今日は伊勢に向かっています。
何も考えずに今日というスケジュールになりましたが、昨晩、旅の準備をしていた時にフト切符の日付が目に入った瞬間、表現できないものが
ドーンと滝のように怒涛の勢いで流れ込んで来ました。
最初は心落ち着けようと踏ん張ったものの、次々と押し寄せる勢いで胸が張り裂けそうになり、堪えきれず涙が止まらなくなりました。
それは毛穴という毛穴から、あるいは口を開ければその口から、全身のすべてから溢れ出るような、歯を食いしばっていなければ嗚咽が
漏れてしまいそうなほどのエネルギーでした。
個というものはなく、幾万もの微細な集まりが、途轍もなく大きなところから流れ込んでくるような感じでした。
そして今朝は4時半に起こされました。
本当は12時すぎの出発予定でしたので、溜まった寝不足を解消するつもりだったのですが、全身の細胞が完全に覚醒してしまったので
否応もなく諦めて早出することにしました。
でも何故、今日という日がお伊勢さんなのか。
東北と伊勢の繋がりというものは、普通に過ごしているとなかなか見あたりません。
ドーンというのが来なければ、完全に切り離しているものでした。
こうなのだろうと思うことはいくつかあります。
とはいえ、そのボンヤリしたものをハッキリさせようというのは余計なことにしかなりません。
ボンヤリしたものはボンヤリしたまま放っといたほうがいい。
私たち一人一人は代表でもあり、代わり身でもあり、私たち自身でもあります。
手を合わせて一つになった時、何かが起きているわけです。
これを人間考えでアレだコレだと判断すると、事実が歪められて、本来なすべきことも為されなくなります。
私たちの自我が見える範囲というのは極めて限定的なものでしかありません。
そして、元の本の素のところから、コレだというものが溢れて来たとしても、そこについてアレコレ考えてしまうと、その瞬間ミソがついて
しまい、たちまち限定的な決めつけと化してしまいます。
世に言う、自分がドコそこへ行ったから地震がおさまったとか、天にあがったとか、護られたとか、本来そういうことは無いものでしょう。
確かにその人も、そうした一人なのでしょうが、たった一人でそのようなことは無いと思います。
それぞれ自分で気がついていなくとも、何人もの人たちが様々にそのようなことをやっています。
数多くの光がポッと灯る。
薄明かりのもと、幾万ものローソクにやわらかなともし火が揺らぐ。
それぞれにお詣りし、あるいはその地を訪れ、手を合わせ、ただ心を鎮めています。
何か大掛かりな神事をやるわけではありません。
静かに落ち着きクリアになっていることが何よりも大切となります。
ですから、地震をおさめるとか、天にあげるとか、そういう思いを持っているほうが、かえって波立ち、濁り、塩梅が良く無いわけです。
自分で何も分かっていない状態が最上と思います。
見えない世界のほうが何となく凄いように思いがちですが、どちらが上も下もありません。
実際、霊体では限界がありますが、この肉体あればこそ出来ることも山ほどあります。
結界の張られている場所や、エネルギーの強い場所、伊勢神宮のような御神域(まさしく神の領域)など、普通の霊体では入れない場所でも
それとは次元の異なるこの肉体であれば関係ないわけです。
肉体は壁を通り抜けられませんが、空間は通り抜けられます。
霊体ではその逆のことが起きているということです。
ただ、それは違う場面、たとえば危ない場所であっても平気でスイスイ入れてしまうことも意味しますので、注意は必要です。
封じている場所や結界には絶対近づいてはいけません。
とにかくこの世に生きている私たちだからこそ出来ることがあるということです。
「意味」などというものは必要のないことですし、余計な味噌をつけるだけで何の役にもたちません。
分からないことは、分からなくてもいいことです。
ただ楽しみ、喜んでいればいい。
私たちは誰もがみんな天地を貫く柱です。
それは、お役目でもおつとめでもなく、営みと言えるものではないかと思います。
