのは、日頃の日常においていくらでもあることです。
器用・不器用というのも人間関係に当てはまりますし、体が強い弱いという部分でも同じことが言える
わけです。
捌こうと思えば思うほど、実は、心は受け身になってしまいます。
自分では攻めているつもりでも、心が構えている状態というのは、受け身なのです。
目の前に来たものを処理しようというスタンスが、すでに受け身であるわけです。
自分としては前傾姿勢になってヨシ来い!と気合いを出しても、脇はガラ空きです。
目が届いている範囲は強いけれども、少し外されるとモロい。
だからと言ってそうした隙をなくそうと全方位に気合いを出そうとすると、ますます心は頑なになって
しまい、かえって打たれ弱くなってしまいます。
基本、受け身のスタンスである限り、頑張れば頑張るほどカラ回りしていくわけです。
がむしゃらな必死さは大事ですが、全てを落ち度なく完璧にこなそうとする心は、単なる我執になって
しまうということです。
食らってもいいのです。
それよりも、ちゃんと広がった景色を見れていることの方が大事なのです。
「自分の信念に従ってこうしなくてはいけない」とか「まわりの期待にこたえなくてはいけない」とか、
そのような縛りを手放して、失敗しようがパンチを食らおうがそんな一発二発など構わないという心で
もって、目の前のことをがむしゃらにやっていくということです。
ですから、最初のうちは、一つ一つ目先のことしか見えていなくて、いいのです。
これまでの話をすべて引っくり返すようですが、本当の入門したての最初のうちは一つ一つのパンチや
蹴りを見極めようと集中するのが、いいのです。
ただし、それは食らいたくないという気持ちからではなく、捌き方を覚えるという意味からです。
ですから、捌き方を覚えたのに何年たってもいつまでも目先に囚われてしまうのは、食らいたくないと
いう我欲になってしまいます。
環境が変わることで、それまで広々と見えていた景色が一夜にして、手先足先しか見えない景色になる
のは息苦しくツラいことではあります。
ただ今まで見たこともないようなパンチや蹴りが飛んでくるうちは、その捌き方を覚えるまでは手先に
集中するしか無いのです。
もちろん達人の域に達して芯から天地と一体になりきっていれば、見たこともないものが降りかかって
きても、手先に惑わされず全体が見えたままスッと対処できるかもしれません。
しかし、天地と一体でありたいという欲があるうちは、到底そのような境地には辿り着けていないわけ
です。
そうなると、いくら全体が見えるのが大切だからといって、一発二発食らっていいなどと思っていると、
単なる恰好だけで中身が伴わず、一つも捌けず滅多打ちにあってしまいます。
右も左も分からないうちに、最初から広々と見ようとするのは、単なる我執でしかありません。
世界とは、広々と見ようとするものではなく、自然に広々と見えてくるものです。
それは結果としての理想形であるだけで、勝手が分かるまでは、今のドタバタに身を投じ切るしかありま
せん。
大船に乗れば揺れないのが分かっていても、小舟の操作を仕事として与えられたのならば、それに没頭
するだけということです。
大海原に翻弄される落ち葉の如く、小舟とともに、自身も存分に揺らされまくることが必要です。
そこで自分だけは揺らされまいとするのは我欲ということになります。
心揺らされるのは修行不足だと嘆くことこそ、単なる驕りでしかないわけです。
環境が変わる前はどっしり落ち着けていたのに、今は明らかに心の一点が浮き足立って波立っていたと
しても、それはそれでいいのです。
それが今の目の前に身を投じきったありのままの姿であるならば、それこそが、自然な姿(自然体)と
いうことになります。
いまの自分の自然体にそのまま素直になることが、この世界に生きる価値となります。
その状態を、杓子定規でもって良い悪いと測ることには、あまり意味がないのです。
ですから、そうした価値判断に嘆くことはありません。
ましてや、それをもって今の自分が劣っていると思うなど、もってのほかです。
そもそも、自分の状態を知らないまま生きてしまっているために、今の状態を分からせようというのが、
氣のテストの目的であり、そのテストをクリアするかどうかは目的ではありません。
つまり、今の自分の状態をしっかりと理解していることこそが、大事なことなのです。
それさえ自分で分かっていれば、何の問題もありません。
そして、それが正常化できればそれは喜ばしいことですが、浮き足立ったままだからといってそれが悪
