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母なる大地 日本

2017-10-02 23:30:52 | 国を常しえに立てます
前回は中央構造線の話をしましたが、そもそも中央構造線はどのようにして出来たのでしょうか。

実はそれをひも解くことは、そのまま私たちの故郷・日本の誕生を辿ることにもなります。

少し堅い話になりますが出来るだけ簡潔にまとめたいと思います。




今から1億年以上前、ユーラシア大陸の東端に私たちの故郷の一部がありました。
一方、残り半分はイザナギプレートに乗ってはるばる南方から北上して来ました。

何千万年もかけて半分ずつが重なり合い、陰陽合一の結果、日本列島の土台が出来あがりました。
このときの合一の名残りが中央構造線であったわけです。

断層というと大地が裂けて出来たものを想像しますが、中央構造線は実はとんでもないスケールの、地球規模の大流動の末に生まれたものなの
でした。




中央構造線こそは、日本誕生の御印(みしるし)そのものだと言えます。

母なる大地が生まれた証(あかし)、それがこうして私たちの目の前に残っているということです。

そしてまたイザナギプレートとはよくぞ名付けたもので、そのプレートは日本列島を作り終わると消失したのでした。
(「イザナギ・イザナミの国生み」参照)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/国産み




母なる大地誕生のドラマはまだまだ続きます。

その頃、東日本はまだ一面の海でした。
それが西日本の陰陽(山陰・山陽)が合一した頃、突如、太平洋プレートが日本列島側へ向きを変えて流れ出し、その沈み込みにより東日本
の海底が次々と隆起をし出したのでした。

こうして日本列島の原型が出そろったわけですが、その当時はまだ大陸のすぐ近くにあって、さらに今とは逆向きに日本海側へカーブした形を
していました。

それはまさに胎児が背中を丸めているような格好だったと言えます。

それが驚くべきことに、北米プレートとフィリピン海プレートの移動により「西日本は右回りに45°」「東日本は左回りに20°」の大回転を
始めました。


母なる大地は大陸から離れ、ついに今のようにクッと背筋の通った堂々たる日本列島と成ったのでした。

この大反転の名残りが、富山から富士川を貫くフォッサマグナだと言われています。




これほど広大な面積の土地が、しかもそれぞれ逆回転の大移動をしたという信じがたい事実。
つまりそこにもまた右回りと左回りの陰陽の理が働いたのでありました。

この大反転はわずか一千万年の期間で完了しました。
これを神業と言わずして何と言うかです。

私たちの故郷、母なる大地は、たまたま出来たのではなく、全方位から天地宇宙のエネルギーが流れ込むようにして、これでもかと言わんばかり
のおかげさまによって生まれました。

この大地はとてつもないスケールの奇跡の結晶として今ココに在るわけです。

わずか数千万年のうちに起きたこの大変動を考えれば、今の中央構造線で起きる揺れを忌み嫌うのはどうなのかという気持ちになってきます。

むしろその振動によって、数千万年にわたって繰り広げられた日本(=地球)のダイナミックな生命の脈動が、今でもココに流れていることを
強く感じられるのではないかと思います。

そうした数千万年を知らずして今しか見えていないと、私たちはわずかな振動も恐怖に感じてしまいます。
地球や大地を無視して自分しか見えていないと、今の生活が当たり前になってしまい、わずかな変化も嫌なことに思えてしまうものです。

しかしこうして広く大きく物事を見てみますと、そこには全く違った景色が広がってまいります。

大断層こそは天地に流れる生命の現われであり、母なる大地に脈々と流れている生命の証(あかし)であるわけです。
そのエネルギーあればこそ、この大地は大地と成り、私たちはここに生まれ出ることができ、そして今こうして生きることができている。


まさしく感謝そのものではないでしょうか。

そしてそこに流れるエネルギーとは、まさに私たちに流れる生命と同じものであります。
だからこそ、私たちが感謝を思うことはそのまま大地の詰まりを通すことにも成るのでありました。

「大断層」=「地震」=「命の危険」「生活の危機」
そう考えてしまうと怖くなったり忌み嫌ってしまいます。

「大断層」=「生命の息吹き」=「母なる大地のルーツ」「生かして頂いている感謝」
このように考えれば、たちまちイメージが変わるはずです。

それでもなお、死の恐怖が頭にチラつくのであればこのように考えてみます。

私たちは、自分の力だけで生まれ出たのでもなければ、自分の力だけで生きているのでもありません。
私たちは母なる大地あればこそこの地に生まれることができ、そしてこうして生きてこれた。

生まれた瞬間から死ぬ時まで、私たちは母なる天地に包まれ、その腕の中に抱かれ続けています。
そして万が一にも天地によって召されたとしても、天命というものを考えるならば何も理不尽なことはなく、事件や事故で亡くなるよりも
ずっと納得がいきます。
病気で死ぬよりも遥かに自然死です。

命を奪われるのではなく、天から召されるのです。

自分の人生というものを「自分でコントロールして全てを握っている」と思うから、自分以外の存在によって運命づけられることに無念さと
怒りと恐怖を感じてしまうのです。

自我の我執に囚われることは多くの苦悩を生む全ての原因です。
思うようにならない。ままならない。
そんなのは当たり前すぎる話です。

もとより私たちは、私たちを大きく包む数多くのお陰さまによって生かして頂いています。
私たちの自我の思うままに成るはずがないし、そんな安っぽいものではないわけです。

私たちというのは天地を繋ぐ柱です。
そこに流れる「無限の8の字」の中心です。
自分ひとり独立した存在などではないのです。

自分だけで生きているなどトンデモナイ。
私たちは、生かし、生かされています。

大地に思いを向けるのは私たちにしか出来ないことであり、だからこそこうして我執に振り回されてしまっている現実に気がつくことが本当に
重要になるのです。

自分のことしか見えていないと、恐怖は恐怖のまま増幅されていきます。
明日のことはどうでもいい。
私たちが今この瞬間ココに生きていられているという、ただそのことに思いを馳せたときにフッと心に浮かぶものがあるでしょう。

それを大切にすくいとって、素直に表にあらわすということです。




いま一度、大地のことへ話を戻します。

凝りや緊張が取れて流れが良くなりましても、少しずつ凝りや緊張は積もっていくものです。
ですから大地への感謝というのは、いつでも大切な意味を持ちます。

私たちも疲れや凝りが溜まり、知らず知らずのうちに体の節々が緊張していくものです。
たまに伸びやアクビをしたり、適度に体を動かしたりします。

この大地もまた同じです。

詰まり詰まって大きな塊にならないためには私たちの思いがとても重要になります。
天地人の感謝の流れというのは、私たちを生かすものであり、天地を生かすものです。

特別なことではなく、ごく普通の状態にあるだけでいい。
我欲に染められず、ホットケの境地にあればいい。

地震は嫌だから抑えようとか、生活を壊されたくないから祓おうとか、そういう我執は一切無用。
大断層だから怖いとか嫌だとかいう我心は逆効果でしかありません。

地震が起きるとか起きないとか、そういう些細な次元の思いは捨て去る。
そうではなくて、ただただ、私たちが存在できている事実、そこにある母なる大地の存在、そうしたことに対しての純粋な思いだけでいい。

そうして私たち一人一人が、何かの縁で降り立った土地で、あぁ気持ちがいいなぁと喜びに浸る。ありがたいなぁと素直に思う。

それが幾千万の柱と成って、天地宇宙へサラサラと流れていくことになるでしょう。





(おわり)

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