松江出張のあと、久しぶりの稽古に出ることが出来ました。
私の通っている流派では「統一体」というものをとても大切にしています。
厳密に言えば、それは心身が統一している状態のことを指します。
自我に囚われることなく、心うつろわず「今ここ」に在る状態です。
別の表現をすれば、天地と一つになっている状態となります。
心と身体が一致しているというのは結果に過ぎず、あくまで天地と一体になっていることが主であるわけです。
そのように心の波立ちや移ろいがなく、天地との壁が無い状態にあれば、天地に充満するエネルギーと一つに溶け合い、
結果としてその天地の下に居る相手とも断絶なく交流することになり、何ら抵抗なくフンワリ投げることが出来るように
なります。
その時に肉体を意識したり、投げようという思いが起きたり、些細な雑念が湧いてしまうと、途端に意識の壁が生じて
しまい、自ら相手との交流を断つこととなり、単なる物理の力学的な投げ合いかヤラセとなってしまいます。
肉体を意識せず天地と溶け合った感覚のまま心を乱さずフンワリとやる…
そこに難しさがあり、また喜びがあります。
この感覚にある時は、とても心地よい開放感、透明感にあります。
坐禅をしている時や温泉に浸かっている時、大自然に包まれた時のようなリラックス状態にとてもよく似ています。
そこには、相手を投げてやろうなどという我欲は一切生じず、とても大きな優しい心のままに、結果として投げています。
もともとは相手を倒そう、相手より強くなろうとして始めた修行のはずなのに、そうした我欲こそが己を一番弱らしめて
いるというのが、いかにも真理めいてますが、実際それが身をもって分かるのですから本当に面白い限りです。
投げようという気持ちを捨てることで、初めて投げられる。
投げようとさえしなければ、結果として投げることができる。
といって、そこに投げる心がなければ、そもそも投げるという動作すら起こせない。
何ごとも最初に必ず「方向づけ」というものが必要で、ただしそこに我欲を注いだり、自我を波立たせたりしてはいけない
ということです。
まるで、私たちの人生そのものです。
自我を全開にして進んでしまうとガチガチの物理的・力学的なガチンコになってしまいますが、さりとて、自分をすべて
捨てて何も無いまま天地へ丸投げするのでは、海に漂う流木と何も変わりありません。
そこに「いま」という自分が在ることが天地自然な姿であり、その状態のままでスッと方向づけをして、あとは天地に
任せきる(=天地に溶けあったままでいる)ことで、初めて天地のエネルギーで相手を投げられる、つまり日常に
当てはめるなら「現実が変化していく」ということになるわけです。
日常での変化や結果というのは、ゆっくりとした時間の経過ののちに現れてくるため、自分の心の在り方が波立っていた
のか、囚われていたのか自覚するのはとても難しいことです。
ただ、武道であればそれが目に見えてすぐに結果として現れるため、その直前の自分の心癖や囚われを見直すことが
出来ます。
ほんのわずか心が変化しただけで全くダメになってしまうことを目の当たりにします。
とりわけ、次にやる動作のことを考えると、途端に天地との融合は途切れて、相手との交流も途絶え、突如重くなって
ガチッと止まってしまいます。
「今ここ」から、ほんの僅かでも心が離れると、いきなり無に帰してしまうわけです。
それはまさに孤立・孤独を実感する瞬間です。
また、次の動作だけでなく、何かしら些細な思いを頭に浮かべただけでも同じようにガチッと止まってしまいます。
邪欲は言うに及ばず、「余計なことを考えない」とか「今に集中」とか「天地と一体」とか、そうしたポジディブ思考や
プラス思考であってもアウトです。
何故ならば、それらも、自分の心が今ここから離れてしまっているからです。
「今ここ」というのは、完全な自然体のことです。
今の、ありのままを、そのままに受け入れている状態です。
今に集中していない自分も、天地と一体になっていない自分も、いっさいがっさい白黒判断せず、そのまま受け入れる。
その瞬間、天地と溶け合い一つとなり、今だけに集中した状態になるわけです。
ということは、日常や人生であってもそれは同じであるということです。
ただ、時間の流れ方がゆっくりしているため、結果が現れるのが遅いだけのことです。
