前回、見知らぬ人の氣に乗っかった話をしました。
この時は他に何も考えず相手に心を向けていたため、雑念が無くなり、相手の氣と一つになったのでした。
体調不良の時というのは、身体が重くなり動くのがシンドくなります。
これは悪いところの治癒にエネルギーを集中させているからというのも理由の一つですが、あまり外をウロウロさせないためという理由もあります。
そのことは、狩猟生活をしていた原始時代や、それより遥か昔の弱肉強食の歴史を考えればすぐに分かります。
体調が悪いのに無理をすれば、それが命取りになるからです。
台風や豪雨が迫ってきている時に身体が重くなるのもこれと同じ理由と考えられます。
気圧が下がると身体が動かなくなるのは、巣の中でジッとさせるためのもの。
命を守るため、つまりは「大難を小難に済ませるため」の仕組みであるわけです。
気圧が下がろうが熱が出ようがピンピンしている人も居ますが、パフォーマンスは確実に落ちています。
ちょっとしたことで動けなくなる人はそうした人を羨ましく感じるかもしれませんが、人類の長い歴史で見たらどちらが強者か明らかです。
一人の生涯として見ても、それはウサギとカメの構図になっています。
病弱な人の方がかえって大病を患わず、太く長く人生を謳歌できるというのが事実です。
太くというのは、元気ならばすっ飛ばして見逃すような、表に見えない裏側や奥深く、スイも甘いも喜びも悲しみも、ユックリしっかり味わうと
いう意味です。
また、心が増長しそうな時に強制的に謙虚にさせてくれているという側面もあります。
決して非難したり卑下したり悲しんだりするものではないわけです。
体が弱っている時は、氣が小さくなり、感性も鈍くなります。
それは気持ちの問題などではなく、身を守るための自然法則です。
氣が広がったままだと体を動かせてしまう、だから氣を小さくさせて動きにくくしているわけです。
それを恨めしく思ったり残念に思うのは単なる身勝手ということになります。
体調を崩すと動けなくなるのは生存本能です。
どうしようもないことだと割り切るしかありません。
とはいえ、そんなことで休んでいられないのがサラリーマンのツライところです。
心にムチ打って無理に焚きつけてでも、重い足を前へ出さなくてはなりません。
弱っている時は、もうアドレナリンを出してガツガツ我利我利やるしかありません。
これは心身ともにダメージが残るので本当はやりたくないところですが、といって自然体が一番だなどと言って、勤めを放棄するのは本末転倒に
しかなりません。
自然体にあることが、この世に生まれた目的ではないからです。
誰しも自然体に在りたいと思うものです。
ただ、いつなんどきでも自然体のままで在りたいと思ってしまうと、それは執着になります。
自然体に囚われてしまった時点で、もはやそれは自然体ではないわけです。
災難に遭う時節には災難に遭うのがよく候
苦労に遭う時節には苦労に遭うのがよく候
その瞬間だけを見ると「良い・悪い」「嬉しい・ツラい」という価値判断が生じますが、一生涯あるいは生前・死後まで広がる流れを見たとき、
そんなものは一時的な感情で貼り付けたレッテルに過ぎないことが分かります。
どんな展開であろうと、その瞬間にとってベストのことが起きています。
そこに何かしらの意味づけをすること自体、囚われにしかなりません。
意味なんてものは死んでからしか分からない。
分からないことはサッサと手離すのみです。
「塞翁が馬」の故事を見てわかるように、結局は最後まで良かったのか悪かったのかなど分かりません。
なぜかと言えば、そもそも「良い・悪い」というもの自体がこの世に存在しないものだからです。
私たちが期間を区切って勝手につけたレッテル(意味づけ)ですから、見方を変えればコロコロ貼り変わるのが当然と言えます。
そんなものに終わりなど来るわけがない。
答えはただ一つ。
目の前の出来事に不要なものは何一つない。
すべてが完璧に展開されているということです。
与えられた役割として我利我利とアドレナリンでやらないといけない時はそれを忌み嫌わず、もうやってやるしかない。
