これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

それはそれ、これはこれ

2015-08-08 15:36:11 | 心をラクに
現世と書いて「うつしよ」と読みます。

この世は、現実世界という「現し世」であると同時に、向こうの世界の「映し世」であり、
諸行無常の「移し世」であります。

この世界とは、私たちが本来いるあちらの世界の淡さを濃密に凝縮したものです。
ギュッと詰まりに詰まった、実体であるわけです。

もとの世界が微細に溶けあった淡き海であるならば、この世界は一つ一つがカチコチに
固まった氷のようなものと言えるかもしません。
別に冷たいものだとか堅苦しいものだとか、そういうことではありません。
実体があるということです。
そしてそれは、頭を少しだけ出している氷山であったり、見る角度によって姿を変える
氷の塊だったり、あるいは光を通せば七色に分かれるプリズムだったりするわけです。

こちらの感覚で言えば、あちらの世界は夢まぼろしのように感じるわけですが、向こう
からすれば、その淡き感覚の方がリアルであって、今のこちらの感覚の方が夢まぼろし
のようなものとなります。
どちらが正でもどちらが負でもありません。
こちらの感覚は、こちら限定です。
そしてこちらに居る間は、間違いなく、今のこの感覚が正です。
その感覚に正直に生きることが正(生)であるわけです。

ただそれが唯一絶対のものだと囚われ過ぎてしまうと、今度はガチガチの決めつけ主義
でまわりが見えなくなって裸の王様になってしまいます。

万事、自然体の、ほど良い加減がいいわけです。
そこに人間考えを挟んで、ヨシやったるゾ!と気持ちを出しすぎてしまうとおかしくなって
しまうということです。

ですから先程とは逆に、こちらの今この現実の感覚を無視して、「投影された仮そめの
ものならば、この世というのはボンヤリした幻想のような淡いものなのだ」とイメージ
してしまうと、これまた囚われの世界に陥ってしまいます。

この世を虚無であるとか、所詮は夢物語の儚い世界だと思ってしまうと、今ここに集中
することができなくなり、地に足つかずフワフワと浮き上がってしまいます。

どちらを向いているにしてもそこに偏り過ぎると、偏見の色メガネになってしまいます。
天地宇宙というのは、アレとコレのどちらか一つが正解ということではなく、アレもコレ
も正しい世界です。

もしも何かに矛盾というものを感じるならば、それは今のその立ち位置が低いということ
になります。

人類は、矛盾というストレスを解消したい衝動から学問を進歩させてきた一面があります。
学問の世界においては、矛盾する他方を否定せず、両方が統一されるような高みを見い出そう
としてきたわけです。
自分の立ち位置を変えてしまえば、たちまちにして矛盾というものはなくなり、もっと広く
新しい真実が見えてくるものです。
にも関わらず、信念や価値観という情緒の部分では、人類は自分の立ち位置を変えることを
拒み続けてきました。

どちらか一方を担ぎ上げ、矛盾する他方を全否定して排斥し続けてきたわけです。
あるいは他方が正しいと証明されれば元の方を見直して、左右に立ち位置を変えながら階段を
昇り続けることができたはずですが、実際そのようなことが殆ど為されなかったことは過去の
文明の攻勢を見れば明らかです。
本来は議会政治の在り方もそうした理想理念が元にあったはずでしたが、左右の対立が決して
高みへ止揚することはなく、単なる全否定の叩き合いになってしまったのは、全く同じ流れと
いうことです。

自分の立ち位置とは、自分の価値観や信条、思い込みによって自動的に定められてきます。

ですから、それらを手放してしまえば、当然ながら自然とその位置から離されていきます。
手放すのが忍びないならば、ひとまずそれはそれとして横に置いておくだけでも、自分の
本体はそこから離れて全体を俯瞰する場所に移動していきます。
なぜならば、もともと私たちというのは天地宇宙の一部であり、天地宇宙というのは何もの
にも縛られずに全てから自由であるからです。
たまたま今は、自ら好き好んでそれぞれ一ヶ所に引っ付いているだけのことです。
ひと休みをすればスッと元の場所に戻り、その瞬間、対立や矛盾というものは霧散します。

対立も矛盾も、相対的な現象でしかありません。
一方と他方を別々に分けて、そのどちらかに我が身を置く限り、対立や矛盾は物理的に
発生するわけです。
点から線へ、線から平面へ、水平から垂直方向へと、我が身の立ち位置を変えていけば、
それまで別々に見えていた事象も、同じ次元の中に溶け合います。
対立や矛盾が消えない時は、自分がまだ何かに囚われているということです。
それは、自分のまわりの何か別のもの(環境や身内など)が自分を縛っているのではなく、
ただ自分がグリップを掴んで離さないだけです。
ですから、わざわざそこから出ようと頑張ろうとしなくても、ただ手を離せば自然にスーッ
と元の場所に戻っていきます。