ですから、現実での結果が伴わないのは心が波立っているからであり、些細な我欲を起こすから天地自然なエネルギーがシャット
ダウンされてしまうということです。
そしてその状態から脱するには、「今ここ」以外に心をうつろわせないということになります、
決して、何とかの法則に心を使ったり、ポジティブ思考をすれば良いということではないわけです。
あらゆる雑念は天地との断絶にしかなりません。
さて、そうなると「今ここ」に心を向けた波立ちの無い感覚というのは、どのようなものなのか、どうすれば得られる
のかということになってきます。
これは様々な場面で誰もが体感していることです。
例えば、温泉などは分かりやすいかもしれません。
湯に浸かった直後は、まだ意識が日常を引きずっているためアレコレ考えごとが湧いてきます。
しかし、そのまま長いこと浸かっているとそのうち何も考えない空っぽの状態になっていきます。
ガチャガチャと色々なことが浮かんできても、そのまま放ったらかしておけば、自ずと自然本来の状態に回帰していく
ということです。
あの感覚こそが目指す境地です。
つまり、どれだけ放ったらかしに出来るか、湧き出る雑念すらもハイハイと受け入れてあげられるかということです。
ここでは温泉を一例としましたが、それは日常のどんなことであっても同じであるわけです。
湯船に浸かって何も考えない空っぽの状態になると、仮に心配事が浮かんでもそこへ心を向けること自体が嫌になります。
ボーッと幸せな心地に身をまかせきっていますので、その感覚を止めることが嫌なのです。
つまり、本当にリラックスし切ると、ほんのわずかなことにエネルギーを注ぐこと自体が、非常に煩雑なことに感じて
しまうわけです。
しかしリラックスが浅いと、そうはなりません。
日常では波立ちのキッカケがあれば、どんなことであろうと瞬時にそこへエネルギーを注いでしまいます。
むしろ、それを止めることの方が困難であるわけです。
そして、それを必死にスルーし続けようとしても、少しでも気を抜くと心がざわついてしまうため、イタチごっこを
続けているうちに疲れ果てて挫けてしまいます。
天地と一体で無くなることなら私たちは幾らでも出来るのに、天地と一体となることは極めて困難に感じてしまいます。
これでは、いかにも私たちがダメ人間のようで、悲しくなってしまいます。
でも、それは悲観するようなことでは全くありません。
そのようになってしまう理屈はハッキリしているのです。
それは、小さな鍋に張った水と、数キロ四方の巨大なプールを比べてみれば明らかです。
膨大な体積の水を、たとえわずかでも波立たせるには途轍もないエネルギーが必要となります。
逆に言えば、ほんの少しの刺激くらいでは、全体の重みや存在感がそれを瞬時に霧散させてしまうということです。
しかし、小さな鍋の方は、わずかな刺激で簡単に波立ちます。
そしてひとたび波立つと、それが収まるまでかなりの時間を必要とします。
その静まりを待つまでもなく、さらに次の波立ちが来ることもしょっちゅうです。
すると「コッチだ!あ、今度はコッチ!」と、波立ちというものに対して、条件反射的に反応する(=エネルギーを注ぐ)
ようになってしまいます。
日常という覚醒状態は、天地宇宙と意図的に隔離された状態です。
それは、個という疑似体験を芯から味わい尽くすためには必要なことであるわけです。
しかしそうなると、どうしても大海を小さな鍋で囲ったような状態に陥りやすくなります。
それが、些細なことに心が囚われてしまう原因であり、逆にそれこそが些細なことにも波立たないための糸口になります。
まずは、そのような理屈なのだから、私たちは駄目な人間などではなく、仕方がないのだと諦めきることです。
私たちは、コレでいいのです。
その上で、大海を囲む壁を無くすことが、波立ちを無くすことになります。
それでは話が元に戻ってしまうように思ってしまいますが、実はそこがカギなのです。
そもそもそれを目指せばこそ苦労しているわけですが、苦労するものだという思い込みが私たちにあることこそが、
余計にそれを難しくさせてしまっています。
例えば、波立ちを無くしていけば大海に溶け合う
とはいえ、波立ちに心を奪われてしまう条件反射を無くしていくには
根気のいる反復訓練が必要となります。
しかも下手するとゴールを目指して旅立っていながら、そのまま迷宮をグルグル回ることにもなりかねません。