意味づけなど必要ないのです。
但し、その場合であっても、健康な時と同じレベルのパフォーマンスを求めるのはやりすぎです。
本能として氣が小さくなっているのですから、その瞬間にとっての最大限までで諦めなくてはいけません。
それ以上を求めると、我利我利の度を超えて執着の蟻地獄に突入してしまいます。
不完全燃焼のオーバーヒートは心身を傷つけることになります。
昨日までの自分像に囚われてはいけません。
それを求めるのは過去への固執です。
今この瞬間の自分というのは、昨日と比較されるものではありません。
過去とは切り離れて存在しているのが、今、今、今です。
過去の良い状態を追うのは、今ココから離れて過去をさまよっている状態です。
今に心を向けるというのは、本当の意味で、今のベストを尽くすということに他なりません。
それがショボいかどうかなどというのは、過去との比較でしかないわけです。
たとえ昨日の半分でしかなくとも今この瞬間の100%が出来たなら、それはもうスーパーOKなのです。
そう思えた瞬間、おそらく心の囚われが溶け、身体中の力みがスーッと抜けていくことでしょう。
朝の信号で他人の氣に乗った時、必死のバッチの状態から一転して、気づけば他力の風に乗っていました。
健康な時の仕組みというのがいかに凄いものなのか、そして目に見えなくとも他力の風というのがこんなにも他人に影響を与えているのか、
身をもってそれを体感しました。
そうなると、その相手とは違う人に心を向けたらどうなるのか?という興味が湧いてきました。
まわりは通勤サラリーマンが沢山歩いています。
色々な氣の流れが飛び交っていました。
それはまさしく様々な色合いに溢れていました。
結果として、スピードが違いすぎる相手ではリニア状態にはなれませんでした。
相手があまり早すぎると合わない。
逆に、遅すぎても合わない。
ほぼ同じくらいか、やや早いくらいだと、まさに波に乗るようにスッとオートモードに入る。
これと似たような感覚は、ランニングをする人なら体験したことがあるかもしれません。
自力で走るよりも、誰かペースメーカーを見つけてそこに体を預けてしまったほうが驚くほど楽になるというアレです。
それは決して精神的なものではなく、肉体的・物理的な現象として起こるものです。
そしてその時というのは、アレコレ余計なことを考えず、丸ごと全部その人に預けてしまっているはずです。
フーッ、ひとまず、あとは頼んだ、と。
無意識にやっていることですが、実はそれは相手に100%心を開いていることを意味します。
雑念を挟まずに「相手に心を向ける」というのは、フルオープンで「相手に心を開く」ことと同じであるわけです。
一方、ペースメーカーを決めて心を向けてもしっくり来ない時もあります。
そうなると、あれこれ考えごとをしてしまい、なかなか結果に結びつかず悶々としていきます。
透明度が下がるとますます視界が狭まり、フルオープンの感覚は遠ざかっていきます。
そうやって焦りや失望を感じるほどに我利我利が増していきます。
一度こうなってしまうと、どうにもやりようがなくなります。
そうなった時は、もうサッサと諦め、心を切り替え「またの機会を待つ」しかありません。
何故その状態になったら万事休すなのかというと、失ったものを追い求めること自体が執着になってしまうからです。
つまり、青い鳥を追うこと自体が、濁りの原因になってしまっているということです。
だから、サッサと諦める。
ただ、諦めるにしても中途半端な諦めでは、また負のスパイラルが発動してそこから抜け出せなくなります。
中途半端なリセットでは永遠に解決しません。
「あわよくば」なんていうスケベ心は捨てる。
もう今日は日が悪いと諦めて、完全にリセットするしかないということです。
透明度の違いというのは、職場や家庭でも日々、見えない影響を与え合っています。
例えば、どちらか一方が「自分が自分が」とガツガツしていますと、もう一方はついていく気が失せます。
聞いているだけで疲れてしまうと心を閉ざすことにもなります。
