先日、テレビを観ていたら、鹿児島の人気旅館を特集していました。
古民家を移築し、食事も雰囲気も素朴で懐かしい田舎暮らしを再現したものでした。
料金はかなり高めの設定でしたが、引っ切りなしに客が訪れているといいます。
この宿の御主人は昭和の高度成長期の時代、新婚旅行や家族旅行向けの旅館を作ろうとしたものの
失敗してしまい、最後は旅館でストリップショーをするほど苦しい状況に陥ってしまいました。
さすがにこのままではいけないと、毎月のように東京へ出て、何でもいいからヒントとなるものが
無いか探しまわったそうです。
そんなある時、銀座のド真ん中で大量の菜の花を飾っている場面に遭遇しました。
こんな一等地に何故?と驚くとともに、ある確信に至りました。
コンクリートに囲まれた都会の人たちは田舎の景色を求めていると。
まだバブルが訪れるずっと前、昭和の成長期のことです。
その時のヒントが、今日の成功のもとになったのでした。
これを見て、いくつか思ったことがあります。
この御主人は、ドン底の暮らしの中にあっても必死に足掻いて、何か突破口を見つけようとしました。
その何かというのは、自分の意識の外にあるものだったわけです。
目の前のことを一所懸命やるというのは絶対に必要なことです。
そこから逃げようする気持ちは、さらなる悪循環を生んでしまいます。
とはいえ、目の前のこと「だけに」囚われて、それしか見えなくなってしまうのは逆にマズイ状態です。
この紙一重の差が、天地ほどの違いになってしまいます。
仕事をやってる時にはそれに100%集中します。
一心不乱にそれだけをやり続けているのならば、執着や囚われが薄まっていき必ず視界が晴れて
いきます。
しかし、同じ働くにしても、目の前のことにせかせか追われてアップアップしながらこなす日々になって
しまうと、視界は何も変わらず、終わりなき回転ハシゴを駆け続けることになってしまいます。
なぜならそれは自分の中心から外れて、目先のことだけに囚われている状態だからです。
そのようになってしまった時は、仕事の合間に、自分の心を広げるしかありません。
そうやって視界を広げることが、多くの可能性を生むことになります。
このとき、心の切り替えがとても大事になってきます。
後ろ髪を引かれず、切り替えた先に対して100%集中ということです。
仕事をしている時には、夢や希望は忘れて、いまの仕事に集中です。
たとえそれが酷い仕事であっても雑念を挟まず、今は淡々とそれだけに集中です。
そして仕事が一息ついて心を広げる時には、仕事のことは完全に忘れ、いま心を向けていることに
集中です。
この宿屋の御主人は、その切り替えがしっかり出来ていたのだと思います。
それが出来た理由の一つは「人はそれぞれ求めているものが違う」という実体験にあったようです。
実際、マトモな旅館とは言えないような経営をしていた時も、それなりに繁盛していたのではないか
と思います。
つまり、世の中にはそれを求めている人が居るということを知ったはずです。
ただ、それが自分の描いていたものとは違ったわけです。
そうして、自分の描いたものを求める人は必ず居るという確信が芽生え、同時に自分の常識や思い
込みの中にはそれを繋ぐ答えがない、逆に言えば、その外にこそ答えがあると気づいたのではないか
と思うのです。
それが、自分の固定観念の外へと目を向ける原動力、毎月東京へ出てあれこれ探し回る原動力に
なったのではないでしょうか。
純粋なバイタリティーは、あとからついてくるものです。
我(が)を出してガツガツやるものではありません。
それではわざわざ我執を重ねてしまうだけです。
ポイントは、自分の視野以外の景色を確信することです。
つまり、囚われや固定観念を捨て去る潔さです。
観えない景色を確信しているからこそ、それを観たいと思うわけです。
自らにムチ打って頑張るのではなく、自然に動いている状態です。
それは『青い鳥』のように、何かに囚われてフワフワ浮き足だってアチコチ探し回るのとは違います。
自分の中心を保ったまま我執が薄まっていくことで、霧が晴れて景色が観えるようになるのです。
そうでなければ、都会の菜の花も見逃してしまったかもしれませんし、あるいは、それを見ても
それ以上何も観えてこなかったかもしれません。
またこの御主人は、子どもの遊び心のままに建物や敷地をデザインしていました。
まさにハックルベリーフィンの世界です。
儲けようとか、喜ばせようとか思う前に、とにかく自分が楽しむことに100%正直でした。
その純粋性が、さらに己の我執を薄めるもとになっていたわけです。
