私たちはみんな、この世のツアーに参加中です。
旅行に行こうか行くまいか思案するまでもなく、既にツアーの真っ最中です。
そこで旅のしおりとして、旅行に飽きてしまった時やシンドくなった時にはどうすればいいか、まずは心構えについて
触れていきたいと思います。
前回、大変な状況というのは、白黒と判断をつけることなく、大変さそのものを認めてしまうことでその先が拓けると
いう話をしました。
「確かに大変な状況だ。でも仕方ない。」
関西風に言えば、
「エライコッチャ~。でも、しゃーないな。」
これは本当に「今」をそのまま受け入れる極意です。
それにしても、標準語だとそこはかとない悲壮感が漂ってしまうところを、関西、まことにおそるべしです。
これならば、言ったそばからすでに大変では無くなってしまいます(笑)
とはいえ、本当に大変な渦中に居るときは、そんな軽口を叩く余裕も無いことでしょう。
こんなにツラくこんなに苦しいのに、目の前の状況を認めるなんて、最早そんな気力もガッツも無い、と。
でも、大丈夫です。
そのためにこそ「方便」というものがあります。
そして、方便というのは、その時その時の囚われに応じて使い捨てていくものですから、気にせずどんどん使って、どんどん替えて
いきましょう。
そんな軽くていいのでしょうか、と?
イイんです。
考えや信念がコロコロ変わるのはみっともないとか、そんなつまらない見栄は捨ててしまいましょう。
それを言うなら、一つのことにしがみつくことの方がよっぽど、みっともないわけです。
大切なのは、考え方そのものよりも、私たち自身がブレないことです。
一つの考え方に縛られて私たち自身が捻じ曲げられてしまうのでは、何のための人生、誰のための人生かということに
なってしまいます。
考え方や信念は、目の前をコロコロと通り過ぎていくもので、自分の中心に置くものではありません。
私たちは、信念にへばりつく存在ではありません。
私たちは、私たち自身なのです。
そして私たち自身とは、この天地宇宙のことです。
何かを中心に置かなければフワフワ流されるような危うい存在ではありません。
広大無辺な天地に溶け込む私たちは、流されたりするものではなく、初めから天地宇宙と一心同体です。
すべてを手放してしまっても全く何の心配もありません。
それを踏まえた上で、方便の話に移りたいと思います。
人によっても、またその時その状況によっても、囚われ方というのは千差万別です。
一方でまた、方便というものも星の数ほどあります。
それぞれの囚われに応じた方便を上手く使いこなしていくことで、その囚われをサラッと手放すことができます。
ですから、これもアリそれもアリ、という寛容さや柔軟さがとても大切となります。
またその際の注意ですが、「囚われ」という表現そのものがネガティヴな色合いに満ちていますので、この言葉を使う時
には頭をリセットしてニュートラルに接することをおすすめします。
そうでないと、いちいちこの言葉を目にするたびに「あぁ自分は囚われてるのか...」とか「いや自分はそこまで囚われて
いない」とか、どうでもいいところに意識が向いてしまって、ありのままの姿を素直に受け入れることができなくなって
しまいます。
囚われてたってイイのです。
そこで押し問答してしまうと、いつまでたっても先に進みません。
今の目的はただ、どれが一番効く方便なのかを知ることです。
適切な薬を処方するためには、まずは今の症状を正確に知るところから始まります。
もしそこで過度に自己批判したり、意地を張ってしまっては話を進めることができません。
足したり引いたりせず、ありのままの症状を知るためには、頭をニュートラルにする必要があるのです。
これは何げにとても大事なことですので、先ほどの部分について、もう一度詳しく見ていきたいと思います。
「囚われ」にせよ「煩悩」にせよ、言葉そのものに囚われてしまい、恥ずべきものとか忌み嫌うものだと考えてしまうと、
自分はそんなことは無いと目を閉じてしまったり、汚いものでも扱うように即刻切り捨てて意識から抹消させてしまおう
としてしまいます。
