今週は群馬の草津温泉に行ってまいりました。
そもそも温泉というのは、大地のエネルギーそのものだと言えます。
温泉郷ともなると、町全体が地面から湧きあがるエネルギーに満ち溢れています。
こうした場所は、地球のマグマのエネルギーがほんの少しだけ地表付近に洩れ出した所です。
私たちは大地のエネルギーのおすそわけを頂いているわけです。
自噴泉というのは、こうしたエネルギーが地面の下には収まりきれずに溢れ出たものですから、
強大なエネルギーを帯びています。
逆に、掘削して地下から引き揚げた温泉というのは、いわば注射器を刺して吸い上げているような
ものですから、どうしても質の異なるものとなってしまいます。
また、草津のようにあちらこちらに入浴場があると分かりやすいのですが、同じ源泉でも距離と
時間によって質が変わってきます。
当然のことながら、源泉に近ければ近いほど、あるいはお湯が新しければ新しいほどそのエネル
ギーはクリアかつストレートになります。
ちょうど炭酸水の封を開けると、時間とともに気が抜けていくようなものです。
あるいは、入浴者が多いほどエネルギーが薄まっていくということもあります。
人がエネルギーを吸い取るわけではなく、人の帯びたエネルギーを中和して行くことで薄まって
いくと言った方が近いと思います。
とは言いながら、鮮度が良ければいいのかというと、それも自分の体調によりけりで、エネル
ギーの強いお湯というのはそれだけガツンと身体に来るものです。
体が弱っている時や、氣の流れが滞っている時に、いきなり強いエネルギーを受けてしまうと
逆に大きなダメージとなる場合もあります。
どこが一番ということではなく、その時々の自分に合ったお湯が一番ということです。
そうしてまた、どのようなタイプの泉質が好きか、人それぞれの好みにも分かれていくわけです。
人間はもともと、外から内へ、内から外へと天地のエネルギーが流れることで生かされています。
様々な夾雑物で濁ってくると、その流れが滞り気味になってしまいます。
本来は、自分で清らかにしていくのがベストですが、大地の力を借りてそれを整えていこうという
のが湯治であるわけです。
大地のエネルギーに人智を超えた畏れ多さと有り難さを感じればこそ、古い湯治場では昔から
その縁起として役行者や空海、聖徳太子、日本武尊などの名前が出てきます。
温泉が効く理由については、物理的な有効成分があげられますが、実際は目に見えないエネルギー
が大きな要因を成しているのは、日本人ならば感覚的に分かることだと思います。
実際、大した有効成分が入っていない無色透明の単純泉であっても、いいお湯はガツンと来るものです。
何だか分からなくとも間違いなくそこにある有り難さ。
こうした誰の目にも明らかなエネルギーに触れると、人間はどんな偏屈者であっても真っさらな
素の状態に戻ります。
草津のような酸性の強い温泉地では鉄が錆びてしまうということで、江戸の昔から刀などお腰の
物は全て預けさせられて、武士も庶民も関係なく一人の人間として丸裸で風呂に浸かりました。
衣服だけでなく世間的なしがらみも脱がされて、肩の荷をおろし心も素っ裸になって、大地のエネル
ギーに身を預けたわけです。
身分制度が無くなった現代であっても、相変わらず人は世間に縛られて暮らしていますが、やはり
温泉に来ると同じように素っ裸になります。
目に見えないおかげさまのエネルギーを前にした時、人は素の状態に立ち返って我が身を預けたく
なる衝動に駆られます。
それは田舎の実家に帰った時の感覚と同じものと言えるかもしれません。
故郷の温もりに身をゆだねて、生まれながらの状態に戻る。
誰に気兼ねすることもなく、窮屈な服装もかしこまった肩書きも、あらゆる装飾を脱ぎ下ろして
フーッと息をつく、絶対的な安心感に包まれるわけです。
それこそが、母なる天地の懐にいだかれる魂本来の状態ということです。
