長い人生、楽ありゃ苦もあります。
ラクチンな時はラクチンですし、大変な時は大変なものです。
それを楽しいと感じるか苦しいと感じるかは心一つでしょうが、それでも、大変な時の大変である事実に変わりは
ありません。
何が言いたいかというと、大変な時は、理屈抜きに大変であるということです。
それにフタをせず、そのまま受け入れてしまうのがラクチンと言えるわけです。
今回は、仕事や家族、健康や生活など、あれこれシンドい状況が続いてる人たちへお伝えしたいと思います。
幸せに平和に過ごしている人たちは、どうぞスルーして下さい(笑)
さて、大変な時に、それを受け入れない生き方というのはどのようなケースがあるでしょうか。
見てすぐ分かるような現実逃避であれば人から言われなくても気がつけますが、まさかそうとは思わないようなもの
の方が、逆に危ないと言えるかもしれません。
例えば「価値判断を無くせば、本来、大変なことなど存在しない」と、力強くストイックに生きるのも危ういパターン
の一つです。
それは自然となっていく心境であって、ことさら構えて成っていくものではありません。
「身を削ぐ」「己を磨く」と言葉巧みに、形ありきでそこへ合わせこもうとすると、自分もまわりも生き苦しくなって
しまいます。
そして、元々は無色透明なものだから楽しんだもん勝ちであるとは言っても、頭で分かっていても感覚が付いて行かない
時もあります。
そんな時に「嗚呼、囚われてるなぁ」と己を正そうとすると、足掻けば足掻くほど、ますます苦しくなってしまいます。
囚われを無くそうとする足掻きは、さらなる囚われを生んでしまい、負のスパイラルが始まってしまいます。
とりわけ、真面目な人や頑張り屋さんほどそうなってしまい、最後は何も出来ないほどに枯れ果ててしまいます。
これもまた、大変な状況であるということを、そのまま受け入れることが出来なかった結果だと言えます。
例えばそれが瞬間的な囚われならば、イカンイカンとシュッと掃いてしまえばすぐ綺麗になりますが、尋常で無いほど
大量の落ち葉がドドッと振り続いて、掃いても掃いても追いつかないような状況にハマってしまった時、耳触りの良い
綺麗事など何の役にもたちません。
そうなってしまった時は、もはや囚われている自分を受け入れるしか他ありません。
つまりは、囚われているということを認識すればそれでOK。
「あー、囚われてるなー」と気づいたところで、おしまい。
しかしそれを許せず、そこから何とかしようとする、その思いこそが大量の落ち葉を招いてしまいます。
ガシガシと必死に掃いても、内に不安や不満を抱えている限りは、かえって逆効果にしかならないということです。
清らかな感覚が鮮明であるほど、それが当たり前だった状態を取り戻そうと焦ってしまいがちです。
ただ、その焦りが我執の種となってしまい、頑張れば頑張るほど、雪だるまのように大きくなってしまうのです。
ツラく感じてしまっている時、それをネガティヴに捉える必要はありません。
ましてや実際に苦しんでる自分が居るのに、それに目を向けずにいると根深い傷を残すことになります。
ネガティヴなものを悪いものだと決めつけて、それを排除したり、ポジティブなもので上書きしてフタをしてしまったり
するのは、問題の先送りでしかありません。
確かに初期の方便としては有効ですが、元来、方便とは手放していくものです。
時期が過ぎてもそれにしがみ付いてしまうと、それが新たな囚われとなってしまいます。
ネガティヴは悪いものだという考えは、一見正しいように思えますが、反面、情けの無い冷たい行為にもなりやすいため
注意が必要です。
囚われることは悪いことだ、ネガティヴは悪いものだと信じ込んでしまうと、それに苦しむ他人を見ても、そのまま受け
入れることは出来ず、突き放すような心になってしまいます。
そして、苦しんでいる人間が自分本人であった場合でも、その冷たさに変わりが無くなります。
自分としては「良いこと(正しいこと)をしている」と思って送った激励やエールが、相手にとってはその一言一言が
