東京に戻ってから初めての箱根に行ってきました。
ジリジリと刺すような日差しの中、高速渋滞のノロノロ運転。
エアコンも効かないような猛烈な暑さでした。
高速を抜けて少し行きますと、正面に箱根の山々が見えてきました。
太陽サンサン、目の覚めるような青空なのに、山の上にはまるで練乳のように雲がフワーッとかかっていました。
我が愛車は息も絶え絶え、箱根の急勾配は後進に譲りつつ、ようやく箱根神社へ到着。
いつもなら国内外の観光客でごった返している境内が、まるでオフシーズンの平日のようにガラーンとしていました。
ホッと息をつきつつも、噴火騒ぎの影響がここまでかと思うと少し複雑な気持ちでした。
箱根神社というのは昔からとてもご縁の深く、感覚的には氏神様に近い場所です。
そのため、もともと東京に戻ったならばすぐに御礼と報告にあがるつもりだったのですが、まさかその直前に噴火騒ぎになるとは思っても
いませんでした。
そのようなこともありまして、ダブルでドーンと来る可能性を想定しながら境内に入ったわけでしたが、そこは外の喧騒などドコ吹く風。
いつもと変わらぬ静かな空気が漂っていたのでした。
人の居ないガラーンとした景色とは裏腹に、ふんわりと落ち着いた空気感。
不安という人間考えが作り出した景色がいかに不自然であるかということです。
実際の現実とは、人の思いなどに関係なく、いつもと変わらぬ時の流れ、佇まいでした。
さて、神社というのは、その人その人のご縁がある場所です。
同じ神社で手を合わせても、バーンと来たり来なかったり。それは人それぞれであるわけです。
そこに在る何かが依り代となる場合もあれば、そのエリアにそのままドーンとおわすこともありますし、はたまた自分自身が依り代になる
ようなことだってあるかもしれません。
私たち自身の鏡に映って顕れるわけですから、人それぞれ、またその時々によって、来たり来なかったりというのも全く自然な話かと思います。
来る来ない自体もそうですし、その顕れかたにしても人の数だけあることでしょう。
言葉や文字、映像で来る場合。濃縮還元の塊がドカッと来る場合。イメージとして浮かぶ場合。
背中からブワッと全身を包むように皮膚に来ることもあるかもしれませんし、首筋の後ろからエネルギーを照射されるように来るかもしれません。
手を合わせた瞬間にフワーッと幸せな気持ちに包まれ、この世の流れからスッと抜かれ、優しい静寂に置かれるのは本当にありがたく
勿体無いことであります。
時には潜水服にくるまれて水中を歩くような、全身を薄い膜に包まれ夢心地を歩くという珍しいパターンや、たちまち圧縮濃密な空気に一変して、
四方が空間ごと別次元と化すパターンというのも全くもって言葉にはならないものであります。
時と場所、人によって現れかたは山ほど変化するでしょうが、こうしたものは単に切り口が異なるだけでどれも同じものであるわけです。
風変わりだから凄いとか、平凡だから凄くないとか、そういうことではありません。
どれも同じものです。
感じ方ではなく、ただ感じることが大切だと思います。
手を合わせてほんのりと幸せを感じる。
その瞬間、ありがたいなぁという思いがジワジワと湧き出てくる。
頭で考えて湧き上がるのではなく、幸せな感覚とともに感謝の思いが自然と出てくる。
それこそが本当に大切なことであって、その他のことは、言ってしまえばオマケに過ぎません。
派手さに浮かれてしまってそこを見落としてしまうのは本当にもったいないことです。
他の誰かが違うことを言っても、それはその人オリジナルのことですので、それはそれ。
それ以上でもそれ以下でもありません。
「そうなんや」くらいで丁度いい話です。
逆に思い込みの自作自演に酔ってしまっている人を見かけても「そうなんや」で丁度いい。
万事、付かず離れず、自分の中心に柱を立てて、映し見るということです。
ハナから切り捨てるでもなく、丸っきり鵜呑みにするでもなく、淡々と眺めるわけです。
そうして、そんな世界もあるのかなぁと、実際に自分の心に耳を澄ませてみることがとても大切なことではないかと思います。
それは小さなささやきかもしれません。
でも、そこで感じたものこそが自分オリジナルの本物であるわけです。
さて、箱根神社に話を戻したいと思います。
自分の場合、いつも本殿の箱根大神様の方はサラッとしていて隣の九頭龍様に行くとフワーッと