しかしそれでは拒絶の心でしかありません。
それも極めて強い拒絶です。
拒絶というのは我執であり囚われであり、天地との断絶です。
そしてさらに厄介なのが、拒絶すればするほどに、その対象をより一層強く意識することにもなってしまいます。
強く意識するということはエネルギーを注ぎ込むということです。
結果、イヤよイヤよも好きのうちとなって、払っても払ってもますます押し寄せてくることになってしまうわけです。
確かに、自分の恥部はあまり見たくないものです。
しかしだからと言って、悪者扱いして敵意をもって切り捨てるのでは何の解決にもなりません。
そうしたことが穢れを祓うだとか、御霊洗いであるなどと大いなる勘違いをしていると、結果はその真逆のことになって
しまいます。
ネガティヴな思いを無くして、ただ淡々とニュートラルに捉えることで、初めて直視することが出来るようになります。
決めつけを無くせば、もはやそれは恥部でも何でも無くなりますので、落ち着いてサラッと見ることが出来ます。
目に留めること、つまり「見て止める」ことが、「認める」ことになり、「明らかに見る」ことが「諦める」ことになります。
受け入れるためには、まずは直視すること、しかも苦もなく自然に見られることが第一歩となります。
もしそこで優等生的な自己非難がアレコレ頭に湧いてきても、サラリと無視です。
それこそ「そうは言っても、しゃーない」という達観です。
言葉というものは、どうしてもネガティヴやポジティブといった色が、元より付いてしまっています。
その色に流されてしまうと、知らないうちに心が翳ってしまい、ありのままに受け入れることが出来なくなってしまいます。
これはポジティブな言葉であっても同じです。
私たちは、常に今ここにあります。
言葉はサラサラと目の前を通り過ぎていくものです。
そこへのめり込んで言葉に溺れてしまうと、今ここを見失った漂流者となってしまいます。
しかし、一方で言葉そのものにはエネルギーが宿りますので、自分が常に今ここにあれば、それは驚くべき力となって
天地へと響き渡ります。
ただ、この話は今は混乱を招くだけなのでまたの機会にしたいと思います。
いずれにしても、言葉というのはあくまで道具に過ぎず、決して事象をありのままに表すものではありません。
「言葉が」その先を表してくれるのではなく、「私たちが」言葉を取っ掛かりとして、その先に広がる現実を見るのです。
言葉そのものにつまずいたり、流されたりせず、言葉は言葉に過ぎないとサラリと流しましょう。
そのように自分の中心に自分を置くことで、その先の景色をありのままに見ることが出来ます。
この世には、社会通念や常識、信念、思い込み、心グセなど色々な縛りがあります。
そうしたものに行き詰まった時には、転ばぬ先の杖として、方便をハシッと掴みます。
そして今の囚われを見極めることで、適切な方便を見つけることができます。
自分自身を明らかに見て止める時、あるいは方便というものを使う時、どんな時でも言葉には引っ張られずサラリと
接するのが大事です。
そうしないと、処方を間違えて余計おかしくなったり、薬そのものに溺れてしまったりしてしまいます。
隣の人がスムーズに使っているからといって、それが自分にフィットするとは限りません。
また、以前に効いたからといって今回も効き目があるとは限りません。
何故ならば、その時その人によって「今」囚われれいることは千差万別だからです。
そのためにこそ、自分の今の囚われを、恥じず隠さず明らかにすることが大事になるわけです。
そして繰り返しになりますが、そのためには、「囚われ」という概念自体をネガティヴに捉えないことが非常に重要であるということです。
そんなガチガチに構えるようなことではありません。
人は、囚われるものです。
もとより、囚われるのが人間。
だったらカッコつけて意地など張らなくてもいいではありませんか。
使えるモンは何でも使わしてもらいましょう。
私たちは苦しむためにツアーに参加したわけではないのです。
これからも色々な方便をお伝えしていきますが、合うものもあれば、合わないものもあると思います。