ということにはならないのです。
そこを履き違えて、落ち着いた状態こそが絶対正義であり、そうならなくてはいけないと思ってしまうと、
それこそが執着や囚われになってしまいます。
まわりにとやかく言われても、気にせずほっとけばいいのです。
囚われないことこそが、天地の大道です。
大事なのは、今の目の前です。
これだけは間違いありません。
そして、その時その場面での必死の集中というのは、形や見た目ではありません。
正解や理想など必要ないのです。
確かに、まわりのみんなが船上で翻弄されていても、一人落ち着き、泰然自若としていたいものです。
そして、その落ち着きに感化されて周りも冷静になっていくというのは理想ではあります。
しかし、その落ち着きを自分で作ろうとしてしまうと、かえって逆効果になってしまいます。
どんな場面であろうと、その時の自分の素直な自然体こそが本物なのです。
下手に氣の原理を知っていると、天地と一体の状態になろうとか、溶け合おうとか、目先に囚われまい
とか、形や結果ばかりに心が向いてしまいます。
でも、そんなことは本来、二の次のものなのです。
何よりもまずは目の前のことに集中することが第一なのです。
それをしっかりやった上で、初めてその先に原理原則が顕われてくるということです。
物事には順序というもがあり、段階というものがあります。
そういうものだと知ることは大事ですが、それに囚われてしまうと本末転倒してしまいます。
つまり、船が揺れに揺れたら、自分の心も揺れに揺らされて、全然かまわないわけです。
揺らされないのがいいのダと頑なになる必要はないということです。
「災難に遭うときはしっかり遭うのが良い」というのはそういうことですし「寒さの夏はオロオロ歩く」と
いうのはそういうことです。
そもそも、みんなが大騒ぎしている修羅場に、ロクに何もできないくせにドーンとシタり顔でいたら、
どう思うでしょうか。
本当の落ち着きとはそういうことではありません。
みんなの騒ぎから離れることではなく、その騒ぎの中に身を投じ、右へ左へと走り回って、そのなかで
冷静な判断を下すことです。
中途半端な落ち着きは、単なる部外者ズラにしか映らず、反発心と断絶感を生むことにしかなりません。
その空間、その環境、その雰囲気にどっぷりと身を投じることが、まず第一歩です。
そこで揺らされまくったら、揺らされまくればいいのです。
そうするうちに、小舟の操作も覚えていくものです。
操作を覚えもしないのに大船の理想だけを語っても何の意味もありません。
地に足つかぬ人間の言葉など、誰も聞く耳を持ちません。
そうして小舟の勝手が分かったならば、そこで初めて心落ち着けて遠望するのが良いでしょう。
いつまでもそこで揺れに揺れていることはありません。
それはそれで執着になってしまいます。
ここで改めてまた、氣の原理が生きてくるわけです。
地に足つけるとは、目の前のことにシッカリと身を投じることです。
その上で、心が落ち着いてくると自然と視界が広がっていきます。
そうして初めて、まわりの人たちの中にも落ち着きが伝わっていくのです。
思いつくまま次々と乱暴に仕事を投げかけてきた人たちも、無意識に一呼吸を入れてから話しかけてくる
ようになるものです。
仕事の量自体は変わらないかもしれませんが、みんなアップアップしていた雰囲気が、スッと変わること
でしょう。
人によっては、環境が変わる前は、夢のように恵まれた日々だったかもしれません。
お金の心配もなく、家族の心配もなく、親戚づきあいや近所づきあいの心配もなく、順風満帆な日々。
あるいは、何ものにも縛られず、何ものにも振り回されず、自由に空を飛ぶような日々。
それが突如、天と地ほど違う環境に激変してしまうと、心や体はついていけなくなることでしょう。
何もかもがあったのに、何もかもが無くなってしまう。
そして他の親戚や隣近所の人、他の仕事をしてる人々を見てみると、今でも幸せそうに気楽に伸び伸びと
やっているかもしれません。
なぜ今の自分だけが、こんなに落ちてしまったのだろうと、訳もなく悲しい気持ちになってしまいます。
でも、過去やまわりを見ても、何の意味もありません。
過去の自分も、隣の人たちも、それはそれなのです。
いつまでもそこに心を置くものではありません。
あちこち心が分散すると、どうしても比較が発生してしまいます。
それによって、自分の置かれた環境について、価値判断が自動的に始まってしまいます。