ムチの一撃となってキズだらけになってしまいます。
そして、常日頃それを向けられている自分自身もまた、知らず知らずのうちにキズだらけになってしまっているわけです。
「天地の絶対の真理だから正しい」「それは愛のムチだ」「痛く感じる自分がいけないのだ」となってしまうと、それこそ
完全に囚われの世界です。
そもそも、この世に「絶対」はありません。
正しさを追おうとする気持ちは大事ですが、見つけたそれに寄り掛かってしまうと、珠玉も一瞬にして石コロと化して
しまいます。
“苦しみは自分が作り出したもの、自業自得、気付けばラクになる、それは気づきのために必要な過程、本人にとってはプラス…”
確かに、どれも理屈としては正しいものです。
ただ、それはそれ、コレはコレなのです。
それに寄り掛かったり、縛られたしまったりした瞬間に、真理は真理では無くなります。
「いま」苦しんでいる、そのことを受け入れなければその先など無いのです。
苦しんでいること自体をネガティヴに捉えてしまった時点で、もはやそれは拒絶の心になってしまっているのです。
受け入れるというのは、良いも悪いも決めつけないことです。
それをそのままで認めるということです。
「仕方がない」「これでイイのだ」という達観です。
それが他者であれば、そこに寄り添い、共にその苦しみに心を向けるということです。
それが自分であるならば、その苦しむ自分に寄り添い、共にその苦しみに心を向けるということです。
実際に大変な状況であるのに「別に大変ではない」と思い込もうとするのは、現実を無視する行為でしかありません。
結局は現実逃避と同じことになってしまいます。
このような時に、この世界や目の前の出来事を「無」と断じて切り捨てるのは、まさに臭い物にフタする行為でしか
ありません。
それらは仮初めのものではあるものの、決してスルーしていいものではありません。
切り捨てるべきは、目の前のことではなく、自分の心グセです。
それを、目の前の世界や出来事ごとゴッソリ切り捨ててしまうのでは、何の解決にもなっていません。
それではいつまでたっても心の囚われは無くならず、似たような現実が現れたら、また心グセが発動して同じ苦しみが
生じるだけです。
心グセを無くすためには、それを受け入れることが第一です。
認めてしまうということです。
切り捨てようとしたり、フタをしようとすると、余計にそれは暴れ出します。
そうであればこそ、心グセうんぬん以前に、そもそもそうした心グセを発動させるもの、つまり目の前の状況というもの
をまずは認めてしまうことが先となるわけです。
心がツラい時、シンドイ時、そのような時はシンドい気持ちや自分の心グセに目を向けるのではなく、そのシンドさを生み
出している状況の方に目を向けましょう。
そして、目の前が大変な状況であるのならば、その現実を受け入れてしまいましょう。
「受け入れる」というと、理解したり納得したりすることのように思いがちですが、そうではなく、仕方がないと諦める
だけでいいわけです。
そうしてその次に、囚われに苦しんでいる自分というものを、そのまま素直に受け入れるのです。
囚われている自分を認め、諦め、抱き締めるということです。
認めるとは、目に留めること。目を向けることです。
諦めるとは、中身についてあれこれ判断を加えないこと。
そして、晴れて青天白日のもと、堂々とその存在を許された素の自分に、ソッと近づき優しく抱き締めてあげましょう。
決して、そこで無理して優等生ぶろうとしたり、格好つけようとしないことです。
また、自分を納得させるための、もっともらしい綺麗事や理由付けを探そうとするのもいけません。
「こういう理由だから仕方がない」とか「こう考えれば逆にこの方が価値があるのだ」とか、そのような言葉遊びは
再び迷いの世界に飛び込む行為でしかありません。
しのごの言わず、素の自分を、優しく温かくスンナリと受け入れる。
