これでいいのダ

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旅はおまかせにかぎります (日蔭のかがやき 2)

2016-09-02 20:33:41 | 日本を旅する
知らない場所というのは実際にそこへ行ってみないと本当に分からないものです。

信州戸隠というのは奥山のイメージが強いので、遥か遠くにあって、近寄りがたい雰囲気に満ちているものだと思い込んで
いました。
なので観光客にしても年配者やハイカーばかりと思っていましたら、学生さんや女性グループがやたら多くてビックリして
しまいました。

若者や女性というのは肌感に鋭いというか、感性が澄んでいますので、理屈でなく感じるままに素直に受け入れていきます。

10年ひと昔と言いますか、もちろん戸隠にも以前から人は来ていたのでしょうが、やはりこの10年20年で世の中が
ガラリと変わったというか、神仏や目に見えない世界というものが人知れず日常にグッと近づいているんだなぁと改めて
感じました。


振り返ってみますと、バブルの崩壊という強制的な目覚ましによって長らく我々を覆ってきた殻が叩き割られ、イケイケで
強いんだと思い込んでいた自分たちが一皮むけば実は何の強さも無かったと知りまして、剥き出しとなった心はその反動から
物質依存をやめて精神依存へと大きく舵を切ったのでした。

そうしたところで書籍やテレビで心や魂のことが発信されるようになり、鎧を失い剥き身に怯える私たちの心は解きほぐされ
ていったわけですが、今度はそれが行き過ぎて、地に足つかぬほどに現実から離れてフワフワしてしまい、それにリンクする
ように政治の方でも上っ面のおためごかし公約にすっかり酔わされてしまったまさにその時、東日本大震災というこの世のもの
とは思えぬ出来事が、まさしくこの世の現実に起きました。

生死の現実というものが、脳を飛び越えて肌に直に突き刺さるに及び、私たちの深層意識にかかったモヤモヤは吹き払われ、
先の物質社会・個人主義という幻想とともに、その逆の精神世界・虚無という夢うつつの幻想からも目覚めさせられ、「今ここ」
の私たちへと至っているのでありました。


何より大きいのは、これほどの揺り返しにも関わらず、誰もその急激な変化を感じることなく、気づかぬまま二つの世界
(もともと二つに分かれてなど居ないわけですが)を、今こうして本来あるべき姿へとオーバーラップさせているという
事実です。

何事もそうですが、意識的に「こうあるべきだ」「こうでなくてはいけない」と自我の思い強く作ろうとしてしまうと、まさに
建屋の上屋だけに手間をかけることになり、肝心の土台はモロくなってしまうものです。

それが、今この時というのは、あちらもこちらも自然に溶け合うようになっている。
精神世界の人たちが、かくあるべきと叫んで引っ張るようなものではなく、むしろ現実世界の方からそのように生っていった。
頭ではなく肌で感じるリアルな感覚によって、誰もがそれを素直に受け入れていったわけです。

決して、私たちの観念という壁が薄まってあちらとの断絶が埋まっていったということではなく、先に世界が溶け合った結果
として、いつの間にか私たちの観念の方が変わっていったということです。
それと自覚することもなく。

日本というのは、まさしく天に護られた国と言えるのではないでしょうか。


さて、話を戻したいと思います。

戸隠までの道のりですが、想像したよりずっと近いのにビックリしました。
長野までは新幹線を使えば一息で、そこからは車で一時間もかからない近さでした。

過去に記憶していた空気感は人里離れて幾山も越えたようなものだったので、まさかこれほど人里に近いとは思わず、色々な
意味で驚くばかりでした。

ただ、その肌記憶は間違ってはいませんで、善光寺の裏手の急坂を越えて緑の中を走っているうちにみるみる空気が変わって
いき、皮膚の毛穴がキュッと締まっていくのを感じました。

目に映る景色は徐々に空気が濃くなっていき、それはご神域というよりも眷属の森にでも入っていくような感じでした。

湖畔に広がる水上レジャー施設がありましたが、よくぞこのような空気の中に作るものだと思っていましたら、次の瞬間、
明るいポップな文字で『小天狗の森』と書かれた看板が目に飛び込んできたものですから、思わず「そのまんまやん!」と
ツッコまずにはいられませんでした。

そんなこんなでソロソロと息をひそめるようにして道を進んでいきますと、まもなく戸隠山の中社に到着しました。

麓から順に、宝光社→中社→奥社と祀られていますので、正しくは宝光社が先なのだろうと思いつつも、流れのまんま中社
から参拝することにしました。


こういう時は脳は完全リセット、何も考えないようにして、為るに任せきれば上手いこと軌道修正されるものです。

大抵は、自分で考えたのでは絶対に組めないような隙の無いスケジュールに為っていきます。
これは誰であっても、1ミリも疑わなければ、そのようになります。
思い込みでも、決めつけでも、知ったふうでもなく、理屈からしてもそうなるしかないわけです。

