これでいいのダ

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強い人にはNOしたい

2017-10-08 22:11:07 | 国を常しえに立てます
何でもスマートにやる人を目にした時、素敵だなぁ凄いなぁと感じる人もいれば、なんだコンチクショウと思う人もいます。

相手は落ち着いて話しているのに、何だか分からないモヤモヤが胸に湧き上がる。
それが何なのか分からないまま、スッキリしたいがために相手のアラ探しをして非難する。
すると何故か、先ほどのモヤモヤは消えてラクになる…

スッキリしたいという思いは、もともとは清らかになりたいという衝動によるものです。
なんだかモヤモヤして汚れたような感じがするのは全く正しい反応と言えます。
しかしそれを取り除くための行動を間違えてしまうと、清らかさとは程遠い結果と成ってしまいます。

そのモヤモヤというのは、比較意識と優劣意識そのものであり、劣等感に他なりません。

相手はそんなつもりカケラも無いのに、そのサクサクこなしている姿を見ると、何だか自分が劣っているような気がしてくる。何とは無しに
悲しさや空しさ、腹立たしさを感じる。

これは自我の作り出す一人相撲に他なりません。
それが汚れの正体です。

ですからモヤモヤとした思いを取り除こうとするならば、まずはこの我執を白日のもとに晒して丸裸にしてしまうのが正しいわけです。

しかし悶々やモヤモヤの正体が分からないまま、とにかく早くスッキリさせたいと思ってしまうと、それこそ自我の思うツボになってしまいます。

相手にケチをつけることで自分よりも下に落とす。すると劣等感は解消されますのでモヤモヤは消えます。
しかしこんなことは禊祓いでも何でも無い。
逆に悶々やモヤモヤの発生源にますますエネルギーを注いで肥大させることにしかなっていません。

それでもモヤモヤが消えるという成功体験がありますと、このパターンが条件反射として刷り込まれていくことになります。
そうしてそれ以降、無思考のままそれが繰り返される。

強い人には無条件にNOしたい衝動というのは、そういうことです。

たとえば子供の時は、親や家族、学校などに守られているのが当たり前の状態にあります。
義務教育という言葉もありますので、まわりが自分を生かそうとするのは「当たり前」だと勘違いしがちです。

そうなると、どうなるか。

自分が一番でないと嫌だ、自分の思いどおりにならないと嫌だと自我の肥大が止まらなくなる。
そうしてワガママや反抗が始まります。

子供が親に激しく当たるのは、甘え以外の何ものでもありません。
それは自分は守られているのが当たり前だという慢心であり増長であったわけです。

それが成長していくにつれて、私たちは自分の足で生きていかなくてはならないようになります。
まわりが自分のために何かするのが当たり前ではなくなると、自我の肥大はおさまり、謙虚に成っていきます。

ところが、大人になってもなお自分が守られているのが当たり前のままに自己肥大のおさまらないケースがあります。

家族が自分を守っているのは当たり前。自分のことを立てるのは当たり前。
国が自分を守っているのは当たり前。経済が安定しているのは当たり前。
天地が自分を守っているのは当たり前。空気があり水があり食べ物があり、乱れず安定しているのは当たり前…

天地は何も語らず私たちを護り、生かしています。
国家も何も語らず私たちを護り、生かしています。

そうした事実に目をふさぎ、目の前の平和を当たり前のものとする。

そうして天地に向かって感謝の気持ちを忘れる。
国家に対しても感謝の気持ちを忘れる。

あまつさえ、その大恩人に向かって非難や文句ばかりを叫び、自らのモヤモヤを解消して満足する。

これが、親に楯突くワガママな子供で無くして何なのか。

絶対的に守られていること、生かしてもらっていることを本当に知らず、知ろうとせず、あるいはそれを知った上で逆に相手の足元を見て、
甘え、幼稚園程度の知識を振りかざして自分が賢人でもあるような増長満で大恩人を貶める。

平穏で平和な日々に感謝をすることなく、その偉大さ、ありがたさに気がつくこともなく、訳のわからない上っ面だけ派手なお囃子(おはやし)
に新鮮味を感じてフラフラと流される。

日々の食事に感謝せず、流行りの外食に浮かれる。

これが子供で無くして何なのか。

いま私たちの頭の中に存在する理屈も、心の中にあるプライドも、何もかもすべては自我を正当化させるための虚構に過ぎません。

唯一確実なこと、それは、
今ココに存在している。
今こうして生かしてもらっている。


その事実に勝るものなど何一つ無いのです。

生かしてもらえていることに感謝あるのみ。
それこそがモヤモヤも悶々もサラサラと流すことになります。

今ココに在ればこそ、私たちは天地の中心となります。
今ココに在るというのは、私たちが感謝に包まれていることに他なりません。

家族しかり、国家しかり。
身のまわりのお陰さまに気づかずして、天地のお陰さまに感謝できるはずがありません。

今回の選挙もまた同じです。

フワフワと浮ついた心を鎮めて、心から感謝を思えば、自ずと感じるものがあるでしょう。

たかが国政選挙と思うなかれ。

私たちは天地の中心です。
すべては繋がっています。

身のまわりの些細なお陰さまに気がつけるかどうか。それが日本の未来、世界の未来、そして天地の未来へと繋がっていきます。

少しでも何かを感じたならば、投票という実行動を刻む。
それが、私たちがこの世に生きている証となります。




(「この世に清き一票を」2017-4-24)
http://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/9cbbe4ee71bc3ab46c0487cb9839a26a



(おわり)





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