心がセカセカしている、慌てている、アドレナリンMAXになっている、そんな人間の氣に乗っかりたいと思う人はいません。
逆に、普段から落ち着いた感じの人なら、こちらも警戒することなくリラックスできます。
自分がテンパっていたり怒ったりしていても、そんな人に話しかける時には、少しは氣を落ち着かせるものです。
相手も同じようにテンパっていたり怒っていれば自分の濁りも映らなくなりますが、相手が透明すぎるとこちらの濁りが際立っていきます。
濁りと濁りが重なっても、今さら濁りの存在をどうとも感じません。
しかし透明と濁りが重なると、両者いずれも、ありのままをハッキリくっきり意識することになります。
自分の姿が自分でクッキリ見えてしまう。
ましてや、それがカリカリとヒステリーになってる姿となると、これはもう穴があったら入りたい気持ちになります。
相手とあまりに熱量差があるとそのギャップによって、アレ?と我に返り、自分と相手の両方が見えてしまう。
それはまるで透明な水面に映った鏡のようです。
ただ恐ろしいことに、常日頃から熱くなっていたり落ち込んだりしてる人は、相手との熱量にギャップがあった場面でもそれに気が付けなくなります。
肌や心までどっぷり染み付いていると、脳はその色に毒されて他の色が見えなくなります。
我利我利していると、まわりが何も見えなくなっていく。
日頃からカリカリしたりクヨクヨしていると、まわりは真っ暗なのが当たり前になっていくということです。
日頃からおかしなテンション(高すぎるのも低すぎるのも)が常態化しないように心掛ける必要があります。
一方で、それが自分ではなく他人だった場合はどうでしょう。
相手が、聞く耳を持たないテンションにドップリ浸かっていると、丸っきり響かないものなのでしょうか。
そんなことはありません。
あらゆるものの底に広がっている潜在意識は、表層意識を凌駕します。
ほんの僅か、ほとんど分からない程度かもしれませんが、それでも確実に落ち着いた状態へと近づいていきます。
この世のあらゆるものは、より精妙な状態へと流れていきます。
高次元の存在に会うと振動数があがるというのはこの原理に因ります。
本人の意思や状態に関係なく、濁りは清きへ、粗きは微細へ、闇は光へ、引き寄せられていきます。
たとえ相手が熱量ギャップに気がつけなかったとしても、知らず知らずのうちに精妙な方へシンクロしていくということです。
身近な例でいえば、イライラしていても温泉に浸かっているといつの間にかフーッとなっています。
仕事でカリカリしていても山の空気を吸っているうちにスーッと無の状態になっています。
一人の心が淀みなく清らかな状態に広がっていますと、その水に浸かった人はフッとそれにシンクロしていきます。
私たちも天地宇宙も、もともとは透明度100%のスーパークリアな状態にあります。
だから、自分の本来の状態に触れれば、必ずそちらに引っ張られるのです。
我執を磨き落とした人に会うと落ち着いた心地になっていきますし、赤ん坊を前にすれば凶悪犯でも悪意が薄れていきます。
天地自然の深遠な広がりを前にしてイライラを捨てられない人など居ないのです。
今の私たちというのは清流を無理やり濁らせているようなものです。
本来の状態の方が圧倒的に優位なのは当然と言えます。
水が高きから低きに流れるように、氣も、粗い状態から精妙な方へと流れていきます。
落ち着いた雰囲気にシンクロしますと、フィルターの目がゆるみ、知らず知らずのうちにラクな状態へ成っていきます。
職場においてリーダー次第で場の空気が変わる、社員の働きも変わると言いますが、それは決して精神論などではなく、氣の原理に基づくペース
メイキングであるわけです。
そして、そこで重要となるのはそれを打算でやろうとしないことです。
その瞬間、全ては破綻します。
ついてこさせよう、ラクにしてあげよう、癒してあげよう、結果を残そう、認められよう、と考えた瞬間、たちまち透明度は失われます。
方向性がネガティヴだとかポジティブだとか、そんなことはもはや関係ないわけです。