素の自分をカッコ悪いとか情けないとか思ってしまう性根を炙り出し、さらにはその性根がカッコ悪いとか情けないと
思ったならば、それこそ慌てて否定したり切り捨てたり隠したりせず、笑いながらその性根も受け入れてあげましょう。
そうすることで、自分自身も、さらにはそうした囚われや心グセも、全てが天地宇宙へと溶け合って行きます。
この世に、天地宇宙に反するものは何一つありません。
全ては、天地宇宙と同一のものです。
ですから、どんなものであろうとも、あらゆる全てがそこへ溶けて一つになっていきます。
ネガティヴなものなど、何一つ無いのです。
神道においては罪穢れというものを切り捨てるのではなく昇華させるというのは、つまりはそういうことなのです。
さて、先ほど、心ではなく現実の方に目を向けるのが先だと言いました。
でも「私たちが現実を創造しているのだから、心を変えることで現実も変わっていく」という考え方で行けば、心に目を
向けても良いのではないかと思ってしまいます。
ただ、囚われのドロ沼にハマってしまっている時にその方向で進むとかえって堂々めぐりになってしまう危険があるのです。
正しい真理でありながら、そこを読み間違えてしまうとこの表現自体がすでに矛盾をはらんでしまいます。
心を変えるというのは、囚われを無くすことが前提となります。
つまり「囚われを無くすことで現実が変わる」ということになるわけですが、そうなると、現実が変わることを望んだ
時点で現実は変わらないということになります。
何故ならば、もしもその実現を目指そうと思ったならば、その時点ですでに今の現実を拒絶していることになるからです。
拒絶というのは囚われそのものです。
「心が変われば現実も変わる」というのは、その望みを手放すことでしか成立しません。
あくまで結果として自然にそうなるものでしかないのです。
ですから、今の現実に目を向けるということになるわけです。
現実を受け入れることこそが、囚われを無くすことの第一歩です。
囚われの世界に身を置いているうちは、自分の心の方ではなく、目の前の現実の方に目を向けることが先なのです。
そして「目の前の現実」というのは、表現を変えれば「いま」ということになります。
「世界は仮初めだ。このツラい現状も仮初めだ」という割り切り方も、それが事実であるだけに、最も陥りやすい罠だと
言えるでしょう。
つまり、「いま」この「現実」を見ないことを正当化する言い訳に使えてしまうということです。
「ツラいと思っている自分がいけない。我執を無くさねばならない」と頑張りすぎてしまうと、目の前の“大変な”現実が
無視されてしまいます。
まずは、感情を抜きに、目の前の事実をありのままに受け入れましょう。
そして、それはそれ、コレはコレという割り切り方です。
そうすれば、その先の感情には着火されずに、サラリと流れていくはずです。
「確かに大変な状況だ。でも仕方ない。」
それが体を通すことになりますし、しっかりと味わい嚙み締めることになります。
そうするうちに、現実も、自分も、自然と大変ではなくなっていくことでしょう。
また、欲が出てくると「でも仕方ない」を「よし楽しもう」に置き換えたいと思うものです。
ただ、それも自然にそうなっていくものであって、自分に嘘をついてまでそのように繕うものではありません。
どっちが正しいとか、より望ましいとか、そんなことはどうでもいい話です。
正解というのは一つではありません。
今日の正解も、明日には正解ではなくなります。
明日の正解も、今日では大間違いだったりします。
三段跳びに高みを求めるのは、やめた方がいいでしょう。
自分が素直にラクに受け入れられる形こそが、一番だということです。
あらゆる理由付けや理屈付けは、自然な流れを堰き止めてしまいます。
自然な心が、自然な流れを生みます。
この世に、あるべき形などありません。
その時その時の自然な姿があるだけです。
目の前の事柄や自分の態度を白黒決めつけたりせず、まずはそのままに受け入れることから始めましょう。