この人には、何にも囚われない晴れ渡った景色が観えているのかもしれません。
本当に、全ての要素を体現している方だなと思いました。
そして最後に、今風のホテルが流行ったり廃れたりすることを聞かれた時に「日本人は新しいものが
好きだから」とサラリと答えていたのが印象的でした。
それを聞いて、私の頭には伊勢の式年遷宮が浮かびました。
皮肉だったのか、色々な意味を含ませていたのか分かりませんが、核心をついた一言に感じました。
日本人は昔から、汚れたものやくたびれたものは、エネルギーが枯れていると見なしました。
近くにいるだけで、何となく自分もエネルギーが奪われてしまうように感じるわけです。
これは今も、どこか汚れた場所や、部屋のゴミ袋の中などを想像すれば分かる感覚だと思います。
一方、新しいものが放つ清々しさには生命力を感じ、自分の心もスッキリ清められて、何だか元気な
エネルギーをもらったように感じます。
新しく出来た観光スポットが、最初はピカピカに見えたのに、ほんの数年たっただけで新鮮味が薄れて
ボヤけて見えてしまうのは、必ずしも好奇心だけが理由ではないと思います。
また消費者が「生」という言葉に弱いのも、新鮮なものが放つエネルギーを知っていればこそ
それを想起させるイメージに惹かれているからではないでしょうか。
そしてこの「ケガレはエネルギーを奪い、清らかなものはエネルギーをくれる」という感覚が、実は
ピカピカの清潔好きという国民性の正体でもあるのではないかとも思っています。
ただ、ピカピカ好きだからといってコンクリート造りの豪勢なホテルを造っても、やはり月日とともに
くたびれてきてしまうものです。
新しいもの好きという一面だけを追ってしまうと、いつも新しくないといけなくなってしまいます。
それでは消費者も上っ面だけを追いかける心癖が強化されるだけですし、提供者もまたそのニーズに
追われることになってしまい、いつまでたってもイタチごっこです。
(ただ、消費経済はこの構図を確信犯的に作り出しています。囚われを強化させるのは罪ですし、
それではいつまでたってもどちらも救われません)
日本人が本当に好きなのは、単なる新しさではなく、新鮮な清々しさなのです。
つまり、そこから醸しだされる清らかな空気感であり、淀みのない爽やかさなのです。
ですから、そのもの自体が新しいか古いかは、二の次なのです。
新しいものは当然新鮮で清潔ですから、それで気持ちよく感じているだけであって、新鮮で清潔で
さえあれば、決して新しくなくても気持ちよさは感じるのです。
むしろベースの部分が馴染み深いものであるほうが、リラックスして心も細胞もフルオープンとなる
ため、幸福感は倍増するといえます。
この気持ち良さとは、自分の心が洗われている状態です。
澄んだ湖面を眺めるように、あるいは雪原の透き通った風を頬に受けるように、自分の内なる雑味が
霧散して、内外の壁がなくなって全身にエネルギーが吹き抜ける感じです。
一方で、古くから積み重ねられてきたものとは、研ぎ澄まされたオリジナリティ(独自性)の塊です。
ありふれた使い捨ての薄っぺらなハリボテとは違います。
そこに清潔さが加われば、私たち日本人はイチコロなのです。
それ自体がエネルギーに溢れ、それを観る者も心洗われてエネルギーが溢れだすのです。
伊勢神宮の式年遷宮とは、まさにそれらを兼ね備えているわけです。
冒頭の鹿児島の宿屋が人気なのは、もちろん故郷の景色にDNAや魂が喜んでいるからなのでしょうが、
それだけが理由ではないと思います。
それまで故郷の景色や田舎暮らしが古びれたものだと断じてきた思いこみや囚われが、無意識のうちに
取り払われ、本来の景色が観えるようになったということもあるのではないでしょうか。
そうした思いこみは、例えば昆布やカツオ節を使った日本料理をお手軽な調理と感じてしまうのに通じる
ものがあります。
実際は、ありふれた昆布やカツオ節の向こうにあるもの、それが出来あがるまでに積み重ねられた
過程こそが、全ての土台になっています。
つまり、ごくありふれた当たり前の景色に観える田舎や故郷というものは、何千年もの積み重ねの
結果であり、途轍もなくユニークで個性あふれるものなのです。
だから、手間のかかった味噌汁を飲んだ時の滋味と同じく、田舎の風景に触れると表現できない幸せ
を感じるのではないでしょうか。
実は、このユニークさこそが地域性の真髄です。
あまりにも身近すぎて、それがユニークであることを私たちは分からなくなっています。