また他の場所でも、様々な方便を目にされることでしょう。
そんな時には、ピンと来たことだけお試しで、ピンと来ないものはスルーです。
そこは、もとより方便なのですから、割り切りが大事です。
気楽にポンポン使い捨てていきましょう。
とにかくラク~になれば、オールOKなのです。
そして、最後に一つだけネタばらしを。
方便というのは、実は信条や信念などと同じものです。
「嘘も方便」という諺(ことわざ)のイメージから、仮初めのものとして、私たちが勝手に軽く感じているだけです。
つまり、信念・信条と方便との違いとは、言葉の違いではなく私たちがそこへ注ぐエネルギーの違いでしかないのです。
ですから、方便などと言っていますが、要は今つかんでいる信念・信条から、新たに方便という名の信念・信条へ、心の
向け先を転換させようとしてるだけの話です。
ポンポンと方便を替えていきましょうというのも、より縛りの薄い信条(方便)へ少しずつスライドしていきましょう
ということなのです。
ここまで読んでお気付きの通り、今シッカリ掴んで離せない信条・信念も、実際は「方便」の一つに過ぎないわけです。
「こうあるべきだ」「こうありたい」「こういうものだ」「こういうのはダメだ」「こういうのはイヤだ」
みんな、単なる方便です。
「廊下を走ってはいけません」「みなさん勉強しましょう」と同じ、単なる学級標語です。
私たちは、それを無意識の奥にまで刷り込んで、もはやそれと意識することなく当たり前に守っているのです。
驚くべき超優等生です。
有史以来、人類は、贖罪をおろそかにする怠け者であるとか、魂磨きもやらず不真面目だとか散々言われて来ましたが、
実際は学級標語を頑なに守る超マジメな頑張り屋だったということです。
結局すべて、逆の努力をやってしまっているのです。
カルマを清算しなくてはいけないとか、罪を償わなければいけないとか、魂を磨かなければいけないとか、そういう
義務感や頑張りが、信念信条に囚われる自我をかえって強化させてしまっているわけです。
まやかしに騙されてはいけません。
もう私たちは、とっくに小学校は卒業していますので、肩の荷を降ろしてラクチンになって大丈夫なのです。
廊下を走ってもOKですし、勉強をしなくても怒られやしません。
旅行に来てまでガリガリ真面目にやることは無いではないですか。
肩ひじ張って頑張ろうとせず、脱力系ゆるキャラくらいでちょうどイイのです。
まさに旅する時の、あの抜け具合です。
さて、今この瞬間の自分はどうでしょうか?
旅行の最中ですよ。
「・・・なんやそれ!マジメかー!」
ツッコミどころ満載なら、おめでとうございます!
自分でそれに気がつければ、あとはラクチンです。
では改めまして、方便でも何でも使えるものは使って、旅を普通にエンジョイしてまいりましょう(笑)
旅行に行こうか行くまいか思案するまでもなく、既にツアーの真っ最中です。
そこで旅のしおりとして、旅行に飽きてしまった時やシンドくなった時にはどうすればいいか、まずは心構えについて
触れていきたいと思います。
前回、大変な状況というのは、白黒と判断をつけることなく、大変さそのものを認めてしまうことでその先が拓けると
いう話をしました。
「確かに大変な状況だ。でも仕方ない。」
関西風に言えば、
「エライコッチャ~。でも、しゃーないな。」
これは本当に「今」をそのまま受け入れる極意です。
それにしても、標準語だとそこはかとない悲壮感が漂ってしまうところを、関西、まことにおそるべしです。
これならば、言ったそばからすでに大変では無くなってしまいます(笑)
とはいえ、本当に大変な渦中に居るときは、そんな軽口を叩く余裕も無いことでしょう。
こんなにツラくこんなに苦しいのに、目の前の状況を認めるなんて、最早そんな気力もガッツも無い、と。
でも、大丈夫です。
そのためにこそ「方便」というものがあります。
そして、方便というのは、その時その時の囚われに応じて使い捨てていくものですから、気にせずどんどん使って、どんどん替えて
いきましょう。
そんな軽くていいのでしょうか、と?