ゴールは、常に目の前にあります。
次の一歩がそこです。
しかし、その次の一歩こそは、今、今、今が重なった結果なのです。
つまり、ゴールは「今」にあるのです。
波立ちに心奪われないための修行というものも、結局は、今に集中するためのものであるわけです。
天地との分断というのは、ちょっとした考えごとや欲だけでなく、体調不良や過労、ストレスや悲しみ苦しみ痛みでも
起きてしまいます。
そして実は、そのような天地との分断を無くそうとする気持ちこそが、その一番の障害となってしまいます。
結論を言ってしまえば、どうでもエエワイという捨て鉢が近道となります。
ただ、最初から捨て鉢になってしまうと、単なる気抜けになってしまいます。
やはり、そこを目指そうとする方向付けが初めにあって、そこへ心を向けた上での、どうでもええわいという諦めが、
パズルの最後の1ピースになるのです。
また、あらゆる我欲や我執を忌み嫌うのも誤りです。
例えば、我欲や我執を手放さなければ相手を投げられない(現実を変えられない)と言うと、我欲や我執を否定する気持ち
が生じてしまうものです。
しかし、それでは逆に我欲や我執の存在をより明確に意識することにしかなりません。
さらに言えば、自我というものがあればこそ、私たちはこの世で今ここに定着できています。
自我は、現実世界に根を下ろすためのアンカーであるわけです。
そして我欲も我執も、その自我から生じるものです。
それらを全否定してしまうと、その大本の自我を否定することにもなってしまいます。
それに対して、自我が猛然と反発するのは当然です。
私たちは、自我のおかげで今ここに生きています。
ですから、否定ではなく感謝とともに受け入れるのが、人として当然の道です。
自我に叫ばせるようなことをするのは間違いです。
話を戻しますと、何をするにしても最初に方向付けというものが無ければ、私たちというのは、ただボーッと突っ立った
ままのマネキンでしかありません。
そして最初の方向付けというのは、スッと心を向けるというものです。
それこそが、最初の出力として必要なものです。
ただ、二段目のロケットに移ったあとは、今度は一切余計なことはせず、まかせきることで天地のエネルギーに乗ることが
できるわけです。
我執や我欲を忌み嫌うと、この最初の方向付けすらも否定しかねないので注意が必要です。
そしてその方向付けは、心を「今」に置いてあればこそ可能となります。
向けた先へと心を飛ばしてしまうと「今ここ」から離れてしまいます。
心はあくまで今に置いたまま、スッとその向きを明確にさせる。
それは広がっていると言ってもいいかもしれません。
ここでまた「広げよう」と考えてしまうと、これもまたすべて振り出しに戻ってしまいます。
向けるだけで勝手に広がっているので大丈夫です。
そもそも私たちは、もとより「今ここ」に在ります。
何故ならば、天地宇宙も「今ここ」にしか無いからです。
つまり「今ここ」だけが、唯一の実在なのです。
だからこそ、「今ここ」こそが天地宇宙と一つに溶け合う唯一のポイントなのです。
他の言い方をすれば、「今ここ」が天地宇宙の全てということです。
それ以外のところに心を置いた瞬間、私たちは天地宇宙から分離しているということになります。
ただ、ここまで来たらタネを明かしてしまいますが、実はこれもまた単なる幻想に過ぎません。
私たちは、もともと天地宇宙そのものです。
「今ここ」から離れることなど、実際は有り得ないのです。
言うなれば、身体は此処に置いたままで、そこから離れたことにしようとしているだけです。
意識だけ、幻想の世界へトリップさせているようなものです。
はたからみれば、実際「今ここ」に突っ立っては居るけれど、心ここにあらずでボーッとしているような状態です。
つまり「今ここ」に集中したいという思い自体が、実は、もとより幻想そのものであるというわけです。
最初から、私たちは「今ここ」に居ます。
私たちが私たち自身に在る時、それは「いま」に在るということです。
「いま」というのは、私たち自身であるのです。
ですから、あらゆる不安、あらゆる思いは必要ありません。
「今ここに集中しよう」というのは幻想に過ぎないのです。
何をするまでもなく、それは不可分のものです。
不安も、希望も、何もかも手放した瞬間、私たちは「今ここ」に還ってくることでしょう。