そして、一見ユニークに観える都会の方が、逆に均一や画一の塊であるわけです。
その都会の薄っぺらい感性を地方に転嫁させようとするから、余計に地方再生がカラ回りしてしまう
のです。
見た目だけの箱モノばかりに金をかけてしまい、無用の長物と化した建物が数多くあるはずです。
都会から学ぶべきものは、発信の仕方、アピール方法や表現手段だけです。
地方には、もともと全てが揃っているのです。
独自性というユニークさは、多様性の核となります。
それが重厚さを醸し出していくことになるのです。
そして、長年にわたって積み重ねられたものというのは、すでにしっかりとした芯が通っています。
そのままで中心が定まっています。
ですから、あとは、観る者の思いこみや囚われを取り払って、いかに焦点を合わせられるかだけなのです。
そのためにまずは、観る者の緊張をほぐすなめの清潔感が第一となります。
そして、心の焦点を定めるためのワンポイントがそれに続きます。
テーマやキャッチコピー、注釈や表現をあとづけしていく作業です。
それは本当にピンポイントで十分です。
あくまで風味付けのスパイスなので、ほんの少しでいいのです。
目を開かせるための方便のようなものです。
ですから、それ一色に染めようとするのは愚の骨頂です。
鮮度に欠ける都会ではそういうことも必要かもしれませんが、地方は素材勝負です。
清潔感と馴染み深さが安心感に繋がり、我執が祓われて視界がクリアになれば、観る者はそこにキレを
感じるようになります。
それが「おしゃれ」や「クール」という感覚なのです。
日本は、文明開化とともに藩の壁が取り払われ、交通の発展とともに地方の壁が無くなりました。
そうして日本全国の志向性が一つになったわけですが、同時にそれは均一化でもあったわけです。
みんなの目は都会へ向き、都会の雰囲気というものが新鮮さや洗練さの指標となり、対して
地方の雰囲気は野暮ったいものとなってしまいました。
そうして地方の雰囲気が何となく劣るものとなってしまい、地方の伝統も文化も隅っこへと追い
やられてしまいました。
しかし、それがむしろ全くの逆であったのは、これまで書いたとおりです。
今では、都会のあちこちに昭和や大正の民家カフェやレトロな店舗が増え、地方では古民家や
田園風景が旅行客で賑わっています。
これまで古物や田舎が古びれているから野暮ったく感じていたのではなく、清らかな溌剌とした
エネルギーがなくなっていたから魅力を感じなかっただけなのです。
清潔さが伴えば一転して、洗練された美しさと心の安らぎをそこに観るのです。
この「田舎から都会」「都会から田舎」という一連の流れは、多くのことを示唆しています。
一つの空気感を目指そうとすると全体が薄ボケてしまって、一極集中と地方衰退を招いてしまいます。
つまり、均一性とは所詮は人間考えの偶像に過ぎず、人間の視野での価値判断がエネルギー欠乏を
招いてしまうわけでます。
多様性こそが天地自然の姿であり、その自然の姿が再生を可能とし、再生が新鮮なエネルギーを生み、
天地の隅々までくまなくそのエネルギーに溢れ、全体が調和してさらに大きなエネルギーとなるのです。
世界国家という言葉がありますが、おそらくそんなことが起きてしまったら、わずか数ヶ国の都会国家
と、その他大多数の田舎国家が生まれてしまい、その格差は果てしなく開いていくことになるでしょう。
田舎国家はますます廃れ、都会国家へ全てが流入していくことになるわけです。
日本も幕藩体制だった頃は、とても素晴らしい地方文化が花開いていました。
この平成の世に残る地方文化も、すべては江戸時代までに積み上げられた名残りでしかないのです。
貯金を切り崩しているだけということです。
いま、世界の各国が彩り豊かな文化と新鮮なエネルギーに溢れていられるのは、幕藩体制のように
独自性を保たれているからなのです。
美しい調和とは、その前提に多様性があります。
高価なヴァイオリンを100本集めるよりも、多彩な楽器を10種類揃えた方が遥かに重厚なハーモニー
を生むことでしょう。
そして様々な楽器の良さというものは、他の楽器の存在があればこそ引き立つのです。
多様性とは、一つ一つが異なる独自性を確立してユニークであるということなのです。
お花畑の世界市民も、平等主義の学校教育も、まったくこれに逆行するものです。
「競争をなくして平等にする」というのは、本質から目をそらさせるものです。
競争というものは、結果として必ず発生するものです。
自然界にあるかぎり必ず起きるものを否定することはナンセンスです。
本当に非難されるべきは「比較」という固定観念です。