(つづく)
ラクチンな時はラクチンですし、大変な時は大変なものです。
それを楽しいと感じるか苦しいと感じるかは心一つでしょうが、それでも、大変な時の大変である事実に変わりは
ありません。
何が言いたいかというと、大変な時は、理屈抜きに大変であるということです。
それにフタをせず、そのまま受け入れてしまうのがラクチンと言えるわけです。
今回は、仕事や家族、健康や生活など、あれこれシンドい状況が続いてる人たちへお伝えしたいと思います。
幸せに平和に過ごしている人たちは、どうぞスルーして下さい(笑)
さて、大変な時に、それを受け入れない生き方というのはどのようなケースがあるでしょうか。
見てすぐ分かるような現実逃避であれば人から言われなくても気がつけますが、まさかそうとは思わないようなもの
の方が、逆に危ないと言えるかもしれません。
例えば「価値判断を無くせば、本来、大変なことなど存在しない」と、力強くストイックに生きるのも危ういパターン
の一つです。
それは自然となっていく心境であって、ことさら構えて成っていくものではありません。
「身を削ぐ」「己を磨く」と言葉巧みに、形ありきでそこへ合わせこもうとすると、自分もまわりも生き苦しくなって
しまいます。
そして、元々は無色透明なものだから楽しんだもん勝ちであるとは言っても、頭で分かっていても感覚が付いて行かない
時もあります。
そんな時に「嗚呼、囚われてるなぁ」と己を正そうとすると、足掻けば足掻くほど、ますます苦しくなってしまいます。
囚われを無くそうとする足掻きは、さらなる囚われを生んでしまい、負のスパイラルが始まってしまいます。
とりわけ、真面目な人や頑張り屋さんほどそうなってしまい、最後は何も出来ないほどに枯れ果ててしまいます。
これもまた、大変な状況であるということを、そのまま受け入れることが出来なかった結果だと言えます。
例えばそれが瞬間的な囚われならば、イカンイカンとシュッと掃いてしまえばすぐ綺麗になりますが、尋常で無いほど
大量の落ち葉がドドッと振り続いて、掃いても掃いても追いつかないような状況にハマってしまった時、耳触りの良い
綺麗事など何の役にもたちません。
そうなってしまった時は、もはや囚われている自分を受け入れるしか他ありません。
つまりは、囚われているということを認識すればそれでOK。
「あー、囚われてるなー」と気づいたところで、おしまい。
しかしそれを許せず、そこから何とかしようとする、その思いこそが大量の落ち葉を招いてしまいます。
ガシガシと必死に掃いても、内に不安や不満を抱えている限りは、かえって逆効果にしかならないということです。
清らかな感覚が鮮明であるほど、それが当たり前だった状態を取り戻そうと焦ってしまいがちです。
ただ、その焦りが我執の種となってしまい、頑張れば頑張るほど、雪だるまのように大きくなってしまうのです。
ツラく感じてしまっている時、それをネガティヴに捉える必要はありません。
ましてや実際に苦しんでる自分が居るのに、それに目を向けずにいると根深い傷を残すことになります。
ネガティヴなものを悪いものだと決めつけて、それを排除したり、ポジティブなもので上書きしてフタをしてしまったり
するのは、問題の先送りでしかありません。
確かに初期の方便としては有効ですが、元来、方便とは手放していくものです。
時期が過ぎてもそれにしがみ付いてしまうと、それが新たな囚われとなってしまいます。
ネガティヴは悪いものだという考えは、一見正しいように思えますが、反面、情けの無い冷たい行為にもなりやすいため
注意が必要です。
囚われることは悪いことだ、ネガティヴは悪いものだと信じ込んでしまうと、それに苦しむ他人を見ても、そのまま受け
入れることは出来ず、突き放すような心になってしまいます。
そして、苦しんでいる人間が自分本人であった場合でも、その冷たさに変わりが無くなります。
自分としては「良いこと(正しいこと)をしている」と思って送った激励やエールが、相手にとってはその一言一言が