私の通っている流派では「統一体」というものをとても大切にしています。
厳密に言えば、それは心身が統一している状態のことを指します。
自我に囚われることなく、心うつろわず「今ここ」に在る状態です。
別の表現をすれば、天地と一つになっている状態となります。
心と身体が一致しているというのは結果に過ぎず、あくまで天地と一体になっていることが主であるわけです。
そのように心の波立ちや移ろいがなく、天地との壁が無い状態にあれば、天地に充満するエネルギーと一つに溶け合い、
結果としてその天地の下に居る相手とも断絶なく交流することになり、何ら抵抗なくフンワリ投げることが出来るように
なります。
その時に肉体を意識したり、投げようという思いが起きたり、些細な雑念が湧いてしまうと、途端に意識の壁が生じて
しまい、自ら相手との交流を断つこととなり、単なる物理の力学的な投げ合いかヤラセとなってしまいます。
肉体を意識せず天地と溶け合った感覚のまま心を乱さずフンワリとやる…
そこに難しさがあり、また喜びがあります。
この感覚にある時は、とても心地よい開放感、透明感にあります。
坐禅をしている時や温泉に浸かっている時、大自然に包まれた時のようなリラックス状態にとてもよく似ています。
そこには、相手を投げてやろうなどという我欲は一切生じず、とても大きな優しい心のままに、結果として投げています。
もともとは相手を倒そう、相手より強くなろうとして始めた修行のはずなのに、そうした我欲こそが己を一番弱らしめて
いるというのが、いかにも真理めいてますが、実際それが身をもって分かるのですから本当に面白い限りです。
投げようという気持ちを捨てることで、初めて投げられる。
投げようとさえしなければ、結果として投げることができる。
といって、そこに投げる心がなければ、そもそも投げるという動作すら起こせない。
何ごとも最初に必ず「方向づけ」というものが必要で、ただしそこに我欲を注いだり、自我を波立たせたりしてはいけない
ということです。
まるで、私たちの人生そのものです。
自我を全開にして進んでしまうとガチガチの物理的・力学的なガチンコになってしまいますが、さりとて、自分をすべて
捨てて何も無いまま天地へ丸投げするのでは、海に漂う流木と何も変わりありません。
そこに「いま」という自分が在ることが天地自然な姿であり、その状態のままでスッと方向づけをして、あとは天地に
任せきる(=天地に溶けあったままでいる)ことで、初めて天地のエネルギーで相手を投げられる、つまり日常に
当てはめるなら「現実が変化していく」ということになるわけです。
日常での変化や結果というのは、ゆっくりとした時間の経過ののちに現れてくるため、自分の心の在り方が波立っていた
のか、囚われていたのか自覚するのはとても難しいことです。
ただ、武道であればそれが目に見えてすぐに結果として現れるため、その直前の自分の心癖や囚われを見直すことが
出来ます。
ほんのわずか心が変化しただけで全くダメになってしまうことを目の当たりにします。
とりわけ、次にやる動作のことを考えると、途端に天地との融合は途切れて、相手との交流も途絶え、突如重くなって
ガチッと止まってしまいます。
「今ここ」から、ほんの僅かでも心が離れると、いきなり無に帰してしまうわけです。
それはまさに孤立・孤独を実感する瞬間です。
また、次の動作だけでなく、何かしら些細な思いを頭に浮かべただけでも同じようにガチッと止まってしまいます。
邪欲は言うに及ばず、「余計なことを考えない」とか「今に集中」とか「天地と一体」とか、そうしたポジディブ思考や
プラス思考であってもアウトです。
何故ならば、それらも、自分の心が今ここから離れてしまっているからです。
「今ここ」というのは、完全な自然体のことです。
今の、ありのままを、そのままに受け入れている状態です。
今に集中していない自分も、天地と一体になっていない自分も、いっさいがっさい白黒判断せず、そのまま受け入れる。
その瞬間、天地と溶け合い一つとなり、今だけに集中した状態になるわけです。
ということは、日常や人生であってもそれは同じであるということです。
ただ、時間の流れ方がゆっくりしているため、結果が現れるのが遅いだけのことです。