疑わないというのは、他の選択肢とは比較しないことです。

ああすれば良かったか、こうすれば良かったか、という疑念もさることながら、「もしこうしてなかったらもっとヒドイ目に
遭ってからこれで良かったのダ」などと屁理屈で今を正当化しようとする行為もNGでしょう。
何故なら、疑いを否定しようとする作業自体が、すでに疑いを前提としているものだからです。

たとえばレストランに行くにしても、その店なら必ず最高のものが味わえると知っていれば、あとは何も考えずただ味わう
だけの自分になっているはずです。
他の店のことなど思い浮かべもしません。

さらに言えば、あとで旅を振り返ってそれらを過大評価するのも良くないということになります。
自分は凄い!この旅は凄い!などという自己満足は我心にエネルギーを注ぐだけですから、そんなことをしていては小さな
籠の中でグルグルまわる結果にしかなりません。

また、旅の最中に「このさき神懸かってくれるか」と過剰に期待するのも同じことです。
それは我心、我欲であり、今ここから離れた比較でしかないからです。

ほっとけばそうなるということを知っていれば、自然にそう為るに決まっているわけです。

そして、これらはどれも人生にも当てはまることだと言えます。

そのへんの旅と長い人生とは違うなんてことは全く無いわけで、白黒ジャッジせずに任せきっていれば思いもかけない展開に
なるのはみんな同じであるということです。

以前にも書きましたように、この世にはツアー旅行に来ているのですから、それこそ全く同じ話にならない方が不自然である
わけです。

ただ頭でそうと分かっていても、普通の旅行と違ってこの旅はあまりにも長すぎるために、旅の最中にあれこれ雑念が湧いて
きてしまいます。
そして致命的とも言える、疑いという思いも湧いてきてしまいます。
そうして他との比較や、疑念の打ち消しという堂々巡りが始まってしまいますと、まさに籠の中の回転はしごになってしまう
ということです。

旅をして思うのは、他の人と同じような決まりきったコースを味わうよりも、多種多様にアレンジされたオリジナルコースを
選んだ方が何ともいえない喜びを感じるということです。
何が良いということではなく、それこそ言葉にならない満足感といえるでしょう。

ということは、まさしく人生にしても同じということになるのではないでしょうか。

つまり「他の人とは違う」というその特別さが格別であるということです。
あいつはあいつ、自分は自分。
他人と同じでないことを嘆くというのは、旅に置き換えてみると何とも滑稽なことに思えてくるはずです。

余談が長くなってしまいました。
戸隠の話に戻りたいと思います。


さて、そんなこんなで中社に到着しますと、そこは先ほどにも増して空間的な重さがありまして、言うなれば飽和蒸気の中で
皮膚呼吸が出来ないような感じになっていました。

その時は、それはそれ、まぁそういうものだろうと淡々と過ごしていたのですが、驚いたのはそのあとでした。

境内に入る手前に立派な御手水がありました。
そこで普段どおりに手と口をすすいだ瞬間、それまでの重苦しさが全て綺麗さっぱり無くなったのでした。

もちろん他の場面であればそういうことがあっても驚くことはなかったのですが、この時は予期せぬ出来事だったわけです。

というのも、自分が良くない状態にあったり、場が澱んでいたり、あるいは何かが憑いてしまっている時であれば、塩や水で
浄めればスーッとリセットされますから、そういう時には砂漠のオアシスのように「水、水」と思うところですが、この時は
その一帯が普通ではない場所という理由での重々しさでしたので、そもそもの前提からして全く違いました。

それはこれまでも修験道や古神道の修行場でも感じてきた空気感でして、もちろん澱んでいたり穢れているものではなく、
むしろ真逆の空気というか、この世とは少しズレた時相と言えるものでした。
ですから玉置山にせよ、大峰山にせよ、金峰山にせよ、御手水をしても禊ぎをしてもそれは変わることのないものだった
わけです。

それがこの時は手と口をすすいだ瞬間、ガラリと一変して普通の感覚に戻ったのでした。

まさかの展開に一瞬キョトンとしてしまいましたが、柱に貼られた紙が目に入るとすぐさま氷解しました。
そこには「戸隠山から湧いた御神水」と書いてありました。

つまりそれは禊ぎというだけではなく、直会(なおらい)、すなわちあちらの世界のものを食すという行為でもあったのでした。

異質の重さがスーッと無くなったのは、御神水に触れたことで瞬時にそちらの感覚に同化したということだったのではないかと
思いました。


(つづく)





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