ムチの一撃となってキズだらけになってしまいます。
そして、常日頃それを向けられている自分自身もまた、知らず知らずのうちにキズだらけになってしまっているわけです。
「天地の絶対の真理だから正しい」「それは愛のムチだ」「痛く感じる自分がいけないのだ」となってしまうと、それこそ
完全に囚われの世界です。
そもそも、この世に「絶対」はありません。
正しさを追おうとする気持ちは大事ですが、見つけたそれに寄り掛かってしまうと、珠玉も一瞬にして石コロと化して
しまいます。
“苦しみは自分が作り出したもの、自業自得、気付けばラクになる、それは気づきのために必要な過程、本人にとってはプラス…”
確かに、どれも理屈としては正しいものです。
ただ、それはそれ、コレはコレなのです。
それに寄り掛かったり、縛られたしまったりした瞬間に、真理は真理では無くなります。
「いま」苦しんでいる、そのことを受け入れなければその先など無いのです。
苦しんでいること自体をネガティヴに捉えてしまった時点で、もはやそれは拒絶の心になってしまっているのです。
受け入れるというのは、良いも悪いも決めつけないことです。
それをそのままで認めるということです。
「仕方がない」「これでイイのだ」という達観です。
それが他者であれば、そこに寄り添い、共にその苦しみに心を向けるということです。
それが自分であるならば、その苦しむ自分に寄り添い、共にその苦しみに心を向けるということです。
実際に大変な状況であるのに「別に大変ではない」と思い込もうとするのは、現実を無視する行為でしかありません。
結局は現実逃避と同じことになってしまいます。
このような時に、この世界や目の前の出来事を「無」と断じて切り捨てるのは、まさに臭い物にフタする行為でしか
ありません。
それらは仮初めのものではあるものの、決してスルーしていいものではありません。
切り捨てるべきは、目の前のことではなく、自分の心グセです。
それを、目の前の世界や出来事ごとゴッソリ切り捨ててしまうのでは、何の解決にもなっていません。
それではいつまでたっても心の囚われは無くならず、似たような現実が現れたら、また心グセが発動して同じ苦しみが
生じるだけです。
心グセを無くすためには、それを受け入れることが第一です。
認めてしまうということです。
切り捨てようとしたり、フタをしようとすると、余計にそれは暴れ出します。
そうであればこそ、心グセうんぬん以前に、そもそもそうした心グセを発動させるもの、つまり目の前の状況というもの
をまずは認めてしまうことが先となるわけです。
心がツラい時、シンドイ時、そのような時はシンドい気持ちや自分の心グセに目を向けるのではなく、そのシンドさを生み
出している状況の方に目を向けましょう。
そして、目の前が大変な状況であるのならば、その現実を受け入れてしまいましょう。
「受け入れる」というと、理解したり納得したりすることのように思いがちですが、そうではなく、仕方がないと諦める
だけでいいわけです。
そうしてその次に、囚われに苦しんでいる自分というものを、そのまま素直に受け入れるのです。
囚われている自分を認め、諦め、抱き締めるということです。
認めるとは、目に留めること。目を向けることです。
諦めるとは、中身についてあれこれ判断を加えないこと。
そして、晴れて青天白日のもと、堂々とその存在を許された素の自分に、ソッと近づき優しく抱き締めてあげましょう。
決して、そこで無理して優等生ぶろうとしたり、格好つけようとしないことです。
また、自分を納得させるための、もっともらしい綺麗事や理由付けを探そうとするのもいけません。
「こういう理由だから仕方がない」とか「こう考えれば逆にこの方が価値があるのだ」とか、そのような言葉遊びは
再び迷いの世界に飛び込む行為でしかありません。
しのごの言わず、素の自分を、優しく温かくスンナリと受け入れる。