イイんです。
考えや信念がコロコロ変わるのはみっともないとか、そんなつまらない見栄は捨ててしまいましょう。
それを言うなら、一つのことにしがみつくことの方がよっぽど、みっともないわけです。
大切なのは、考え方そのものよりも、私たち自身がブレないことです。
一つの考え方に縛られて私たち自身が捻じ曲げられてしまうのでは、何のための人生、誰のための人生かということに
なってしまいます。
考え方や信念は、目の前をコロコロと通り過ぎていくもので、自分の中心に置くものではありません。
私たちは、信念にへばりつく存在ではありません。
私たちは、私たち自身なのです。
そして私たち自身とは、この天地宇宙のことです。
何かを中心に置かなければフワフワ流されるような危うい存在ではありません。
広大無辺な天地に溶け込む私たちは、流されたりするものではなく、初めから天地宇宙と一心同体です。
すべてを手放してしまっても全く何の心配もありません。
それを踏まえた上で、方便の話に移りたいと思います。
人によっても、またその時その状況によっても、囚われ方というのは千差万別です。
一方でまた、方便というものも星の数ほどあります。
それぞれの囚われに応じた方便を上手く使いこなしていくことで、その囚われをサラッと手放すことができます。
ですから、これもアリそれもアリ、という寛容さや柔軟さがとても大切となります。
またその際の注意ですが、「囚われ」という表現そのものがネガティヴな色合いに満ちていますので、この言葉を使う時
には頭をリセットしてニュートラルに接することをおすすめします。
そうでないと、いちいちこの言葉を目にするたびに「あぁ自分は囚われてるのか...」とか「いや自分はそこまで囚われて
いない」とか、どうでもいいところに意識が向いてしまって、ありのままの姿を素直に受け入れることができなくなって
しまいます。
囚われてたってイイのです。
そこで押し問答してしまうと、いつまでたっても先に進みません。
今の目的はただ、どれが一番効く方便なのかを知ることです。
適切な薬を処方するためには、まずは今の症状を正確に知るところから始まります。
もしそこで過度に自己批判したり、意地を張ってしまっては話を進めることができません。
足したり引いたりせず、ありのままの症状を知るためには、頭をニュートラルにする必要があるのです。
これは何げにとても大事なことですので、先ほどの部分について、もう一度詳しく見ていきたいと思います。
「囚われ」にせよ「煩悩」にせよ、言葉そのものに囚われてしまい、恥ずべきものとか忌み嫌うものだと考えてしまうと、
自分はそんなことは無いと目を閉じてしまったり、汚いものでも扱うように即刻切り捨てて意識から抹消させてしまおう
としてしまいます。
しかしそれでは拒絶の心でしかありません。
それも極めて強い拒絶です。
拒絶というのは我執であり囚われであり、天地との断絶です。
そしてさらに厄介なのが、拒絶すればするほどに、その対象をより一層強く意識することにもなってしまいます。
強く意識するということはエネルギーを注ぎ込むということです。
結果、イヤよイヤよも好きのうちとなって、払っても払ってもますます押し寄せてくることになってしまうわけです。
確かに、自分の恥部はあまり見たくないものです。
しかしだからと言って、悪者扱いして敵意をもって切り捨てるのでは何の解決にもなりません。
そうしたことが穢れを祓うだとか、御霊洗いであるなどと大いなる勘違いをしていると、結果はその真逆のことになって
しまいます。
ネガティヴな思いを無くして、ただ淡々とニュートラルに捉えることで、初めて直視することが出来るようになります。
決めつけを無くせば、もはやそれは恥部でも何でも無くなりますので、落ち着いてサラッと見ることが出来ます。
目に留めること、つまり「見て止める」ことが、「認める」ことになり、「明らかに見る」ことが「諦める」ことになります。
受け入れるためには、まずは直視すること、しかも苦もなく自然に見られることが第一歩となります。
もしそこで優等生的な自己非難がアレコレ頭に湧いてきても、サラリと無視です。
それこそ「そうは言っても、しゃーない」という達観です。
言葉というものは、どうしてもネガティヴやポジティブといった色が、元より付いてしまっています。
その色に流されてしまうと、知らないうちに心が翳ってしまい、ありのままに受け入れることが出来なくなってしまいます。
これはポジティブな言葉であっても同じです。
私たちは、常に今ここにあります。
言葉はサラサラと目の前を通り過ぎていくものです。
そこへのめり込んで言葉に溺れてしまうと、今ここを見失った漂流者となってしまいます。
しかし、一方で言葉そのものにはエネルギーが宿りますので、自分が常に今ここにあれば、それは驚くべき力となって
天地へと響き渡ります。