来ていたのですが、今回は勝手が違いました。
本殿の方で手を合わせると、いきなりホワッとした田舎帰りのホッコリ感が来ました。
言葉で表現するなら「おかえり」とか「よく来たね」といった感じです。
勝手なアテレコではなく、間違いなく来てるのが面白いところです。
言葉よりも先に思いが届くということだと思います。
今回は、そのあとの九頭龍様が全く無反応だったので、アレ?と不思議に思いました。
なんかいつもと違うのかなと一瞬思いましたが、境内の緑と精妙な空気に、雑念もあっという間に消えて清らかな心地に戻るのでした。
そうして、いつものように階段を降りて芦ノ湖へ向かいました。
すると、湖は水かさが増して、強風が吹きすさび、湖面がジャブジャブと波打っていました。
空を仰ぐと、薄暗い雲が一面をおおうようにして、かなり低いところにまで下がっていました。
そのうち雲はますます近くにまで迫り降りてきて、大風が強くなり、波もジャボジャボと大きくなり、今にも竜の子太郎がザバーッと出て
きそうな雰囲気になりました。
下界は雲一つないカンカン照りだったのに、まったくここだけ異世界のようです。
お社にはおられませんでしたが、今日はこちらの方におられたのでした。

この日の箱根は目的がそれだったので、そのまま日帰りしましたが、数日前にまた思い立って再び箱根に行くことになりました。
ただ、目的は完全な骨休み。
なので温泉宿です。
宿に着くと同時に、畳で大の字になって館内図を眺めました。
チェックインしてから避難経路をチェックするのは子供の頃からの習慣です。
火事になったらどう逃げるかと複数パターンをイメージして、地震になった時は何処が危ないかとボンヤリ考えるのでした。
3・11が起きてからは、さらに宿の外から何処へ逃げるかも考えるようになり、今回に関しは、噴火が起きたらどの方向へ逃げるかを
自然と頭に浮かべていました。
こうして書き出すとやたら面倒な作業のようにも思えますが、実際はリラックスしながらボーッと考えているだけなので手間も感じません。
ガツガツするわけでなく、単に空想を楽しむようにゴロゴロしながらやる感じです。
災害が来たらどうしよう!?と不安に思ってしまうのは本末転倒で、来たら来たで、その時はその時。
ただ、そうなった時に最大限のことができるように、事前に考えられることを想定しておきます。
これは一度体を通せば十分なもの。
擬似体験というのは、色々な意味で非常に有効だと思います。
一度通しておくと、次の時には、頭を使わなくても先に通っていたりするものです。
これは武道で実証済みなので、日常においても間違いないことでしょう。
さて、そんな時フト気づいたのは、この数年、知らない土地に泊まると地震が来たらどうするか、津波が来たらどうするかと考えてたわけ
ですがら今回は噴火が来たらどうするかと自然に考えている自分が居たことでした。
そこには別に悲壮感や危機感など一切なく、淡々と思い浮かべているだけで、それはそれとして旅行を普通にエンジョイしているのでした。
つまり、何の抑揚もなくフラットな状態であったわけです。
今となっては、ごく当たり前のこととして私たちは受け入れていますが、改めて地震、津波、噴火と単語を並べますと、なんと凄まじいことか
と思うばかりです。
それなのに、実際は特段の思いも抱かずにそうしたことを淡々と想定している。
おそらく外国の人たちは、このうち一つすら身近に感じているものは無いのではないでしょうか。
私たちは、こうした自然災害を知らず知らずのうちに心の近いところにポンと置きつつ、それをストレスとも感じずに明るく日々をエンジョイ
しています。
それが無意識のうちに天地宇宙に対する畏敬となり、また自ずと自分たちの慢心や増長を抑える謙虚さへと繋がっているのではないかと
思います。
つまりは、自然のうちに情操教育がされているわけです。
日本というのは、本当に素晴らしい国です。
私たちは恵まれた環境に生まれ育っています。
そのような環境であればこそ、当たり前に天地自然の感覚が皮膚に染み付き、“神ながらの道”が
誰にとっても身近なものになっていると
いうことです。
神ながらの道とは、天地と自分が分け隔てなく一つとなることです。
天地の脅威を常に感じているということは、天地という存在が常に心に同居しているということです。