この世界というのは、本当は、いま自分の目の前だけが、自分にとっての100なのです。
人それぞれに、その時その時の「いま」があるだけです。
それが良いか悪いかというのは、勝手な価値判断でしかありません。
本来はすべてが無色透明です。
それを因果応報とか、何がいけなかったのだろうかなどと考えることに、全く意味がありません。
悪いことがあったら次は良いことがあるとか、良いことがあったら次は悪いことがあるとか、そのような
ことでもありません。
良いも悪いも、単なる価値判断にすぎません。
ただ、「いま」があるだけです。
過去や未来を追う前に、いま目の前のことが全てなのですから、そこに完全に身を投じるだけです。
そもそも、原因が分かったところで、目の前の今は何も変わりません。
因果応報のもとを辿ろうとするのは、自分の不満や不安を解消しようとする行為でしかなく、「いま」を
置き去りにする行為でしかありません。
「いま」は「いま」なのです。
それ以上でも、それ以下でありません。
そこに無心で没頭するのが全てであって、理屈で納得するものではないわけです。
ですから、災難に遭う時はしっかり遭うのがいいということです。
目を背けたり、過去や未来を追ったりせず、いまの眼前にすべてを向けるだけです。
一つ一つの今で、そのようにしていくことが、自分の人生の最高のルートなのです。
こうすれば良かったとか、こうしたから良かったとか、そういうことではありません。
仕事だけに限らず、暮らしや健康、人間関係、プライベートもすべて同じです。
日々サービス残業で家には寝に帰るだけだったり、休日出勤が続いたりすると、自分のペースも掴めず、
出口の無いトンネルに入ってしまったような気持ちになってしまいます。
でもそこは、もとのペースに戻そうとあがく場面ではないということです。
「あぁ今度はそういう流れが来たんだな」という割り切りが大事です。
「しゃーない、しっかり災難に遭う場面なんだな」というわけです。
何故だろうとか、そんなつまらないことを考えても意味がないのです。
体の調子が悪い時なども、なぜ体調が悪くなってしまったのかと悶々としてしまいますが、これまた理由
を求めても何も解決などありません。
病気に遭う時も、しっかりと遭うのがいいということです。
しゃーない、と。
最初のうちは、一つ一つの情報に目が奪われてしまいます。
当然、全体を見る余裕なんてなく、末端に囚われて視界が狭まってしまうでしょう。
でもそれは最低条件として必要なものです。
そして、その段階では心も寸詰まりとなって、もとの健康体に戻そうと心が散れぢれになり、悶々と暗い
気持ちになっていくものです。
それは心の原理なので仕方ないことであって、ある意味、必要な過程とも言えるかもしれません。
「雨ニモ負ケズ」の素直な心の顕われは、まさにそれそのものです。
ただ、いつまでもそこに囚われ続けてしまうのは、自分自身が望んだものではありませんし、天地や宇宙
も悲しむだけです。
泣いたと思ったら笑っている、一喜一憂の素直さが大切です。
それはそれとして諦めることとは、自らがつかんで離さなかった我執を諦めるということです。
囚われを手放すことは、現状を受け入れることになります。
そうなれば、あとはしっかりと今の日々を味わいきるだけです。
そうなると、自分にとってそれは最早「災難」ではなくなります。
単なる「いま」になります。
受け入れずに抵抗し続けている限り、災難は「災難」であり続けるのです。
「いま」をそのまま受け入れて生きていると、末端に囚われず、全体の景色が自然に見えてきます。
そうしているうちに、気づけばまた潮目が変わってきます。
いつしか大海の流れが変わってくるわけです。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
是は災難をのがるる妙法にて候
マイペースとは、決して自分のペースでやるということではありません。
自分のペースというのは、まわりの環境が変われば、まったく通用しなくなります。
大波に飲まれてしまうと、自分のペースで泳ぐことなど不可能です。
そうした時は、素直に諦めて、力を抜いて荒波に身を任せて泳ぐだけです。
なぜ潮目が変わったのかと考えることなどナンセンスなのです。
波というのは、時に高く、時に静かに、コロコロと変わっていくものです。
いつまでもずっとなだらかに行こうと思っても、それは自分が決められることではありません。
そうであればこそ、波の高低を考えることなく、ただ身を任せて泳いでいくしかありません。