何も考えずに今日というスケジュールになりましたが、昨晩、旅の準備をしていた時にフト切符の日付が目に入った瞬間、表現できないものが
ドーンと滝のように怒涛の勢いで流れ込んで来ました。
最初は心落ち着けようと踏ん張ったものの、次々と押し寄せる勢いで胸が張り裂けそうになり、堪えきれず涙が止まらなくなりました。
それは毛穴という毛穴から、あるいは口を開ければその口から、全身のすべてから溢れ出るような、歯を食いしばっていなければ嗚咽が
漏れてしまいそうなほどのエネルギーでした。
個というものはなく、幾万もの微細な集まりが、途轍もなく大きなところから流れ込んでくるような感じでした。
そして今朝は4時半に起こされました。
本当は12時すぎの出発予定でしたので、溜まった寝不足を解消するつもりだったのですが、全身の細胞が完全に覚醒してしまったので
否応もなく諦めて早出することにしました。
でも何故、今日という日がお伊勢さんなのか。
東北と伊勢の繋がりというものは、普通に過ごしているとなかなか見あたりません。
ドーンというのが来なければ、完全に切り離しているものでした。
こうなのだろうと思うことはいくつかあります。
とはいえ、そのボンヤリしたものをハッキリさせようというのは余計なことにしかなりません。
ボンヤリしたものはボンヤリしたまま放っといたほうがいい。
私たち一人一人は代表でもあり、代わり身でもあり、私たち自身でもあります。
手を合わせて一つになった時、何かが起きているわけです。
これを人間考えでアレだコレだと判断すると、事実が歪められて、本来なすべきことも為されなくなります。
私たちの自我が見える範囲というのは極めて限定的なものでしかありません。
そして、元の本の素のところから、コレだというものが溢れて来たとしても、そこについてアレコレ考えてしまうと、その瞬間ミソがついて
しまい、たちまち限定的な決めつけと化してしまいます。
世に言う、自分がドコそこへ行ったから地震がおさまったとか、天にあがったとか、護られたとか、本来そういうことは無いものでしょう。
確かにその人も、そうした一人なのでしょうが、たった一人でそのようなことは無いと思います。
それぞれ自分で気がついていなくとも、何人もの人たちが様々にそのようなことをやっています。
数多くの光がポッと灯る。
薄明かりのもと、幾万ものローソクにやわらかなともし火が揺らぐ。
それぞれにお詣りし、あるいはその地を訪れ、手を合わせ、ただ心を鎮めています。
何か大掛かりな神事をやるわけではありません。
静かに落ち着きクリアになっていることが何よりも大切となります。
ですから、地震をおさめるとか、天にあげるとか、そういう思いを持っているほうが、かえって波立ち、濁り、塩梅が良く無いわけです。
自分で何も分かっていない状態が最上と思います。
見えない世界のほうが何となく凄いように思いがちですが、どちらが上も下もありません。
実際、霊体では限界がありますが、この肉体あればこそ出来ることも山ほどあります。
結界の張られている場所や、エネルギーの強い場所、伊勢神宮のような御神域(まさしく神の領域)など、普通の霊体では入れない場所でも
それとは次元の異なるこの肉体であれば関係ないわけです。
肉体は壁を通り抜けられませんが、空間は通り抜けられます。
霊体ではその逆のことが起きているということです。
ただ、それは違う場面、たとえば危ない場所であっても平気でスイスイ入れてしまうことも意味しますので、注意は必要です。
封じている場所や結界には絶対近づいてはいけません。
とにかくこの世に生きている私たちだからこそ出来ることがあるということです。
「意味」などというものは必要のないことですし、余計な味噌をつけるだけで何の役にもたちません。
分からないことは、分からなくてもいいことです。
ただ楽しみ、喜んでいればいい。
私たちは誰もがみんな天地を貫く柱です。
それは、お役目でもおつとめでもなく、営みと言えるものではないかと思います。