ですから、現実での結果が伴わないのは心が波立っているからであり、些細な我欲を起こすから天地自然なエネルギーがシャット
ダウンされてしまうということです。
そしてその状態から脱するには、「今ここ」以外に心をうつろわせないということになります、
決して、何とかの法則に心を使ったり、ポジティブ思考をすれば良いということではないわけです。
あらゆる雑念は天地との断絶にしかなりません。
さて、そうなると「今ここ」に心を向けた波立ちの無い感覚というのは、どのようなものなのか、どうすれば得られる
のかということになってきます。
これは様々な場面で誰もが体感していることです。
例えば、温泉などは分かりやすいかもしれません。
湯に浸かった直後は、まだ意識が日常を引きずっているためアレコレ考えごとが湧いてきます。
しかし、そのまま長いこと浸かっているとそのうち何も考えない空っぽの状態になっていきます。
ガチャガチャと色々なことが浮かんできても、そのまま放ったらかしておけば、自ずと自然本来の状態に回帰していく
ということです。
あの感覚こそが目指す境地です。
つまり、どれだけ放ったらかしに出来るか、湧き出る雑念すらもハイハイと受け入れてあげられるかということです。
ここでは温泉を一例としましたが、それは日常のどんなことであっても同じであるわけです。
湯船に浸かって何も考えない空っぽの状態になると、仮に心配事が浮かんでもそこへ心を向けること自体が嫌になります。
ボーッと幸せな心地に身をまかせきっていますので、その感覚を止めることが嫌なのです。
つまり、本当にリラックスし切ると、ほんのわずかなことにエネルギーを注ぐこと自体が、非常に煩雑なことに感じて
しまうわけです。
しかしリラックスが浅いと、そうはなりません。
日常では波立ちのキッカケがあれば、どんなことであろうと瞬時にそこへエネルギーを注いでしまいます。
むしろ、それを止めることの方が困難であるわけです。
そして、それを必死にスルーし続けようとしても、少しでも気を抜くと心がざわついてしまうため、イタチごっこを
続けているうちに疲れ果てて挫けてしまいます。
天地と一体で無くなることなら私たちは幾らでも出来るのに、天地と一体となることは極めて困難に感じてしまいます。
これでは、いかにも私たちがダメ人間のようで、悲しくなってしまいます。
でも、それは悲観するようなことでは全くありません。
そのようになってしまう理屈はハッキリしているのです。
それは、小さな鍋に張った水と、数キロ四方の巨大なプールを比べてみれば明らかです。
膨大な体積の水を、たとえわずかでも波立たせるには途轍もないエネルギーが必要となります。
逆に言えば、ほんの少しの刺激くらいでは、全体の重みや存在感がそれを瞬時に霧散させてしまうということです。
しかし、小さな鍋の方は、わずかな刺激で簡単に波立ちます。
そしてひとたび波立つと、それが収まるまでかなりの時間を必要とします。
その静まりを待つまでもなく、さらに次の波立ちが来ることもしょっちゅうです。
すると「コッチだ!あ、今度はコッチ!」と、波立ちというものに対して、条件反射的に反応する(=エネルギーを注ぐ)
ようになってしまいます。
日常という覚醒状態は、天地宇宙と意図的に隔離された状態です。
それは、個という疑似体験を芯から味わい尽くすためには必要なことであるわけです。
しかしそうなると、どうしても大海を小さな鍋で囲ったような状態に陥りやすくなります。
それが、些細なことに心が囚われてしまう原因であり、逆にそれこそが些細なことにも波立たないための糸口になります。
まずは、そのような理屈なのだから、私たちは駄目な人間などではなく、仕方がないのだと諦めきることです。
私たちは、コレでいいのです。
その上で、大海を囲む壁を無くすことが、波立ちを無くすことになります。
それでは話が元に戻ってしまうように思ってしまいますが、実はそこがカギなのです。
そもそもそれを目指せばこそ苦労しているわけですが、苦労するものだという思い込みが私たちにあることこそが、
余計にそれを難しくさせてしまっています。
例えば、波立ちを無くしていけば大海に溶け合う
とはいえ、波立ちに心を奪われてしまう条件反射を無くしていくには
根気のいる反復訓練が必要となります。
しかも下手するとゴールを目指して旅立っていながら、そのまま迷宮をグルグル回ることにもなりかねません。