そうなると、その時その時で自然とペースは変わっていくことになります。
つまり、マイペースというのは、天地のペースに合わせるということです。
まわりの環境に不満を抱いてそれを変えようとするのは、自分のペースに天地のペースを合わさせようと
していることに他なりません。
色々なハウツー本を読みあさったり、何とかの法則を実践しようとするのは、残念ながらそういうことで
しかないのです。
仕事で家に帰れない、病気で思うように動けない、あの人と上手くいかない、この人と会いたくない・・・
少し前まではそんなこと無かったのに、突如、世界が変わってしまったように感じることがあります。
そんなとき、家族サービスが出来なくなってしまう、武道の練度が落ちてしまう、給料が下がってしまう、
みんなに迷惑かけてしまう、開放的な楽しい時間が失われてしまう・・・と、過去の自分と比較してしまい、
次から次へと不安や不満が湧き上がってきます。
でもそういう時は、もう、そういうものだと諦めて、しっかりそこに身を投じるしかないということです。
それはそれとして、身を投じきるのが、いいのです。
そして、そうした状況が永遠に続くということはありません。
何故ならば、それが天地のペースだからです。
物事が変わらないままであるというのは人間が抱く我執のペースであって、常に変わり続けるのが天地
のペースなのです。
その天地のペースを無視して、自分のペースを変えずにあがき続けていると、いつまでたっても天地の
ペースというものを否応なく自分の眼前に突きつけられることになります。
大波を嫌って自分のペースで泳ぎ続けるかぎり、いつまでたっても大波の中から抜け出せない、つまり
苦しい環境が永遠に続いているかのように映るということです。
「マイペースでいく」(行く・生く)とは、自然のリズムに生きるということです。
マイペースとは、自ら作るものではなく、「自然と成る」ものです。
そしてまた、どうしようもないことを「仕方ない」といいます。
人の力ではどうしようもないことは、あれこれ抵抗せずに綺麗さっぱり潔く諦めて受け入れるのが一番と
いうことです。
仕方がありません。
災難に逢う時は、しっかりと逢いましょう(笑)
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たとえば新しい土地に引っ越しますと、買い物やゴミ捨てのような些細なことでも勝手が分からず、頭が
フル回転になってしまって神経を使うものです。
今まで考えずにやれてたことに一つ一つ引っかかってしまうと、その度にペースが乱れてしまいます。
見知った環境では無意識のうちに先の先まで見通せていますので、頭も心も使わず自然にこなせますが、
勝手が分からないと視界が寸詰まりになって、目先のことに翻弄されてしまいます。
これは武道でも同じで、慣れないうちは相手の手足など末端だけを見てしまいます。
すると、次に何が来るか分からないので気が休まらず、組手が終わった時にはグッタリしてしまいます。
「こう来たらこう対処しよう」と一つ一つマニュアルで考えてしまうのが一つの原因です。
景色が見えないから一つ一つに囚われてしまうとも言えますし、一つ一つに囚われてしまうから景色が
見えないとも言えます。
それでもその苦労を続けていくうちに、蹴りも突きも、何も考えず勝手に自動で捌(さば)けるようになって
きますと、相手全体を包むように景色が広々と見え始めて、驚くほど疲れなくなります。
武道に限らず、普段の生活であっても心が狭まってしまうとまるで息が詰まるようにバテてしまいます。
ましてや、右へ左へと振り回されると尚更です。
これは決して、体力やスタミナの問題だけではありません。
まさに心の広がりがエネルギーに影響するということです。
どれだけ分け隔てなく天地に溶け込んでいるかによって、目に見えないエネルギーの差が生じます。
心が広がれば広がるほど、天地の氣が流れ込んできますし、逆に心が狭まっていると、その流れが遮断
されて天地のエネルギーが欠乏してしまいます。
また心が広がれば、心は安定します。
心が狭まれば、心は揺れに揺れます。
どちらがよりエネルギーを消耗してしまうかは明らかでしょう。
心が縮こまっていると、天地のエネルギーをうまく取り込めないだけでなく、必要以上の浪費までしてしまう
ということです。
慣れないことをしますと、どうしても心が目先に囚われやすくなります。
そして身の周りの環境が変われば、慣れないことだらけですので、それが顕著になります。