自分では良かれと思ってやっても、何かを作為した時点で同じ穴のムジナとなります。
相手がどうなろうと、そんなことは関係ない。
リラックスしてニコニコゆったりしていれば、それでいい。
結果を求めた時点ですべてアウトなのです。
部下をグイグイ引っ張っていくタイプは信長型と言われますが、それは上司と部下のペースが近い時にしか成立しません。
高度成長期やバブルの頃は、社会の流れというものがありましたのでそれが成立していました。
しかし今は流れが違います。
大声でがなり立てて、ペースの違う相手に無理やりエンジンかけさせてもオーバーワークになるだけです。
繰り返しますが、昔は無理をしなくても元々ある程度エンジンのかかった状態にありました。
そこには時代の流れ、国の流れというものがあったわけです。
小中学の受験戦争でもスパルタ教育というのが流行ったくらいです。
地面そのものが結構なスピードで動いているような時代でした。
ですから上司からビシバシ尻を叩かれれば、頑張りようもあったということです。
しかし国全体からガツガツした雰囲気が抜け、落ち着いた雰囲気に成りますと、もうそのやり方は通用しなくなりました。
自ら喝を入れ、まわりを叱咤してガムシャラに走り出すのではなく、ごく自然な発露でスーッと行く。
それが今の時代の流れであり、天地のペースであるわけです。
信長型だとか家康型だとか、そもそも型なんてものは相手を無視した考えでしかありません。
たまたまハマることもあれば、逆効果なこともある。
「自分がどうしたい」というところからスタートした時点で、もうどれだけ頑張っても相手には伝わりません。
表層意識で相手はついてきてくれるかもしれませんが、深層意識では無反応に近い拒絶となります。
「相手がどうであるか」
場の流れは、それによって決まります。
そして「相手がどうあるか」は「こちらがどうあるか」つまりこちらの透明度によって大きく変わってきます。
「どうしたいか」ではなく「どう在るか」
こちらにわずかでも我執があれば相手は心を開かなくなります。
なにせその時の心は、相手に向かずに、自分に向いている状態なのですから、相手からすれば向かってこないものに心を開くはずがありません。
ですから、そこに何の作為も無いことが透明度そのものとなります。
作為というのは、心が自分に向いている状態です。
自然にやる。
ただそれだけです。
肝心なのは「起こり」。すなわちスタートです。
勘違いしやすいところですが、どの方向にスタートすれば正解というものではないということです。
自然にやろうというのは、すでに作為です。
作為を無くそうと考えた時点でそれは自分になっています。
ましてや、相手が心を開くようにしようなんていうのは言わずもがなです。
スタート(起こり)を自ら生じさせた時点ですべてパーになります。
これは決して哲学的な話でも禅問答でもありません。それらは言葉を使うから難解に思えるだけです。
私たちというのはもともと理屈の生き物ではなく、感覚の生き物です。
感覚で分かったことを言葉で説明したのが哲学や仏説ですから、感覚に耳を澄ませばほのかに聞こえて来るものがあります。
何事にも自然な流れというものがあります。
気合いを入れなくてもいい。
風や川のような自然な流れ。
始まりも終わりも存在しない。
初めから流れ流れている。
そこにはスタート(起こり)などありません。
私たちは、その流れ流れているところに、ただソッと浮かべるだけです。
天地自然は、始まりも終わりもなく流れ流れています。
それこそは最高のペースメーカーということです。
そして私たちは天地自然の一部です。
天地自然そのものです。
その流れは外にあるのではなく本来の私たちがそれそのものであるわけです。
深遠なる深さ、静けさ、落ち着きの世界へ耳を傾け、その流れに心を向ける。
そこに重なったならば、あとはおまかせです。
身体も心も驚くほどラクにスーッと行くことでしょう。
そこは平穏静寂でありながらとても優しく、温かく、澄み切った世界なのでありました。