比較判断こそを捨て去るべきなのです。
それは順位を付けないとか、全員一位だとか、そういうことではありません。
競争というものが自然発生的であるように、順位や差というものも結果として必ず発生するものです。
そうしたことは隠さず明らかにさせた上で、どっちがいい悪いという優劣意識や損得勘定に心を奪われ
ない指導をすればいいのです。
一つ一つ違っているのが当たり前なのです。
差というのは、そういうことです。
まわりと違うのが自然なことであり、それに価値判断をつけることが不自然なことなのです。
その差を隠したり、あるいは強調したりせず、そのままで受け入れるだけのことです。
競争にしろ平等にしろ、あえて論点をズラすことによって、わざと解決を遠ざけているとしか思えません。
そしてそうした比較や価値判断こそが、多様性を受け入れられない心を作り出してしまっています。
長いものに巻かれるのが安全という感覚は、学校教育で強化されています。
自分が他人と異なると不安になるというのは、多様性そのものを許容できていないことを意味して
います。
他人と自分がズレている時に強烈な違和感を覚える。それをそのまま流せない。
そうなると、他人を排除するか、自分が居なくなるか、あるいは自分か他人のどちらか一方を他方に
無理やり合わせさせるか、そのどれかになります。
これは移民国家の抱える問題そのものです。
そして異国間の紛争の原因でもあるわけです。
私たちは一人一人が違って当たり前で、違うからこそみんな存在しているのです。
みんな似たような生き方をするのならば、こんなに人類がいる意味がありませんし、そもそも生まれて
きていません。
私たちの体にしても、それぞれの器官が全く異なる機能を果たしているからこそ、全体が当たり前に
調和しています。
私たちは、もっと自由に生きられるはずなのです。
自由に、活発に、自分の楽しいように振る舞っていいのです。
人と違うことが当たり前ですし、そのために存在しているのです。
人の目を気にして本心を曲げるなどナンセンスですし、逆に、他人のことにイライラするのもナンセンス
なのです。
といって社会調和を乱したり、仕事もせずチャランポランにやっていいということではありません。
田舎や地方の話でも触れたように、過去から積み重ねられた当たり前の姿がそのベースにあるのです。
私たちでいえば家庭や社会がそれですし、仕事や家事といった日々の生活がそれです。
それらをベースとした上で、多様性を花開かせれば、新鮮で溌剌としたエネルギーが溢れ出るのです。
決して、くたびれさせたり、古びれさせたりしないということです。
私たちの、アカ抜けない平凡な日々というものは、いま日本が抱える田舎や地方の状況と同じかも
しれません。
私たちのこの日々も、この人生も、まさに故郷の街そのものということです。
そう考えて振り返りますと、色々なことが観えてくると思います。
私たちは自ら選んで、この街に生れてきました。
この街は、この街ならではの良さに溢れています。
どこか他の街に似せようなど、思うはずがありません。
それは都会の単一な景色とは違い、豊かな自然の色彩に溢れています。
森の風や土の匂い、鳥の鳴き声、耳や鼻や肌をくすぐる様々な刺激に満ち溢れています。
そして全てを優しく包みこむ温かさに溢れています。
それは、ごくありふれた当たり前の景色かもしれません。
でも、都会のお金持ちや有名人が恋焦がれ、手に入れたくても手に入れられない世界です。
もしもそれが色あせてアカ抜けないものに観えるとすれば、それは単に自分でススけさせてしまって
いるからです。
この多様性、この生命力、この安らぎ、この温かさ、この美しさ、この清々しさ、この気持ち良さ、
この味わい深さ・・・
目の前の景色には、それらが詰まり詰まっています。
我執という囚われが薄まれば、霧が晴れるようにすべて鮮明になっていくのです。
自分の故郷を悪くいう人はいないはずです。
その良さを一番知っているのは、他でもない私たちです。
決してそれは古びれてなどおらず、常に新鮮な生命力に溢れています。
強く優しいエネルギーに満ち満ちています。
私たちの毎日、私たちの人生とはそういうものなのです。
さぁ、鹿児島の御主人のように、自分の故郷に誇りを持って、どんどん輝かせていきましょう。
観る者(自分)の囚われや思いこみを取り払って、「おしゃれ」で「クール」にしましょう。
スパイスとなる方便は、いくらでも転がっています。
自分の街を綺麗にできるのは自分自身です。
自己プロデュースを楽しむために、私たちはわざわざ生れて来ています。