そういう意味では、職場などはその最たるものと言えるかもしれません。
なにせ、シンドイからといって自分で勝手に妥協したり、ノンビリやったりできませんので(笑)
たとえば仕事がまったく変わりますと、環境以前に自分が素っ裸にされてしまいます。
知識も経験もゼロからのスタートですと、そもそも何が起きているのか分かりませんし、何をすればいいの
かも分かりません。
しかし、そんなことはお構い無しに、仕事は次から次へと押し寄せてきます。
人員削減の時代、一つ一つ丁寧に教えてもらえることもありませんし、一人分以上の仕事処理を即日期待
されます。
遠くを見たり景色を広々と見ようとしても、次々と仕事が押し寄せてきますと、あとがつかえてますので
そんな悠長なことは言っておられず、目の前をがむしゃらにこなしていくだけになります。
ただそうなると、いくら気持ちを前向きに出していても目先のことしか見えていませんので、背中や脇は
スカスカです。
あちこちから仕事が殺到するうちに、ガラ空きの死角からズカーンと直撃を受けてしまいます。
そうなるとまさにサンドバッグ状態です。
キックボクシングでも、食らいたくないからといってすべてのパンチやキックを見極めようとしていると途中
から追いつかなくなり、総崩れとなって四方八方から滅多打ちに合います。
仕事にしてもキックにしても、色々なことが一斉に殺到すると思わずそれらを全て捌こうとしてしまいます。
でも、そこで焦って全部を見ようとしなくていいということです。
むしろ、見ないほうがいいと言った方がいいかもしれません。
1発2発くらい捌きそこねても死にはしません。
しかしその1発2発の失敗を嫌がってガチガチに構えてしまうと、それこそ何十発も食らうことになって
しまうわけです。
もしも幸いにして、器用に全てを捌けたとしても、神経はグッタリでしょう。
しかも下手にそのやり方でこなせてしまった方が、かえってダメージが根深くなり兼ねません。
ですから、そういう意味では不器用なほうがいいとも言えます。
何故ならば、目に見えてすぐにパンチを受けた方がダメージは小さくて済むからです。
手先器用や要領よしは、あとで大きな代償を払うことになってしまいます。
これは仕事に限らず、人生全般に言えることです。
待ったなしで今こなさなくてはいけない場面というのは、日頃の日常においていくらでもあることです。
器用・不器用というのも人間関係に当てはまりますし、体が強い弱いという部分でも同じことが言える
わけです。
捌こうと思えば思うほど、実は、心は受け身になってしまいます。
自分では攻めているつもりでも、心が構えている状態というのは、受け身なのです。
目の前に来たものを処理しようというスタンスが、すでに受け身であるわけです。
自分としては前傾姿勢になってヨシ来い!と気合いを出しても、脇はガラ空きです。
目が届いている範囲は強いけれども、少し外されるとモロい。
だからと言ってそうした隙をなくそうと全方位に気合いを出そうとすると、ますます心は頑なになって
しまい、かえって打たれ弱くなってしまいます。
基本、受け身のスタンスである限り、頑張れば頑張るほどカラ回りしていくわけです。
がむしゃらな必死さは大事ですが、全てを落ち度なく完璧にこなそうとする心は、単なる我執になって
しまうということです。
食らってもいいのです。
それよりも、ちゃんと広がった景色を見れていることの方が大事なのです。
「自分の信念に従ってこうしなくてはいけない」とか「まわりの期待にこたえなくてはいけない」とか、
そのような縛りを手放して、失敗しようがパンチを食らおうがそんな一発二発など構わないという心で
もって、目の前のことをがむしゃらにやっていくということです。
ですから、最初のうちは、一つ一つ目先のことしか見えていなくて、いいのです。
これまでの話をすべて引っくり返すようですが、本当の入門したての最初のうちは一つ一つのパンチや
蹴りを見極めようと集中するのが、いいのです。
ただし、それは食らいたくないという気持ちからではなく、捌き方を覚えるという意味からです。
ですから、捌き方を覚えたのに何年たってもいつまでも目先に囚われてしまうのは、食らいたくないと
いう我欲になってしまいます。
環境が変わることで、それまで広々と見えていた景色が一夜にして、手先足先しか見えない景色になる
のは息苦しくツラいことではあります。
ただ今まで見たこともないようなパンチや蹴りが飛んでくるうちは、その捌き方を覚えるまでは手先に
集中するしか無いのです。