実際、頑張ってそこから出ようとすればするほど、無意識のうちに握った手は強くなって
しまいます。
あるいはまた、対立する相手を理解できてから初めて自分の手を離そうとするのでは、結局は
色メガネの弊害によっていつまで経っても前に進むことはできません。
そうしたことが、これまで世界が立ち止まってしまっている原因なのではないでしょうか。

相手など関係ありません。
ただ、自分が手を離すだけです。

プラカードを強く握って声高に叫んでいる人たちも、その手を離すだけでまた違った景色が
見えてくるのではないかと思います。


さて、今日は話が二転三転しながら、クルクルと立ち位置や感覚が入れ替わっていきます
ので、読んでいて混乱してしまうかもしれません。
ただ、どちらも真であり正(生)であり、いずれにも縛られない感覚をお伝えしたいので、
その両方を俯瞰できるような立ち位置で読んで頂ければと思います。


ふたたび、話を戻します。

この世の感覚は、ここに存在するかぎり絶対的に大事なものです。
その感覚に真面目に真摯に取り組んでいれば、他に何も要りません。
あれこれ深く考えたり、広く観ようとしなくても、ただ生きることに黙々と集中していれば、
それだけでこの世に生まれた全てを満たすことになります。

農作業であれ、事務作業であれ、家事であれ、育児であれ、目の前のことに黙々と取り組んで
いる人たちは、年を老いても、スッと一筋通ったような美しさを醸し出しています。

つまりは、子供のように、何も疑うことなく純朴にただ普通にやるだけでいいわけです。

しかし、どうにもこうにもストレスの多い社会で、色々な人や情報にさらされながら汲汲と
生きていると、純朴に普通に生きるというのもこの上なく困難となります。
であるならば、理屈だろうと方便だろうと、囚われ縛られながらその先へ進んで生き続けて、
苦労と体験を通して一周して元に戻ることが、一番の近道であると同時に、質実剛健な説得力
と強靭さを伴うことになります。
それは他の誰でもない、まさに自分自身に対してのブレることない説得力です。

こうして長々と書いていることは、まさに子供のように何も疑うことなく純朴に生きるための
一周と思って頂ければ分かりやすいかもしれません。

そのような苦労をせずとも、ナチュラルに何も疑うことなく信じ切れる人は幸いです。
でも、私のように疑り深い人間は、自分の目や体で実感して初めて疑いを無くして信じること
ができるようになるものです。
ですから、「戻る」のではなく「進む」のみです。
進んで進んで、ようやく子どもの心に辿り着く旅です。
しかしそれが、どこか途中で止まってしまうと、凝り固まった心のままで終わってしまいます。
同じ手放すにしても、心の中で後ろ髪を引かれながら優等生然として無理やり手放すよりは、
掴んで掴んで掴み続けてから、グッタリ疲れて手放す方が、とても自然なことだと思います。

また、たとえ疑り深くなくても、純粋に真面目が過ぎると、道のあちこちに転がっているフト
したことに囚われてしまい、知らず知らずのうちに渦巻きスパイラルに陥ってしまいます。
そうした蟻地獄から脱するためには、まずは自分が蟻地獄に居るということに気づくところが
第一歩となります。
すると、実は渦巻きの底の方に向かって自らがアクセルを踏み続けていたということを、知る
ようになります。

そのため昔の人は「この世は無である」とか「かりそめだ」とか様々な方便を使って、真面目
の過ぎる人たちを囚われから引き離そうとしました。

ただ困ったことに、それはそれで度が過ぎると、逆にその「無」に囚われてしまって、全くの
逆効果になってしまいます。
あくまでそれは、この世の了解事項に“囚われすぎて”まわりが見えなくなってしまった人に
それを気がつかせるための方便に過ぎず、決してこの世を劣るものと軽んじたり、薄らボヤか
したりするものではないわけです。
そうしてこの世はツラい世界だとか、ここに生まれてくるのは修行のためだなどと、否定的な
見方に囚われてしまうと、この世が存在する意味自体が失われてしまいます。

「この世のこれは現実であり、この世界が全てであり、だからこそ一所懸命に生きるのだ!」

まさにそれに尽きます。

この人類共通の了解事項は、この世では絶対的に正しいものです。
夢物語のようなスカスカなものではありませんし、決していい加減に軽んじるようなものでは
ありません。
そのルールにどれだけ素直になれるかが、この世界をしっかりと満喫するコツです。
時にそこから離れて俯瞰して見ることも大事ですが、一方で、この世界に着地する時には他の
雑念は捨てて100%ただひたすらに、今ここに集中するということです。
雑念を捨てるとは、この世界の了解事項にしっかりと身を投じ切ることでもあるわけです。