当世の言葉でいえば、私たち一人一人が地方創生担当大臣なのです。
地方が輝くために、なにより大事なのは、清らかであることです。
古さや新しさは全く関係ありません。
ドロドロしたものは、サッと洗い流しましょう。
スパーンと吹き飛ばしましょう。
清潔で爽やかな心が、新鮮で美しい田舎の景色を生み出します。
そうして、その景色とともに私たち自身も、溌剌としたエネルギーに溢れるのです。
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古民家を移築し、食事も雰囲気も素朴で懐かしい田舎暮らしを再現したものでした。
料金はかなり高めの設定でしたが、引っ切りなしに客が訪れているといいます。
この宿の御主人は昭和の高度成長期の時代、新婚旅行や家族旅行向けの旅館を作ろうとしたものの
失敗してしまい、最後は旅館でストリップショーをするほど苦しい状況に陥ってしまいました。
さすがにこのままではいけないと、毎月のように東京へ出て、何でもいいからヒントとなるものが
無いか探しまわったそうです。
そんなある時、銀座のド真ん中で大量の菜の花を飾っている場面に遭遇しました。
こんな一等地に何故?と驚くとともに、ある確信に至りました。
コンクリートに囲まれた都会の人たちは田舎の景色を求めていると。
まだバブルが訪れるずっと前、昭和の成長期のことです。
その時のヒントが、今日の成功のもとになったのでした。
これを見て、いくつか思ったことがあります。
この御主人は、ドン底の暮らしの中にあっても必死に足掻いて、何か突破口を見つけようとしました。
その何かというのは、自分の意識の外にあるものだったわけです。
目の前のことを一所懸命やるというのは絶対に必要なことです。
そこから逃げようする気持ちは、さらなる悪循環を生んでしまいます。
とはいえ、目の前のこと「だけに」囚われて、それしか見えなくなってしまうのは逆にマズイ状態です。
この紙一重の差が、天地ほどの違いになってしまいます。
仕事をやってる時にはそれに100%集中します。
一心不乱にそれだけをやり続けているのならば、執着や囚われが薄まっていき必ず視界が晴れて
いきます。
しかし、同じ働くにしても、目の前のことにせかせか追われてアップアップしながらこなす日々になって
しまうと、視界は何も変わらず、終わりなき回転ハシゴを駆け続けることになってしまいます。
なぜならそれは自分の中心から外れて、目先のことだけに囚われている状態だからです。
そのようになってしまった時は、仕事の合間に、自分の心を広げるしかありません。
そうやって視界を広げることが、多くの可能性を生むことになります。
このとき、心の切り替えがとても大事になってきます。
後ろ髪を引かれず、切り替えた先に対して100%集中ということです。
仕事をしている時には、夢や希望は忘れて、いまの仕事に集中です。
たとえそれが酷い仕事であっても雑念を挟まず、今は淡々とそれだけに集中です。
そして仕事が一息ついて心を広げる時には、仕事のことは完全に忘れ、いま心を向けていることに
集中です。
この宿屋の御主人は、その切り替えがしっかり出来ていたのだと思います。
それが出来た理由の一つは「人はそれぞれ求めているものが違う」という実体験にあったようです。
実際、マトモな旅館とは言えないような経営をしていた時も、それなりに繁盛していたのではないか
と思います。
つまり、世の中にはそれを求めている人が居るということを知ったはずです。
ただ、それが自分の描いていたものとは違ったわけです。
そうして、自分の描いたものを求める人は必ず居るという確信が芽生え、同時に自分の常識や思い
込みの中にはそれを繋ぐ答えがない、逆に言えば、その外にこそ答えがあると気づいたのではないか
と思うのです。
それが、自分の固定観念の外へと目を向ける原動力、毎月東京へ出てあれこれ探し回る原動力に
なったのではないでしょうか。
純粋なバイタリティーは、あとからついてくるものです。
我(が)を出してガツガツやるものではありません。
それではわざわざ我執を重ねてしまうだけです。
ポイントは、自分の視野以外の景色を確信することです。
つまり、囚われや固定観念を捨て去る潔さです。
観えない景色を確信しているからこそ、それを観たいと思うわけです。
自らにムチ打って頑張るのではなく、自然に動いている状態です。
それは『青い鳥』のように、何かに囚われてフワフワ浮き足だってアチコチ探し回るのとは違います。