それを同居させられない人たちにとっては、もしかしたら今の日本は住むのにシンドイ国かもしれません。
でも私たちの祖先は、むしろそうした環境だからこそ、豊かな心を育んできたわけです。
実際の自然災害というのは、身内を失ったり、財産を失ったり、生活すべてを奪われてしまい本当にツラいことだと思います。
現実というのは、綺麗事だけではありません。
それでもなお、やはり私たちはこの天地宇宙の大自然に包まれて、そこに寄り添って生かされています。
天地の動きによって人生を終えるのは、文字通り、天命かもしれません。
究極的には、天寿を全うしたとも言えます。
ですから、私たち日本人は、心の奥底では誰もがそれを受け入れているのではないかと思います。
そうした上で、最後の一瞬まで、何が何でも生き抜こうと必死にあがくことが最も大事なことになるということでしょう。
天地宇宙の成り立ちを肌で感じているが故に何処かで達観している、しかし、最後まで諦めることなく必死に生きようとする。
まさしく目の前の今に、最後の最後まで「一所懸命」(一つ所に命を懸ける)。
ある高僧が臨終の間際に発した「死にとうない」というのは、まさにそのことだと思います。
最後まで諦めず、ドロ水をすすっても生き抜きぬく。
何より、私たちのご先祖様たちがそうして下さったからこそ、今の私たちが在ります。
派手な人生よりも、とにかく生き切ったこと、生き抜いたという、ただそのことが貴いわけです。
24時間チャリティーマラソンどころではありません。
つまずいたり、転んだり、立ち止まったり、諦めたり、 泣いたりわめいたりしながらも、一生涯を完走しきった。
最後はほとんど進んでいるのかも分からないほどになりながらも、最後の一瞬まで生きようとした。
別に誰に見せるわけでもありません。
ただ、目の前の今に必死に噛り付いていただけです。
震えるような感動が湧きませんでしょうか。
せっかくのお盆です。
形だけの神妙さなど必要ありません。
今のその気持ちを素直に表すだけです。
理屈など抜きにして、万感の拍手と感謝をその完走に送ってみてはいかがでしょうか。
きっと、照れながらも喜んでくれると思いますよ。
にほんブログ村
ジリジリと刺すような日差しの中、高速渋滞のノロノロ運転。
エアコンも効かないような猛烈な暑さでした。
高速を抜けて少し行きますと、正面に箱根の山々が見えてきました。
太陽サンサン、目の覚めるような青空なのに、山の上にはまるで練乳のように雲がフワーッとかかっていました。
我が愛車は息も絶え絶え、箱根の急勾配は後進に譲りつつ、ようやく箱根神社へ到着。
いつもなら国内外の観光客でごった返している境内が、まるでオフシーズンの平日のようにガラーンとしていました。
ホッと息をつきつつも、噴火騒ぎの影響がここまでかと思うと少し複雑な気持ちでした。
箱根神社というのは昔からとてもご縁の深く、感覚的には氏神様に近い場所です。
そのため、もともと東京に戻ったならばすぐに御礼と報告にあがるつもりだったのですが、まさかその直前に噴火騒ぎになるとは思っても
いませんでした。
そのようなこともありまして、ダブルでドーンと来る可能性を想定しながら境内に入ったわけでしたが、そこは外の喧騒などドコ吹く風。
いつもと変わらぬ静かな空気が漂っていたのでした。
人の居ないガラーンとした景色とは裏腹に、ふんわりと落ち着いた空気感。
不安という人間考えが作り出した景色がいかに不自然であるかということです。
実際の現実とは、人の思いなどに関係なく、いつもと変わらぬ時の流れ、佇まいでした。
さて、神社というのは、その人その人のご縁がある場所です。
同じ神社で手を合わせても、バーンと来たり来なかったり。それは人それぞれであるわけです。
そこに在る何かが依り代となる場合もあれば、そのエリアにそのままドーンとおわすこともありますし、はたまた自分自身が依り代になる
ようなことだってあるかもしれません。
私たち自身の鏡に映って顕れるわけですから、人それぞれ、またその時々によって、来たり来なかったりというのも全く自然な話かと思います。
来る来ない自体もそうですし、その顕れかたにしても人の数だけあることでしょう。
言葉や文字、映像で来る場合。濃縮還元の塊がドカッと来る場合。イメージとして浮かぶ場合。