ただ、この話は今は混乱を招くだけなのでまたの機会にしたいと思います。
いずれにしても、言葉というのはあくまで道具に過ぎず、決して事象をありのままに表すものではありません。
「言葉が」その先を表してくれるのではなく、「私たちが」言葉を取っ掛かりとして、その先に広がる現実を見るのです。
言葉そのものにつまずいたり、流されたりせず、言葉は言葉に過ぎないとサラリと流しましょう。
そのように自分の中心に自分を置くことで、その先の景色をありのままに見ることが出来ます。
この世には、社会通念や常識、信念、思い込み、心グセなど色々な縛りがあります。
そうしたものに行き詰まった時には、転ばぬ先の杖として、方便をハシッと掴みます。
そして今の囚われを見極めることで、適切な方便を見つけることができます。
自分自身を明らかに見て止める時、あるいは方便というものを使う時、どんな時でも言葉には引っ張られずサラリと
接するのが大事です。
そうしないと、処方を間違えて余計おかしくなったり、薬そのものに溺れてしまったりしてしまいます。
隣の人がスムーズに使っているからといって、それが自分にフィットするとは限りません。
また、以前に効いたからといって今回も効き目があるとは限りません。
何故ならば、その時その人によって「今」囚われれいることは千差万別だからです。
そのためにこそ、自分の今の囚われを、恥じず隠さず明らかにすることが大事になるわけです。
そして繰り返しになりますが、そのためには、「囚われ」という概念自体をネガティヴに捉えないことが非常に重要であるということです。
そんなガチガチに構えるようなことではありません。
人は、囚われるものです。
もとより、囚われるのが人間。
だったらカッコつけて意地など張らなくてもいいではありませんか。
使えるモンは何でも使わしてもらいましょう。
私たちは苦しむためにツアーに参加したわけではないのです。
これからも色々な方便をお伝えしていきますが、合うものもあれば、合わないものもあると思います。
また他の場所でも、様々な方便を目にされることでしょう。
そんな時には、ピンと来たことだけお試しで、ピンと来ないものはスルーです。
そこは、もとより方便なのですから、割り切りが大事です。
気楽にポンポン使い捨てていきましょう。
とにかくラク~になれば、オールOKなのです。
そして、最後に一つだけネタばらしを。
方便というのは、実は信条や信念などと同じものです。
「嘘も方便」という諺(ことわざ)のイメージから、仮初めのものとして、私たちが勝手に軽く感じているだけです。
つまり、信念・信条と方便との違いとは、言葉の違いではなく私たちがそこへ注ぐエネルギーの違いでしかないのです。
ですから、方便などと言っていますが、要は今つかんでいる信念・信条から、新たに方便という名の信念・信条へ、心の
向け先を転換させようとしてるだけの話です。
ポンポンと方便を替えていきましょうというのも、より縛りの薄い信条(方便)へ少しずつスライドしていきましょう
ということなのです。
ここまで読んでお気付きの通り、今シッカリ掴んで離せない信条・信念も、実際は「方便」の一つに過ぎないわけです。
「こうあるべきだ」「こうありたい」「こういうものだ」「こういうのはダメだ」「こういうのはイヤだ」
みんな、単なる方便です。
「廊下を走ってはいけません」「みなさん勉強しましょう」と同じ、単なる学級標語です。
私たちは、それを無意識の奥にまで刷り込んで、もはやそれと意識することなく当たり前に守っているのです。
驚くべき超優等生です。
有史以来、人類は、贖罪をおろそかにする怠け者であるとか、魂磨きもやらず不真面目だとか散々言われて来ましたが、
実際は学級標語を頑なに守る超マジメな頑張り屋だったということです。
結局すべて、逆の努力をやってしまっているのです。
カルマを清算しなくてはいけないとか、罪を償わなければいけないとか、魂を磨かなければいけないとか、そういう
義務感や頑張りが、信念信条に囚われる自我をかえって強化させてしまっているわけです。
まやかしに騙されてはいけません。
もう私たちは、とっくに小学校は卒業していますので、肩の荷を降ろしてラクチンになって大丈夫なのです。
廊下を走ってもOKですし、勉強をしなくても怒られやしません。
旅行に来てまでガリガリ真面目にやることは無いではないですか。
肩ひじ張って頑張ろうとせず、脱力系ゆるキャラくらいでちょうどイイのです。
まさに旅する時の、あの抜け具合です。
さて、今この瞬間の自分はどうでしょうか?
旅行の最中ですよ。
「・・・なんやそれ!マジメかー!」
ツッコミどころ満載なら、おめでとうございます!
自分でそれに気がつければ、あとはラクチンです。
では改めまして、方便でも何でも使えるものは使って、旅を普通にエンジョイしてまいりましょう(笑)