もちろん達人の域に達して芯から天地と一体になりきっていれば、見たこともないものが降りかかって
きても、手先に惑わされず全体が見えたままスッと対処できるかもしれません。
しかし、天地と一体でありたいという欲があるうちは、到底そのような境地には辿り着けていないわけ
です。
そうなると、いくら全体が見えるのが大切だからといって、一発二発食らっていいなどと思っていると、
単なる恰好だけで中身が伴わず、一つも捌けず滅多打ちにあってしまいます。
右も左も分からないうちに、最初から広々と見ようとするのは、単なる我執でしかありません。
世界とは、広々と見ようとするものではなく、自然に広々と見えてくるものです。
それは結果としての理想形であるだけで、勝手が分かるまでは、今のドタバタに身を投じ切るしかありま
せん。
大船に乗れば揺れないのが分かっていても、小舟の操作を仕事として与えられたのならば、それに没頭
するだけということです。
大海原に翻弄される落ち葉の如く、小舟とともに、自身も存分に揺らされまくることが必要です。
そこで自分だけは揺らされまいとするのは我欲ということになります。
心揺らされるのは修行不足だと嘆くことこそ、単なる驕りでしかないわけです。
環境が変わる前はどっしり落ち着けていたのに、今は明らかに心の一点が浮き足立って波立っていたと
しても、それはそれでいいのです。
それが今の目の前に身を投じきったありのままの姿であるならば、それこそが、自然な姿(自然体)と
いうことになります。
いまの自分の自然体にそのまま素直になることが、この世界に生きる価値となります。
その状態を、杓子定規でもって良い悪いと測ることには、あまり意味がないのです。
ですから、そうした価値判断に嘆くことはありません。
ましてや、それをもって今の自分が劣っていると思うなど、もってのほかです。
そもそも、自分の状態を知らないまま生きてしまっているために、今の状態を分からせようというのが、
氣のテストの目的であり、そのテストをクリアするかどうかは目的ではありません。
つまり、今の自分の状態をしっかりと理解していることこそが、大事なことなのです。
それさえ自分で分かっていれば、何の問題もありません。
そして、それが正常化できればそれは喜ばしいことですが、浮き足立ったままだからといってそれが悪
ということにはならないのです。
そこを履き違えて、落ち着いた状態こそが絶対正義であり、そうならなくてはいけないと思ってしまうと、
それこそが執着や囚われになってしまいます。
まわりにとやかく言われても、気にせずほっとけばいいのです。
囚われないことこそが、天地の大道です。
大事なのは、今の目の前です。
これだけは間違いありません。
そして、その時その場面での必死の集中というのは、形や見た目ではありません。
正解や理想など必要ないのです。
確かに、まわりのみんなが船上で翻弄されていても、一人落ち着き、泰然自若としていたいものです。
そして、その落ち着きに感化されて周りも冷静になっていくというのは理想ではあります。
しかし、その落ち着きを自分で作ろうとしてしまうと、かえって逆効果になってしまいます。
どんな場面であろうと、その時の自分の素直な自然体こそが本物なのです。
下手に氣の原理を知っていると、天地と一体の状態になろうとか、溶け合おうとか、目先に囚われまい
とか、形や結果ばかりに心が向いてしまいます。
でも、そんなことは本来、二の次のものなのです。
何よりもまずは目の前のことに集中することが第一なのです。
それをしっかりやった上で、初めてその先に原理原則が顕われてくるということです。
物事には順序というもがあり、段階というものがあります。
そういうものだと知ることは大事ですが、それに囚われてしまうと本末転倒してしまいます。
つまり、船が揺れに揺れたら、自分の心も揺れに揺らされて、全然かまわないわけです。
揺らされないのがいいのダと頑なになる必要はないということです。
「災難に遭うときはしっかり遭うのが良い」というのはそういうことですし「寒さの夏はオロオロ歩く」と
いうのはそういうことです。
そもそも、みんなが大騒ぎしている修羅場に、ロクに何もできないくせにドーンとシタり顔でいたら、
どう思うでしょうか。
本当の落ち着きとはそういうことではありません。
みんなの騒ぎから離れることではなく、その騒ぎの中に身を投じ、右へ左へと走り回って、そのなかで
冷静な判断を下すことです。