(おしまい)
この時は他に何も考えず相手に心を向けていたため、雑念が無くなり、相手の氣と一つになったのでした。
体調不良の時というのは、身体が重くなり動くのがシンドくなります。
これは悪いところの治癒にエネルギーを集中させているからというのも理由の一つですが、あまり外をウロウロさせないためという理由もあります。
そのことは、狩猟生活をしていた原始時代や、それより遥か昔の弱肉強食の歴史を考えればすぐに分かります。
体調が悪いのに無理をすれば、それが命取りになるからです。
台風や豪雨が迫ってきている時に身体が重くなるのもこれと同じ理由と考えられます。
気圧が下がると身体が動かなくなるのは、巣の中でジッとさせるためのもの。
命を守るため、つまりは「大難を小難に済ませるため」の仕組みであるわけです。
気圧が下がろうが熱が出ようがピンピンしている人も居ますが、パフォーマンスは確実に落ちています。
ちょっとしたことで動けなくなる人はそうした人を羨ましく感じるかもしれませんが、人類の長い歴史で見たらどちらが強者か明らかです。
一人の生涯として見ても、それはウサギとカメの構図になっています。
病弱な人の方がかえって大病を患わず、太く長く人生を謳歌できるというのが事実です。
太くというのは、元気ならばすっ飛ばして見逃すような、表に見えない裏側や奥深く、スイも甘いも喜びも悲しみも、ユックリしっかり味わうと
いう意味です。
また、心が増長しそうな時に強制的に謙虚にさせてくれているという側面もあります。
決して非難したり卑下したり悲しんだりするものではないわけです。
体が弱っている時は、氣が小さくなり、感性も鈍くなります。
それは気持ちの問題などではなく、身を守るための自然法則です。
氣が広がったままだと体を動かせてしまう、だから氣を小さくさせて動きにくくしているわけです。
それを恨めしく思ったり残念に思うのは単なる身勝手ということになります。
体調を崩すと動けなくなるのは生存本能です。
どうしようもないことだと割り切るしかありません。
とはいえ、そんなことで休んでいられないのがサラリーマンのツライところです。
心にムチ打って無理に焚きつけてでも、重い足を前へ出さなくてはなりません。
弱っている時は、もうアドレナリンを出してガツガツ我利我利やるしかありません。
これは心身ともにダメージが残るので本当はやりたくないところですが、といって自然体が一番だなどと言って、勤めを放棄するのは本末転倒に
しかなりません。
自然体にあることが、この世に生まれた目的ではないからです。
誰しも自然体に在りたいと思うものです。
ただ、いつなんどきでも自然体のままで在りたいと思ってしまうと、それは執着になります。
自然体に囚われてしまった時点で、もはやそれは自然体ではないわけです。
災難に遭う時節には災難に遭うのがよく候
苦労に遭う時節には苦労に遭うのがよく候
その瞬間だけを見ると「良い・悪い」「嬉しい・ツラい」という価値判断が生じますが、一生涯あるいは生前・死後まで広がる流れを見たとき、
そんなものは一時的な感情で貼り付けたレッテルに過ぎないことが分かります。
どんな展開であろうと、その瞬間にとってベストのことが起きています。
そこに何かしらの意味づけをすること自体、囚われにしかなりません。
意味なんてものは死んでからしか分からない。
分からないことはサッサと手離すのみです。
「塞翁が馬」の故事を見てわかるように、結局は最後まで良かったのか悪かったのかなど分かりません。
なぜかと言えば、そもそも「良い・悪い」というもの自体がこの世に存在しないものだからです。
私たちが期間を区切って勝手につけたレッテル(意味づけ)ですから、見方を変えればコロコロ貼り変わるのが当然と言えます。
そんなものに終わりなど来るわけがない。
答えはただ一つ。
目の前の出来事に不要なものは何一つない。
すべてが完璧に展開されているということです。
与えられた役割として我利我利とアドレナリンでやらないといけない時はそれを忌み嫌わず、もうやってやるしかない。