ゴールは、常に目の前にあります。
次の一歩がそこです。
しかし、その次の一歩こそは、今、今、今が重なった結果なのです。
つまり、ゴールは「今」にあるのです。
波立ちに心奪われないための修行というものも、結局は、今に集中するためのものであるわけです。
天地との分断というのは、ちょっとした考えごとや欲だけでなく、体調不良や過労、ストレスや悲しみ苦しみ痛みでも
起きてしまいます。
そして実は、そのような天地との分断を無くそうとする気持ちこそが、その一番の障害となってしまいます。
結論を言ってしまえば、どうでもエエワイという捨て鉢が近道となります。
ただ、最初から捨て鉢になってしまうと、単なる気抜けになってしまいます。
やはり、そこを目指そうとする方向付けが初めにあって、そこへ心を向けた上での、どうでもええわいという諦めが、
パズルの最後の1ピースになるのです。
また、あらゆる我欲や我執を忌み嫌うのも誤りです。
例えば、我欲や我執を手放さなければ相手を投げられない(現実を変えられない)と言うと、我欲や我執を否定する気持ち
が生じてしまうものです。
しかし、それでは逆に我欲や我執の存在をより明確に意識することにしかなりません。
さらに言えば、自我というものがあればこそ、私たちはこの世で今ここに定着できています。
自我は、現実世界に根を下ろすためのアンカーであるわけです。
そして我欲も我執も、その自我から生じるものです。
それらを全否定してしまうと、その大本の自我を否定することにもなってしまいます。
それに対して、自我が猛然と反発するのは当然です。
私たちは、自我のおかげで今ここに生きています。
ですから、否定ではなく感謝とともに受け入れるのが、人として当然の道です。
自我に叫ばせるようなことをするのは間違いです。
話を戻しますと、何をするにしても最初に方向付けというものが無ければ、私たちというのは、ただボーッと突っ立った
ままのマネキンでしかありません。
そして最初の方向付けというのは、スッと心を向けるというものです。
それこそが、最初の出力として必要なものです。
ただ、二段目のロケットに移ったあとは、今度は一切余計なことはせず、まかせきることで天地のエネルギーに乗ることが
できるわけです。
我執や我欲を忌み嫌うと、この最初の方向付けすらも否定しかねないので注意が必要です。
そしてその方向付けは、心を「今」に置いてあればこそ可能となります。
向けた先へと心を飛ばしてしまうと「今ここ」から離れてしまいます。
心はあくまで今に置いたまま、スッとその向きを明確にさせる。
それは広がっていると言ってもいいかもしれません。
ここでまた「広げよう」と考えてしまうと、これもまたすべて振り出しに戻ってしまいます。
向けるだけで勝手に広がっているので大丈夫です。
そもそも私たちは、もとより「今ここ」に在ります。
何故ならば、天地宇宙も「今ここ」にしか無いからです。
つまり「今ここ」だけが、唯一の実在なのです。
だからこそ、「今ここ」こそが天地宇宙と一つに溶け合う唯一のポイントなのです。
他の言い方をすれば、「今ここ」が天地宇宙の全てということです。
それ以外のところに心を置いた瞬間、私たちは天地宇宙から分離しているということになります。
ただ、ここまで来たらタネを明かしてしまいますが、実はこれもまた単なる幻想に過ぎません。
私たちは、もともと天地宇宙そのものです。
「今ここ」から離れることなど、実際は有り得ないのです。
言うなれば、身体は此処に置いたままで、そこから離れたことにしようとしているだけです。
意識だけ、幻想の世界へトリップさせているようなものです。
はたからみれば、実際「今ここ」に突っ立っては居るけれど、心ここにあらずでボーッとしているような状態です。
つまり「今ここ」に集中したいという思い自体が、実は、もとより幻想そのものであるというわけです。
最初から、私たちは「今ここ」に居ます。
私たちが私たち自身に在る時、それは「いま」に在るということです。
「いま」というのは、私たち自身であるのです。
ですから、あらゆる不安、あらゆる思いは必要ありません。
「今ここに集中しよう」というのは幻想に過ぎないのです。
何をするまでもなく、それは不可分のものです。
不安も、希望も、何もかも手放した瞬間、私たちは「今ここ」に還ってくることでしょう。