中途半端な落ち着きは、単なる部外者ズラにしか映らず、反発心と断絶感を生むことにしかなりません。
その空間、その環境、その雰囲気にどっぷりと身を投じることが、まず第一歩です。
そこで揺らされまくったら、揺らされまくればいいのです。
そうするうちに、小舟の操作も覚えていくものです。
操作を覚えもしないのに大船の理想だけを語っても何の意味もありません。
地に足つかぬ人間の言葉など、誰も聞く耳を持ちません。
そうして小舟の勝手が分かったならば、そこで初めて心落ち着けて遠望するのが良いでしょう。
いつまでもそこで揺れに揺れていることはありません。
それはそれで執着になってしまいます。
ここで改めてまた、氣の原理が生きてくるわけです。
地に足つけるとは、目の前のことにシッカリと身を投じることです。
その上で、心が落ち着いてくると自然と視界が広がっていきます。
そうして初めて、まわりの人たちの中にも落ち着きが伝わっていくのです。
思いつくまま次々と乱暴に仕事を投げかけてきた人たちも、無意識に一呼吸を入れてから話しかけてくる
ようになるものです。
仕事の量自体は変わらないかもしれませんが、みんなアップアップしていた雰囲気が、スッと変わること
でしょう。
人によっては、環境が変わる前は、夢のように恵まれた日々だったかもしれません。
お金の心配もなく、家族の心配もなく、親戚づきあいや近所づきあいの心配もなく、順風満帆な日々。
あるいは、何ものにも縛られず、何ものにも振り回されず、自由に空を飛ぶような日々。
それが突如、天と地ほど違う環境に激変してしまうと、心や体はついていけなくなることでしょう。
何もかもがあったのに、何もかもが無くなってしまう。
そして他の親戚や隣近所の人、他の仕事をしてる人々を見てみると、今でも幸せそうに気楽に伸び伸びと
やっているかもしれません。
なぜ今の自分だけが、こんなに落ちてしまったのだろうと、訳もなく悲しい気持ちになってしまいます。
でも、過去やまわりを見ても、何の意味もありません。
過去の自分も、隣の人たちも、それはそれなのです。
いつまでもそこに心を置くものではありません。
あちこち心が分散すると、どうしても比較が発生してしまいます。
それによって、自分の置かれた環境について、価値判断が自動的に始まってしまいます。
この世界というのは、本当は、いま自分の目の前だけが、自分にとっての100なのです。
人それぞれに、その時その時の「いま」があるだけです。
それが良いか悪いかというのは、勝手な価値判断でしかありません。
本来はすべてが無色透明です。
それを因果応報とか、何がいけなかったのだろうかなどと考えることに、全く意味がありません。
悪いことがあったら次は良いことがあるとか、良いことがあったら次は悪いことがあるとか、そのような
ことでもありません。
良いも悪いも、単なる価値判断にすぎません。
ただ、「いま」があるだけです。
過去や未来を追う前に、いま目の前のことが全てなのですから、そこに完全に身を投じるだけです。
そもそも、原因が分かったところで、目の前の今は何も変わりません。
因果応報のもとを辿ろうとするのは、自分の不満や不安を解消しようとする行為でしかなく、「いま」を
置き去りにする行為でしかありません。
「いま」は「いま」なのです。
それ以上でも、それ以下でありません。
そこに無心で没頭するのが全てであって、理屈で納得するものではないわけです。
ですから、災難に遭う時はしっかり遭うのがいいということです。
目を背けたり、過去や未来を追ったりせず、いまの眼前にすべてを向けるだけです。
一つ一つの今で、そのようにしていくことが、自分の人生の最高のルートなのです。
こうすれば良かったとか、こうしたから良かったとか、そういうことではありません。
仕事だけに限らず、暮らしや健康、人間関係、プライベートもすべて同じです。
日々サービス残業で家には寝に帰るだけだったり、休日出勤が続いたりすると、自分のペースも掴めず、
出口の無いトンネルに入ってしまったような気持ちになってしまいます。
でもそこは、もとのペースに戻そうとあがく場面ではないということです。
「あぁ今度はそういう流れが来たんだな」という割り切りが大事です。
「しゃーない、しっかり災難に遭う場面なんだな」というわけです。
何故だろうとか、そんなつまらないことを考えても意味がないのです。
体の調子が悪い時なども、なぜ体調が悪くなってしまったのかと悶々としてしまいますが、これまた理由
を求めても何も解決などありません。