意味づけなど必要ないのです。
但し、その場合であっても、健康な時と同じレベルのパフォーマンスを求めるのはやりすぎです。
本能として氣が小さくなっているのですから、その瞬間にとっての最大限までで諦めなくてはいけません。
それ以上を求めると、我利我利の度を超えて執着の蟻地獄に突入してしまいます。
不完全燃焼のオーバーヒートは心身を傷つけることになります。
昨日までの自分像に囚われてはいけません。
それを求めるのは過去への固執です。
今この瞬間の自分というのは、昨日と比較されるものではありません。
過去とは切り離れて存在しているのが、今、今、今です。
過去の良い状態を追うのは、今ココから離れて過去をさまよっている状態です。
今に心を向けるというのは、本当の意味で、今のベストを尽くすということに他なりません。
それがショボいかどうかなどというのは、過去との比較でしかないわけです。
たとえ昨日の半分でしかなくとも今この瞬間の100%が出来たなら、それはもうスーパーOKなのです。
そう思えた瞬間、おそらく心の囚われが溶け、身体中の力みがスーッと抜けていくことでしょう。
朝の信号で他人の氣に乗った時、必死のバッチの状態から一転して、気づけば他力の風に乗っていました。
健康な時の仕組みというのがいかに凄いものなのか、そして目に見えなくとも他力の風というのがこんなにも他人に影響を与えているのか、
身をもってそれを体感しました。
そうなると、その相手とは違う人に心を向けたらどうなるのか?という興味が湧いてきました。
まわりは通勤サラリーマンが沢山歩いています。
色々な氣の流れが飛び交っていました。
それはまさしく様々な色合いに溢れていました。
結果として、スピードが違いすぎる相手ではリニア状態にはなれませんでした。
相手があまり早すぎると合わない。
逆に、遅すぎても合わない。
ほぼ同じくらいか、やや早いくらいだと、まさに波に乗るようにスッとオートモードに入る。
これと似たような感覚は、ランニングをする人なら体験したことがあるかもしれません。
自力で走るよりも、誰かペースメーカーを見つけてそこに体を預けてしまったほうが驚くほど楽になるというアレです。
それは決して精神的なものではなく、肉体的・物理的な現象として起こるものです。
そしてその時というのは、アレコレ余計なことを考えず、丸ごと全部その人に預けてしまっているはずです。
フーッ、ひとまず、あとは頼んだ、と。
無意識にやっていることですが、実はそれは相手に100%心を開いていることを意味します。
雑念を挟まずに「相手に心を向ける」というのは、フルオープンで「相手に心を開く」ことと同じであるわけです。
一方、ペースメーカーを決めて心を向けてもしっくり来ない時もあります。
そうなると、あれこれ考えごとをしてしまい、なかなか結果に結びつかず悶々としていきます。
透明度が下がるとますます視界が狭まり、フルオープンの感覚は遠ざかっていきます。
そうやって焦りや失望を感じるほどに我利我利が増していきます。
一度こうなってしまうと、どうにもやりようがなくなります。
そうなった時は、もうサッサと諦め、心を切り替え「またの機会を待つ」しかありません。
何故その状態になったら万事休すなのかというと、失ったものを追い求めること自体が執着になってしまうからです。
つまり、青い鳥を追うこと自体が、濁りの原因になってしまっているということです。
だから、サッサと諦める。
ただ、諦めるにしても中途半端な諦めでは、また負のスパイラルが発動してそこから抜け出せなくなります。
中途半端なリセットでは永遠に解決しません。
「あわよくば」なんていうスケベ心は捨てる。
もう今日は日が悪いと諦めて、完全にリセットするしかないということです。
透明度の違いというのは、職場や家庭でも日々、見えない影響を与え合っています。
例えば、どちらか一方が「自分が自分が」とガツガツしていますと、もう一方はついていく気が失せます。
聞いているだけで疲れてしまうと心を閉ざすことにもなります。