素の自分をカッコ悪いとか情けないとか思ってしまう性根を炙り出し、さらにはその性根がカッコ悪いとか情けないと
思ったならば、それこそ慌てて否定したり切り捨てたり隠したりせず、笑いながらその性根も受け入れてあげましょう。
そうすることで、自分自身も、さらにはそうした囚われや心グセも、全てが天地宇宙へと溶け合って行きます。
この世に、天地宇宙に反するものは何一つありません。
全ては、天地宇宙と同一のものです。
ですから、どんなものであろうとも、あらゆる全てがそこへ溶けて一つになっていきます。
ネガティヴなものなど、何一つ無いのです。
神道においては罪穢れというものを切り捨てるのではなく昇華させるというのは、つまりはそういうことなのです。
さて、先ほど、心ではなく現実の方に目を向けるのが先だと言いました。
でも「私たちが現実を創造しているのだから、心を変えることで現実も変わっていく」という考え方で行けば、心に目を
向けても良いのではないかと思ってしまいます。
ただ、囚われのドロ沼にハマってしまっている時にその方向で進むとかえって堂々めぐりになってしまう危険があるのです。
正しい真理でありながら、そこを読み間違えてしまうとこの表現自体がすでに矛盾をはらんでしまいます。
心を変えるというのは、囚われを無くすことが前提となります。
つまり「囚われを無くすことで現実が変わる」ということになるわけですが、そうなると、現実が変わることを望んだ
時点で現実は変わらないということになります。
何故ならば、もしもその実現を目指そうと思ったならば、その時点ですでに今の現実を拒絶していることになるからです。
拒絶というのは囚われそのものです。
「心が変われば現実も変わる」というのは、その望みを手放すことでしか成立しません。
あくまで結果として自然にそうなるものでしかないのです。
ですから、今の現実に目を向けるということになるわけです。
現実を受け入れることこそが、囚われを無くすことの第一歩です。
囚われの世界に身を置いているうちは、自分の心の方ではなく、目の前の現実の方に目を向けることが先なのです。
そして「目の前の現実」というのは、表現を変えれば「いま」ということになります。
「世界は仮初めだ。このツラい現状も仮初めだ」という割り切り方も、それが事実であるだけに、最も陥りやすい罠だと
言えるでしょう。
つまり、「いま」この「現実」を見ないことを正当化する言い訳に使えてしまうということです。
「ツラいと思っている自分がいけない。我執を無くさねばならない」と頑張りすぎてしまうと、目の前の“大変な”現実が
無視されてしまいます。
まずは、感情を抜きに、目の前の事実をありのままに受け入れましょう。
そして、それはそれ、コレはコレという割り切り方です。
そうすれば、その先の感情には着火されずに、サラリと流れていくはずです。
「確かに大変な状況だ。でも仕方ない。」
それが体を通すことになりますし、しっかりと味わい嚙み締めることになります。
そうするうちに、現実も、自分も、自然と大変ではなくなっていくことでしょう。
また、欲が出てくると「でも仕方ない」を「よし楽しもう」に置き換えたいと思うものです。
ただ、それも自然にそうなっていくものであって、自分に嘘をついてまでそのように繕うものではありません。
どっちが正しいとか、より望ましいとか、そんなことはどうでもいい話です。
正解というのは一つではありません。
今日の正解も、明日には正解ではなくなります。
明日の正解も、今日では大間違いだったりします。
三段跳びに高みを求めるのは、やめた方がいいでしょう。
自分が素直にラクに受け入れられる形こそが、一番だということです。
あらゆる理由付けや理屈付けは、自然な流れを堰き止めてしまいます。
自然な心が、自然な流れを生みます。
この世に、あるべき形などありません。
その時その時の自然な姿があるだけです。
目の前の事柄や自分の態度を白黒決めつけたりせず、まずはそのままに受け入れることから始めましょう。
(つづく)