「所詮は造り物だから」とか「想い描いたように創られるもの」とか、そのような中途半端な
シタり顔は厳禁ということです。
それはそれ、これはこれです。

たとえば、本を読んでいる時にいちいち「私はこれがフィクションだと知ってる」と繰り返す姿は
どうでしょうか。
ゲームを楽しんでる時に「これはゲームだから架空のものなんだ」と言い続けている姿もそう
です。

まったもって不粋の極み。
アホ丸出しでしょう。
そんな姿、誰も応援できません。
そもそもそんなことで、本当に本人は楽しめているのかということです。

この世の瑣末なことに囚われすぎないために、外の元の世界を知っているのは大事なことですが、
こちらに身を置くかぎりは、外の元の世界に囚われずに、この世にしっかりと身を投じて味わい
切ることが重要です。
外の元の世界を知るのも、むしろ、こちらをしっかり味わい切るがためのものであるわけです。

人生というのは、たった一回きりです。
私たちみんなが了解しているこの世界の決めごとは、それこそが正解なのです。

元の生命は永遠かもしれませんが、今はそんな理屈など必要ないことです。
それはそれ、これはこれです。

今のこの生命と、元の生命と、どちらか一方に偏ってしまうと他方に矛盾を感じてしまうだけです。
どちらに対しても100%を向ければ、どちらも真実になります。

今この生命は、一回きりなのです。

だからこそ、どんな日々も、どんな人生も美しく、そして貴いのです。
決して美徳に満ちた生き方だけを指しているのではありません。
我執だらけで自分のことだけを考えていたとしても、それはそれでいいのです。
その必死さの中にこそ、真実があるからです。
一番まずいのは、シタり顔で中途半端に偽善に生きることです。

アレかコレかではなく、アレもコレも正解。
その上で、どちらかへ心を向ける時は、そちらに100%ということです。
つまり、それはそれ、コレはコレなのです。

この現実にしっかりと身を投じきって、一喜一憂して右往左往して、怒って恨んで泣いて笑って、
全力で駆けた(懸けた)先に、たとえわずかでも他の誰かのために何かを思ったり何かをしたり
した、その瞬間が、天地宇宙そのもの、光そのものとなります。
それを含む全てが等しく貴いのです。

我知れず、フトそのようになっている。
それは、頭であれこれ考えて行なう善意とは天地ほど違います。
全てが自分としての自然体であればこそ、全てが本物になります。

100の我欲に生きようと1の大我があれば、それでいいのです。
まさに『蜘蛛の糸』なのです。
あれを悪党の話と思ってしまうと、そこで終わってしまいます。

そもそも大我を得ようとする時、その思い、その我欲こそが最大の障壁となってしまいます。
たとえ小我であろうと日々に正直に生きるところに、本物が顕れるのだと思います。

小我も大我もありません。
我が身が可愛くて、いいのです。
そのように自分に正直であれば、素直さ100%の日々になります。
自分自身をそのまま受け入れた日々になります。
そして、同じ線上のその先に、ごく自然に、何かのためや誰かのために我が身を忘れてしまう
透明な心が顕れます。

天地宇宙という視点では、すべては分け隔てなく一つ所に溶けあってます。
でも、その心は一瞬で十分です。
冒頭から長々と書いてきました、あちらの感覚、こちらの感覚、そうした全てを映し見る天地の
立ち位置、そういうものは一瞬でも通せばそれでいいのです。

そうしたらば、あとは、今この世界の現実に全身を投じて、万遍なく浸りきるだけです。
世のことに憤り、仕事に不満をこぼし、日々の暮らしに喜びを感じ、命を惜しみ、己の我がまま
に溜め息をつく。
「命は一度きり」というこの現世(うつしよ)の決め事に没頭するのみです。

これはお祭りだと冷静に分析するよりも、その輪の中に入って一緒に踊る。
子どもの心とは、まさにそこにあるのではないでしょうか。

それはそれ、これはこれです。

今の目の前に身を投じる時には、恥ずかしがらずに、成りきるのが一番でしょう。
どんなに崇高なことであろうとも、それが脇見であれば単なる雑念にしかなりません。

目の前のことが何よりも大切なのです。
この世には、無意識下で全人類が合意した共通の決め事があります。
郷に入ったら、郷に入りきりましょう。

そして何よりも、その一度きりの現世を支えているのは、天地宇宙の様々な存在であり、私たちの
ご先祖様です。
おかげさまに感謝をして、この世をしっかりと生きることが、一番の恩返しになります。

お盆の時期になりました。
日本というのは本当に素晴らしい国だと思います。
この国に生かさせて頂いて、心の底から良かったと思うばかりです。




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