心がセカセカしている、慌てている、アドレナリンMAXになっている、そんな人間の氣に乗っかりたいと思う人はいません。
逆に、普段から落ち着いた感じの人なら、こちらも警戒することなくリラックスできます。
自分がテンパっていたり怒ったりしていても、そんな人に話しかける時には、少しは氣を落ち着かせるものです。
相手も同じようにテンパっていたり怒っていれば自分の濁りも映らなくなりますが、相手が透明すぎるとこちらの濁りが際立っていきます。
濁りと濁りが重なっても、今さら濁りの存在をどうとも感じません。
しかし透明と濁りが重なると、両者いずれも、ありのままをハッキリくっきり意識することになります。
自分の姿が自分でクッキリ見えてしまう。
ましてや、それがカリカリとヒステリーになってる姿となると、これはもう穴があったら入りたい気持ちになります。
相手とあまりに熱量差があるとそのギャップによって、アレ?と我に返り、自分と相手の両方が見えてしまう。
それはまるで透明な水面に映った鏡のようです。
ただ恐ろしいことに、常日頃から熱くなっていたり落ち込んだりしてる人は、相手との熱量にギャップがあった場面でもそれに気が付けなくなります。
肌や心までどっぷり染み付いていると、脳はその色に毒されて他の色が見えなくなります。
我利我利していると、まわりが何も見えなくなっていく。
日頃からカリカリしたりクヨクヨしていると、まわりは真っ暗なのが当たり前になっていくということです。
日頃からおかしなテンション(高すぎるのも低すぎるのも)が常態化しないように心掛ける必要があります。
一方で、それが自分ではなく他人だった場合はどうでしょう。
相手が、聞く耳を持たないテンションにドップリ浸かっていると、丸っきり響かないものなのでしょうか。
そんなことはありません。
あらゆるものの底に広がっている潜在意識は、表層意識を凌駕します。
ほんの僅か、ほとんど分からない程度かもしれませんが、それでも確実に落ち着いた状態へと近づいていきます。
この世のあらゆるものは、より精妙な状態へと流れていきます。
高次元の存在に会うと振動数があがるというのはこの原理に因ります。
本人の意思や状態に関係なく、濁りは清きへ、粗きは微細へ、闇は光へ、引き寄せられていきます。
たとえ相手が熱量ギャップに気がつけなかったとしても、知らず知らずのうちに精妙な方へシンクロしていくということです。
身近な例でいえば、イライラしていても温泉に浸かっているといつの間にかフーッとなっています。
仕事でカリカリしていても山の空気を吸っているうちにスーッと無の状態になっています。
一人の心が淀みなく清らかな状態に広がっていますと、その水に浸かった人はフッとそれにシンクロしていきます。
私たちも天地宇宙も、もともとは透明度100%のスーパークリアな状態にあります。
だから、自分の本来の状態に触れれば、必ずそちらに引っ張られるのです。
我執を磨き落とした人に会うと落ち着いた心地になっていきますし、赤ん坊を前にすれば凶悪犯でも悪意が薄れていきます。
天地自然の深遠な広がりを前にしてイライラを捨てられない人など居ないのです。
今の私たちというのは清流を無理やり濁らせているようなものです。
本来の状態の方が圧倒的に優位なのは当然と言えます。
水が高きから低きに流れるように、氣も、粗い状態から精妙な方へと流れていきます。
落ち着いた雰囲気にシンクロしますと、フィルターの目がゆるみ、知らず知らずのうちにラクな状態へ成っていきます。
職場においてリーダー次第で場の空気が変わる、社員の働きも変わると言いますが、それは決して精神論などではなく、氣の原理に基づくペース
メイキングであるわけです。
そして、そこで重要となるのはそれを打算でやろうとしないことです。
その瞬間、全ては破綻します。
ついてこさせよう、ラクにしてあげよう、癒してあげよう、結果を残そう、認められよう、と考えた瞬間、たちまち透明度は失われます。
方向性がネガティヴだとかポジティブだとか、そんなことはもはや関係ないわけです。