自噴の掛け流しの温泉であれば何も言うことはありません。
そこに浸かると、誰もが無の境地になっていきます。
最初のうちは様々な雑念が湧いてきますが、気持ち良さに心を乗せていくうちに、湯に溶け出す
ようにして何も無くなった状態になっていきます。
ボーッとした状態とも言えます。
これが無我の状態です。
無我というと、ピシッと背筋を伸ばして我欲や執着を昇華させたのち辿り着く境地のように思い
がちですが、実際は単に我を忘れた状態であるわけです。
もちろん、自らを律してピシッとやった先にも同じものが現れるでしょう。
しかしそれはそれとして、私たちは我執を手離し、周囲と溶け合って天地と一体となる状態を身近で
経験しているということです。
日本人はお風呂好きで有名ですが、結局は、日々この無我の境地を知らず知らずのうちに求めている
ということになります。
湯船に浸かって頭をリセットすると言いますが、スバリその表現の通りなわけです。
そして温泉の場合は、そこに大地のエネルギーも加わるということです。
湯に入った時に賑やかだった人たちも、10分もすれば自ずと静かになっていきます。
我執が湯に溶け出していくからです。
また、温泉帰りに電車の中で元気に騒いでいた人たちも、ものの10分もするとスヤスヤ寝息を
立てて天地と一体となっていきます。
先ほどまでうるさかったのが、フト気づくと全く気配が無くなり、振り返るとスヤスヤ寝ている。
気配がないというのは、そこに存在感がないということです。
存在感がないというのは、内外の隔たりが無くなり、天地の風が通り抜け、透明な状態になって
いるということです。
以前、箱根の山深い日帰り温泉に行った時の話ですが、そこの休憩室はフルオープンで緑の風が吹き
抜ける造りになっていました。
湯あがりにその休憩室へ行くと、30人以上もの人たちが足の踏み場もない状態で横にくつろいで
いました。
最初はあちこちがザワザワしていたのですが、20~30分もするとスーッと気配が消えていきました。
そこには30人もの人が居るとは思えないほど、透明で爽やかな風が流れていました。
誰もがスヤスヤと気持ち良く眠って、不思議なことにイビキひとつ聞こえません。
その風景と感覚に触れた時「眠っていればみんないい子」という言葉がスッと湧き上がってきました。
眠れ良いコ、ズンチャッチャ...と旋律が流れてくるようでした。
いい年の大人ばかりが寝ていたのに、それが赤児と重なったわけです。
この感覚というのは、果たして誰のものだったのでしょう。
私たちは、素直に寝ている時、誰もが天地と一体になっているのだと思います。
逆に、寝ている時にも日中のしがらみを手放せずにいると、天地とツーツーには成りきれないと
いうことになります。
当たり前のことですが、具合が悪い時は寝るに限ります。
それ以上に、重い病状になると意識不明に陥ることすらあります。
もしかするとその時、私たちは天地と一つになって懸命の自己治癒を図っているのかもしれません。
寝ても起きても、我が勝り過ぎると、天地との間に壁が生じてしまいます。
温泉地に来てもガツガツしたままだと、どんなに素晴らしいお湯であっても半減かもしれません。
湯に浸かり、すべてを湯に預けてしまことは、天地に浸かり、すべてを天地に預けきっていること
に通じます。
日ごろからその感覚にあるのが理想なのでしょうが、せめてその時だけでもその感覚に浸れるのは
本当にありがたいことです。
温泉のエネルギーとは、大地のマグマのエネルギーです。
日本列島ならではの大地の息吹きであるわけです。
それは時に大災害をもたらすこともあります。
決して綺麗事で割り切れるものではないでしょう。
それでも、今はただ、純粋に大地へ感謝の思いを置いていきたいと思います。
そうした様々な思いとともに、次は、鹿島と香取へと感謝を伝えに行きたいと思います。