病気に遭う時も、しっかりと遭うのがいいということです。
しゃーない、と。
最初のうちは、一つ一つの情報に目が奪われてしまいます。
当然、全体を見る余裕なんてなく、末端に囚われて視界が狭まってしまうでしょう。
でもそれは最低条件として必要なものです。
そして、その段階では心も寸詰まりとなって、もとの健康体に戻そうと心が散れぢれになり、悶々と暗い
気持ちになっていくものです。
それは心の原理なので仕方ないことであって、ある意味、必要な過程とも言えるかもしれません。
「雨ニモ負ケズ」の素直な心の顕われは、まさにそれそのものです。
ただ、いつまでもそこに囚われ続けてしまうのは、自分自身が望んだものではありませんし、天地や宇宙
も悲しむだけです。
泣いたと思ったら笑っている、一喜一憂の素直さが大切です。
それはそれとして諦めることとは、自らがつかんで離さなかった我執を諦めるということです。
囚われを手放すことは、現状を受け入れることになります。
そうなれば、あとはしっかりと今の日々を味わいきるだけです。
そうなると、自分にとってそれは最早「災難」ではなくなります。
単なる「いま」になります。
受け入れずに抵抗し続けている限り、災難は「災難」であり続けるのです。
「いま」をそのまま受け入れて生きていると、末端に囚われず、全体の景色が自然に見えてきます。
そうしているうちに、気づけばまた潮目が変わってきます。
いつしか大海の流れが変わってくるわけです。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
是は災難をのがるる妙法にて候
マイペースとは、決して自分のペースでやるということではありません。
自分のペースというのは、まわりの環境が変われば、まったく通用しなくなります。
大波に飲まれてしまうと、自分のペースで泳ぐことなど不可能です。
そうした時は、素直に諦めて、力を抜いて荒波に身を任せて泳ぐだけです。
なぜ潮目が変わったのかと考えることなどナンセンスなのです。
波というのは、時に高く、時に静かに、コロコロと変わっていくものです。
いつまでもずっとなだらかに行こうと思っても、それは自分が決められることではありません。
そうであればこそ、波の高低を考えることなく、ただ身を任せて泳いでいくしかありません。
そうなると、その時その時で自然とペースは変わっていくことになります。
つまり、マイペースというのは、天地のペースに合わせるということです。
まわりの環境に不満を抱いてそれを変えようとするのは、自分のペースに天地のペースを合わさせようと
していることに他なりません。
色々なハウツー本を読みあさったり、何とかの法則を実践しようとするのは、残念ながらそういうことで
しかないのです。
仕事で家に帰れない、病気で思うように動けない、あの人と上手くいかない、この人と会いたくない・・・
少し前まではそんなこと無かったのに、突如、世界が変わってしまったように感じることがあります。
そんなとき、家族サービスが出来なくなってしまう、武道の練度が落ちてしまう、給料が下がってしまう、
みんなに迷惑かけてしまう、開放的な楽しい時間が失われてしまう・・・と、過去の自分と比較してしまい、
次から次へと不安や不満が湧き上がってきます。
でもそういう時は、もう、そういうものだと諦めて、しっかりそこに身を投じるしかないということです。
それはそれとして、身を投じきるのが、いいのです。
そして、そうした状況が永遠に続くということはありません。
何故ならば、それが天地のペースだからです。
物事が変わらないままであるというのは人間が抱く我執のペースであって、常に変わり続けるのが天地
のペースなのです。
その天地のペースを無視して、自分のペースを変えずにあがき続けていると、いつまでたっても天地の
ペースというものを否応なく自分の眼前に突きつけられることになります。
大波を嫌って自分のペースで泳ぎ続けるかぎり、いつまでたっても大波の中から抜け出せない、つまり
苦しい環境が永遠に続いているかのように映るということです。
「マイペースでいく」(行く・生く)とは、自然のリズムに生きるということです。
マイペースとは、自ら作るものではなく、「自然と成る」ものです。
そしてまた、どうしようもないことを「仕方ない」といいます。
人の力ではどうしようもないことは、あれこれ抵抗せずに綺麗さっぱり潔く諦めて受け入れるのが一番と
いうことです。
仕方がありません。
災難に逢う時は、しっかりと逢いましょう(笑)