自分の中心を保ったまま我執が薄まっていくことで、霧が晴れて景色が観えるようになるのです。
そうでなければ、都会の菜の花も見逃してしまったかもしれませんし、あるいは、それを見ても
それ以上何も観えてこなかったかもしれません。
またこの御主人は、子どもの遊び心のままに建物や敷地をデザインしていました。
まさにハックルベリーフィンの世界です。
儲けようとか、喜ばせようとか思う前に、とにかく自分が楽しむことに100%正直でした。
その純粋性が、さらに己の我執を薄めるもとになっていたわけです。
この人には、何にも囚われない晴れ渡った景色が観えているのかもしれません。
本当に、全ての要素を体現している方だなと思いました。
そして最後に、今風のホテルが流行ったり廃れたりすることを聞かれた時に「日本人は新しいものが
好きだから」とサラリと答えていたのが印象的でした。
それを聞いて、私の頭には伊勢の式年遷宮が浮かびました。
皮肉だったのか、色々な意味を含ませていたのか分かりませんが、核心をついた一言に感じました。
日本人は昔から、汚れたものやくたびれたものは、エネルギーが枯れていると見なしました。
近くにいるだけで、何となく自分もエネルギーが奪われてしまうように感じるわけです。
これは今も、どこか汚れた場所や、部屋のゴミ袋の中などを想像すれば分かる感覚だと思います。
一方、新しいものが放つ清々しさには生命力を感じ、自分の心もスッキリ清められて、何だか元気な
エネルギーをもらったように感じます。
新しく出来た観光スポットが、最初はピカピカに見えたのに、ほんの数年たっただけで新鮮味が薄れて
ボヤけて見えてしまうのは、必ずしも好奇心だけが理由ではないと思います。
また消費者が「生」という言葉に弱いのも、新鮮なものが放つエネルギーを知っていればこそ
それを想起させるイメージに惹かれているからではないでしょうか。
そしてこの「ケガレはエネルギーを奪い、清らかなものはエネルギーをくれる」という感覚が、実は
ピカピカの清潔好きという国民性の正体でもあるのではないかとも思っています。
ただ、ピカピカ好きだからといってコンクリート造りの豪勢なホテルを造っても、やはり月日とともに
くたびれてきてしまうものです。
新しいもの好きという一面だけを追ってしまうと、いつも新しくないといけなくなってしまいます。
それでは消費者も上っ面だけを追いかける心癖が強化されるだけですし、提供者もまたそのニーズに
追われることになってしまい、いつまでたってもイタチごっこです。
(ただ、消費経済はこの構図を確信犯的に作り出しています。囚われを強化させるのは罪ですし、
それではいつまでたってもどちらも救われません)
日本人が本当に好きなのは、単なる新しさではなく、新鮮な清々しさなのです。
つまり、そこから醸しだされる清らかな空気感であり、淀みのない爽やかさなのです。
ですから、そのもの自体が新しいか古いかは、二の次なのです。
新しいものは当然新鮮で清潔ですから、それで気持ちよく感じているだけであって、新鮮で清潔で
さえあれば、決して新しくなくても気持ちよさは感じるのです。
むしろベースの部分が馴染み深いものであるほうが、リラックスして心も細胞もフルオープンとなる
ため、幸福感は倍増するといえます。
この気持ち良さとは、自分の心が洗われている状態です。
澄んだ湖面を眺めるように、あるいは雪原の透き通った風を頬に受けるように、自分の内なる雑味が
霧散して、内外の壁がなくなって全身にエネルギーが吹き抜ける感じです。
一方で、古くから積み重ねられてきたものとは、研ぎ澄まされたオリジナリティ(独自性)の塊です。
ありふれた使い捨ての薄っぺらなハリボテとは違います。
そこに清潔さが加われば、私たち日本人はイチコロなのです。
それ自体がエネルギーに溢れ、それを観る者も心洗われてエネルギーが溢れだすのです。
伊勢神宮の式年遷宮とは、まさにそれらを兼ね備えているわけです。
冒頭の鹿児島の宿屋が人気なのは、もちろん故郷の景色にDNAや魂が喜んでいるからなのでしょうが、
それだけが理由ではないと思います。
それまで故郷の景色や田舎暮らしが古びれたものだと断じてきた思いこみや囚われが、無意識のうちに
取り払われ、本来の景色が観えるようになったということもあるのではないでしょうか。
そうした思いこみは、例えば昆布やカツオ節を使った日本料理をお手軽な調理と感じてしまうのに通じる
ものがあります。
実際は、ありふれた昆布やカツオ節の向こうにあるもの、それが出来あがるまでに積み重ねられた
過程こそが、全ての土台になっています。