背中からブワッと全身を包むように皮膚に来ることもあるかもしれませんし、首筋の後ろからエネルギーを照射されるように来るかもしれません。
手を合わせた瞬間にフワーッと幸せな気持ちに包まれ、この世の流れからスッと抜かれ、優しい静寂に置かれるのは本当にありがたく
勿体無いことであります。
時には潜水服にくるまれて水中を歩くような、全身を薄い膜に包まれ夢心地を歩くという珍しいパターンや、たちまち圧縮濃密な空気に一変して、
四方が空間ごと別次元と化すパターンというのも全くもって言葉にはならないものであります。
時と場所、人によって現れかたは山ほど変化するでしょうが、こうしたものは単に切り口が異なるだけでどれも同じものであるわけです。
風変わりだから凄いとか、平凡だから凄くないとか、そういうことではありません。
どれも同じものです。
感じ方ではなく、ただ感じることが大切だと思います。
手を合わせてほんのりと幸せを感じる。
その瞬間、ありがたいなぁという思いがジワジワと湧き出てくる。
頭で考えて湧き上がるのではなく、幸せな感覚とともに感謝の思いが自然と出てくる。
それこそが本当に大切なことであって、その他のことは、言ってしまえばオマケに過ぎません。
派手さに浮かれてしまってそこを見落としてしまうのは本当にもったいないことです。
他の誰かが違うことを言っても、それはその人オリジナルのことですので、それはそれ。
それ以上でもそれ以下でもありません。
「そうなんや」くらいで丁度いい話です。
逆に思い込みの自作自演に酔ってしまっている人を見かけても「そうなんや」で丁度いい。
万事、付かず離れず、自分の中心に柱を立てて、映し見るということです。
ハナから切り捨てるでもなく、丸っきり鵜呑みにするでもなく、淡々と眺めるわけです。
そうして、そんな世界もあるのかなぁと、実際に自分の心に耳を澄ませてみることがとても大切なことではないかと思います。
それは小さなささやきかもしれません。
でも、そこで感じたものこそが自分オリジナルの本物であるわけです。
さて、箱根神社に話を戻したいと思います。
自分の場合、いつも本殿の箱根大神様の方はサラッとしていて隣の九頭龍様に行くとフワーッと
来ていたのですが、今回は勝手が違いました。
本殿の方で手を合わせると、いきなりホワッとした田舎帰りのホッコリ感が来ました。
言葉で表現するなら「おかえり」とか「よく来たね」といった感じです。
勝手なアテレコではなく、間違いなく来てるのが面白いところです。
言葉よりも先に思いが届くということだと思います。
今回は、そのあとの九頭龍様が全く無反応だったので、アレ?と不思議に思いました。
なんかいつもと違うのかなと一瞬思いましたが、境内の緑と精妙な空気に、雑念もあっという間に消えて清らかな心地に戻るのでした。
そうして、いつものように階段を降りて芦ノ湖へ向かいました。
すると、湖は水かさが増して、強風が吹きすさび、湖面がジャブジャブと波打っていました。
空を仰ぐと、薄暗い雲が一面をおおうようにして、かなり低いところにまで下がっていました。
そのうち雲はますます近くにまで迫り降りてきて、大風が強くなり、波もジャボジャボと大きくなり、今にも竜の子太郎がザバーッと出て
きそうな雰囲気になりました。
下界は雲一つないカンカン照りだったのに、まったくここだけ異世界のようです。
お社にはおられませんでしたが、今日はこちらの方におられたのでした。

この日の箱根は目的がそれだったので、そのまま日帰りしましたが、数日前にまた思い立って再び箱根に行くことになりました。
ただ、目的は完全な骨休み。
なので温泉宿です。
宿に着くと同時に、畳で大の字になって館内図を眺めました。
チェックインしてから避難経路をチェックするのは子供の頃からの習慣です。
火事になったらどう逃げるかと複数パターンをイメージして、地震になった時は何処が危ないかとボンヤリ考えるのでした。
3・11が起きてからは、さらに宿の外から何処へ逃げるかも考えるようになり、今回に関しは、噴火が起きたらどの方向へ逃げるかを
自然と頭に浮かべていました。
こうして書き出すとやたら面倒な作業のようにも思えますが、実際はリラックスしながらボーッと考えているだけなので手間も感じません。
ガツガツするわけでなく、単に空想を楽しむようにゴロゴロしながらやる感じです。