自分では良かれと思ってやっても、何かを作為した時点で同じ穴のムジナとなります。
相手がどうなろうと、そんなことは関係ない。
リラックスしてニコニコゆったりしていれば、それでいい。
結果を求めた時点ですべてアウトなのです。
部下をグイグイ引っ張っていくタイプは信長型と言われますが、それは上司と部下のペースが近い時にしか成立しません。
高度成長期やバブルの頃は、社会の流れというものがありましたのでそれが成立していました。
しかし今は流れが違います。
大声でがなり立てて、ペースの違う相手に無理やりエンジンかけさせてもオーバーワークになるだけです。
繰り返しますが、昔は無理をしなくても元々ある程度エンジンのかかった状態にありました。
そこには時代の流れ、国の流れというものがあったわけです。
小中学の受験戦争でもスパルタ教育というのが流行ったくらいです。
地面そのものが結構なスピードで動いているような時代でした。
ですから上司からビシバシ尻を叩かれれば、頑張りようもあったということです。
しかし国全体からガツガツした雰囲気が抜け、落ち着いた雰囲気に成りますと、もうそのやり方は通用しなくなりました。
自ら喝を入れ、まわりを叱咤してガムシャラに走り出すのではなく、ごく自然な発露でスーッと行く。
それが今の時代の流れであり、天地のペースであるわけです。
信長型だとか家康型だとか、そもそも型なんてものは相手を無視した考えでしかありません。
たまたまハマることもあれば、逆効果なこともある。
「自分がどうしたい」というところからスタートした時点で、もうどれだけ頑張っても相手には伝わりません。
表層意識で相手はついてきてくれるかもしれませんが、深層意識では無反応に近い拒絶となります。
「相手がどうであるか」
場の流れは、それによって決まります。
そして「相手がどうあるか」は「こちらがどうあるか」つまりこちらの透明度によって大きく変わってきます。
「どうしたいか」ではなく「どう在るか」
こちらにわずかでも我執があれば相手は心を開かなくなります。
なにせその時の心は、相手に向かずに、自分に向いている状態なのですから、相手からすれば向かってこないものに心を開くはずがありません。
ですから、そこに何の作為も無いことが透明度そのものとなります。
作為というのは、心が自分に向いている状態です。
自然にやる。
ただそれだけです。
肝心なのは「起こり」。すなわちスタートです。
勘違いしやすいところですが、どの方向にスタートすれば正解というものではないということです。
自然にやろうというのは、すでに作為です。
作為を無くそうと考えた時点でそれは自分になっています。
ましてや、相手が心を開くようにしようなんていうのは言わずもがなです。
スタート(起こり)を自ら生じさせた時点ですべてパーになります。
これは決して哲学的な話でも禅問答でもありません。それらは言葉を使うから難解に思えるだけです。
私たちというのはもともと理屈の生き物ではなく、感覚の生き物です。
感覚で分かったことを言葉で説明したのが哲学や仏説ですから、感覚に耳を澄ませばほのかに聞こえて来るものがあります。
何事にも自然な流れというものがあります。
気合いを入れなくてもいい。
風や川のような自然な流れ。
始まりも終わりも存在しない。
初めから流れ流れている。
そこにはスタート(起こり)などありません。
私たちは、その流れ流れているところに、ただソッと浮かべるだけです。
天地自然は、始まりも終わりもなく流れ流れています。
それこそは最高のペースメーカーということです。
そして私たちは天地自然の一部です。
天地自然そのものです。
その流れは外にあるのではなく本来の私たちがそれそのものであるわけです。
深遠なる深さ、静けさ、落ち着きの世界へ耳を傾け、その流れに心を向ける。
そこに重なったならば、あとはおまかせです。
身体も心も驚くほどラクにスーッと行くことでしょう。
そこは平穏静寂でありながらとても優しく、温かく、澄み切った世界なのでありました。
(おしまい)