つまり、ごくありふれた当たり前の景色に観える田舎や故郷というものは、何千年もの積み重ねの
結果であり、途轍もなくユニークで個性あふれるものなのです。
だから、手間のかかった味噌汁を飲んだ時の滋味と同じく、田舎の風景に触れると表現できない幸せ
を感じるのではないでしょうか。
実は、このユニークさこそが地域性の真髄です。
あまりにも身近すぎて、それがユニークであることを私たちは分からなくなっています。
そして、一見ユニークに観える都会の方が、逆に均一や画一の塊であるわけです。
その都会の薄っぺらい感性を地方に転嫁させようとするから、余計に地方再生がカラ回りしてしまう
のです。
見た目だけの箱モノばかりに金をかけてしまい、無用の長物と化した建物が数多くあるはずです。
都会から学ぶべきものは、発信の仕方、アピール方法や表現手段だけです。
地方には、もともと全てが揃っているのです。
独自性というユニークさは、多様性の核となります。
それが重厚さを醸し出していくことになるのです。
そして、長年にわたって積み重ねられたものというのは、すでにしっかりとした芯が通っています。
そのままで中心が定まっています。
ですから、あとは、観る者の思いこみや囚われを取り払って、いかに焦点を合わせられるかだけなのです。
そのためにまずは、観る者の緊張をほぐすなめの清潔感が第一となります。
そして、心の焦点を定めるためのワンポイントがそれに続きます。
テーマやキャッチコピー、注釈や表現をあとづけしていく作業です。
それは本当にピンポイントで十分です。
あくまで風味付けのスパイスなので、ほんの少しでいいのです。
目を開かせるための方便のようなものです。
ですから、それ一色に染めようとするのは愚の骨頂です。
鮮度に欠ける都会ではそういうことも必要かもしれませんが、地方は素材勝負です。
清潔感と馴染み深さが安心感に繋がり、我執が祓われて視界がクリアになれば、観る者はそこにキレを
感じるようになります。
それが「おしゃれ」や「クール」という感覚なのです。
日本は、文明開化とともに藩の壁が取り払われ、交通の発展とともに地方の壁が無くなりました。
そうして日本全国の志向性が一つになったわけですが、同時にそれは均一化でもあったわけです。
みんなの目は都会へ向き、都会の雰囲気というものが新鮮さや洗練さの指標となり、対して
地方の雰囲気は野暮ったいものとなってしまいました。
そうして地方の雰囲気が何となく劣るものとなってしまい、地方の伝統も文化も隅っこへと追い
やられてしまいました。
しかし、それがむしろ全くの逆であったのは、これまで書いたとおりです。
今では、都会のあちこちに昭和や大正の民家カフェやレトロな店舗が増え、地方では古民家や
田園風景が旅行客で賑わっています。
これまで古物や田舎が古びれているから野暮ったく感じていたのではなく、清らかな溌剌とした
エネルギーがなくなっていたから魅力を感じなかっただけなのです。
清潔さが伴えば一転して、洗練された美しさと心の安らぎをそこに観るのです。
この「田舎から都会」「都会から田舎」という一連の流れは、多くのことを示唆しています。
一つの空気感を目指そうとすると全体が薄ボケてしまって、一極集中と地方衰退を招いてしまいます。
つまり、均一性とは所詮は人間考えの偶像に過ぎず、人間の視野での価値判断がエネルギー欠乏を
招いてしまうわけでます。
多様性こそが天地自然の姿であり、その自然の姿が再生を可能とし、再生が新鮮なエネルギーを生み、
天地の隅々までくまなくそのエネルギーに溢れ、全体が調和してさらに大きなエネルギーとなるのです。
世界国家という言葉がありますが、おそらくそんなことが起きてしまったら、わずか数ヶ国の都会国家
と、その他大多数の田舎国家が生まれてしまい、その格差は果てしなく開いていくことになるでしょう。
田舎国家はますます廃れ、都会国家へ全てが流入していくことになるわけです。
日本も幕藩体制だった頃は、とても素晴らしい地方文化が花開いていました。
この平成の世に残る地方文化も、すべては江戸時代までに積み上げられた名残りでしかないのです。
貯金を切り崩しているだけということです。
いま、世界の各国が彩り豊かな文化と新鮮なエネルギーに溢れていられるのは、幕藩体制のように
独自性を保たれているからなのです。
美しい調和とは、その前提に多様性があります。
高価なヴァイオリンを100本集めるよりも、多彩な楽器を10種類揃えた方が遥かに重厚なハーモニー
を生むことでしょう。