災害が来たらどうしよう!?と不安に思ってしまうのは本末転倒で、来たら来たで、その時はその時。
ただ、そうなった時に最大限のことができるように、事前に考えられることを想定しておきます。
これは一度体を通せば十分なもの。
擬似体験というのは、色々な意味で非常に有効だと思います。
一度通しておくと、次の時には、頭を使わなくても先に通っていたりするものです。
これは武道で実証済みなので、日常においても間違いないことでしょう。
さて、そんな時フト気づいたのは、この数年、知らない土地に泊まると地震が来たらどうするか、津波が来たらどうするかと考えてたわけ
ですがら今回は噴火が来たらどうするかと自然に考えている自分が居たことでした。
そこには別に悲壮感や危機感など一切なく、淡々と思い浮かべているだけで、それはそれとして旅行を普通にエンジョイしているのでした。
つまり、何の抑揚もなくフラットな状態であったわけです。
今となっては、ごく当たり前のこととして私たちは受け入れていますが、改めて地震、津波、噴火と単語を並べますと、なんと凄まじいことか
と思うばかりです。
それなのに、実際は特段の思いも抱かずにそうしたことを淡々と想定している。
おそらく外国の人たちは、このうち一つすら身近に感じているものは無いのではないでしょうか。
私たちは、こうした自然災害を知らず知らずのうちに心の近いところにポンと置きつつ、それをストレスとも感じずに明るく日々をエンジョイ
しています。
それが無意識のうちに天地宇宙に対する畏敬となり、また自ずと自分たちの慢心や増長を抑える謙虚さへと繋がっているのではないかと
思います。
つまりは、自然のうちに情操教育がされているわけです。
日本というのは、本当に素晴らしい国です。
私たちは恵まれた環境に生まれ育っています。
そのような環境であればこそ、当たり前に天地自然の感覚が皮膚に染み付き、“神ながらの道”が
誰にとっても身近なものになっていると
いうことです。
神ながらの道とは、天地と自分が分け隔てなく一つとなることです。
天地の脅威を常に感じているということは、天地という存在が常に心に同居しているということです。
それを同居させられない人たちにとっては、もしかしたら今の日本は住むのにシンドイ国かもしれません。
でも私たちの祖先は、むしろそうした環境だからこそ、豊かな心を育んできたわけです。
実際の自然災害というのは、身内を失ったり、財産を失ったり、生活すべてを奪われてしまい本当にツラいことだと思います。
現実というのは、綺麗事だけではありません。
それでもなお、やはり私たちはこの天地宇宙の大自然に包まれて、そこに寄り添って生かされています。
天地の動きによって人生を終えるのは、文字通り、天命かもしれません。
究極的には、天寿を全うしたとも言えます。
ですから、私たち日本人は、心の奥底では誰もがそれを受け入れているのではないかと思います。
そうした上で、最後の一瞬まで、何が何でも生き抜こうと必死にあがくことが最も大事なことになるということでしょう。
天地宇宙の成り立ちを肌で感じているが故に何処かで達観している、しかし、最後まで諦めることなく必死に生きようとする。
まさしく目の前の今に、最後の最後まで「一所懸命」(一つ所に命を懸ける)。
ある高僧が臨終の間際に発した「死にとうない」というのは、まさにそのことだと思います。
最後まで諦めず、ドロ水をすすっても生き抜きぬく。
何より、私たちのご先祖様たちがそうして下さったからこそ、今の私たちが在ります。
派手な人生よりも、とにかく生き切ったこと、生き抜いたという、ただそのことが貴いわけです。
24時間チャリティーマラソンどころではありません。
つまずいたり、転んだり、立ち止まったり、諦めたり、 泣いたりわめいたりしながらも、一生涯を完走しきった。
最後はほとんど進んでいるのかも分からないほどになりながらも、最後の一瞬まで生きようとした。
別に誰に見せるわけでもありません。
ただ、目の前の今に必死に噛り付いていただけです。
震えるような感動が湧きませんでしょうか。
せっかくのお盆です。
形だけの神妙さなど必要ありません。
今のその気持ちを素直に表すだけです。
理屈など抜きにして、万感の拍手と感謝をその完走に送ってみてはいかがでしょうか。
きっと、照れながらも喜んでくれると思いますよ。