そして様々な楽器の良さというものは、他の楽器の存在があればこそ引き立つのです。
多様性とは、一つ一つが異なる独自性を確立してユニークであるということなのです。
お花畑の世界市民も、平等主義の学校教育も、まったくこれに逆行するものです。
「競争をなくして平等にする」というのは、本質から目をそらさせるものです。
競争というものは、結果として必ず発生するものです。
自然界にあるかぎり必ず起きるものを否定することはナンセンスです。
本当に非難されるべきは「比較」という固定観念です。
比較判断こそを捨て去るべきなのです。
それは順位を付けないとか、全員一位だとか、そういうことではありません。
競争というものが自然発生的であるように、順位や差というものも結果として必ず発生するものです。
そうしたことは隠さず明らかにさせた上で、どっちがいい悪いという優劣意識や損得勘定に心を奪われ
ない指導をすればいいのです。
一つ一つ違っているのが当たり前なのです。
差というのは、そういうことです。
まわりと違うのが自然なことであり、それに価値判断をつけることが不自然なことなのです。
その差を隠したり、あるいは強調したりせず、そのままで受け入れるだけのことです。
競争にしろ平等にしろ、あえて論点をズラすことによって、わざと解決を遠ざけているとしか思えません。
そしてそうした比較や価値判断こそが、多様性を受け入れられない心を作り出してしまっています。
長いものに巻かれるのが安全という感覚は、学校教育で強化されています。
自分が他人と異なると不安になるというのは、多様性そのものを許容できていないことを意味して
います。
他人と自分がズレている時に強烈な違和感を覚える。それをそのまま流せない。
そうなると、他人を排除するか、自分が居なくなるか、あるいは自分か他人のどちらか一方を他方に
無理やり合わせさせるか、そのどれかになります。
これは移民国家の抱える問題そのものです。
そして異国間の紛争の原因でもあるわけです。
私たちは一人一人が違って当たり前で、違うからこそみんな存在しているのです。
みんな似たような生き方をするのならば、こんなに人類がいる意味がありませんし、そもそも生まれて
きていません。
私たちの体にしても、それぞれの器官が全く異なる機能を果たしているからこそ、全体が当たり前に
調和しています。
私たちは、もっと自由に生きられるはずなのです。
自由に、活発に、自分の楽しいように振る舞っていいのです。
人と違うことが当たり前ですし、そのために存在しているのです。
人の目を気にして本心を曲げるなどナンセンスですし、逆に、他人のことにイライラするのもナンセンス
なのです。
といって社会調和を乱したり、仕事もせずチャランポランにやっていいということではありません。
田舎や地方の話でも触れたように、過去から積み重ねられた当たり前の姿がそのベースにあるのです。
私たちでいえば家庭や社会がそれですし、仕事や家事といった日々の生活がそれです。
それらをベースとした上で、多様性を花開かせれば、新鮮で溌剌としたエネルギーが溢れ出るのです。
決して、くたびれさせたり、古びれさせたりしないということです。
私たちの、アカ抜けない平凡な日々というものは、いま日本が抱える田舎や地方の状況と同じかも
しれません。
私たちのこの日々も、この人生も、まさに故郷の街そのものということです。
そう考えて振り返りますと、色々なことが観えてくると思います。
私たちは自ら選んで、この街に生れてきました。
この街は、この街ならではの良さに溢れています。
どこか他の街に似せようなど、思うはずがありません。
それは都会の単一な景色とは違い、豊かな自然の色彩に溢れています。
森の風や土の匂い、鳥の鳴き声、耳や鼻や肌をくすぐる様々な刺激に満ち溢れています。
そして全てを優しく包みこむ温かさに溢れています。
それは、ごくありふれた当たり前の景色かもしれません。
でも、都会のお金持ちや有名人が恋焦がれ、手に入れたくても手に入れられない世界です。
もしもそれが色あせてアカ抜けないものに観えるとすれば、それは単に自分でススけさせてしまって
いるからです。
この多様性、この生命力、この安らぎ、この温かさ、この美しさ、この清々しさ、この気持ち良さ、
この味わい深さ・・・
目の前の景色には、それらが詰まり詰まっています。
我執という囚われが薄まれば、霧が晴れるようにすべて鮮明になっていくのです。
自分の故郷を悪くいう人はいないはずです。
その良さを一番知っているのは、他でもない私たちです。
決してそれは古びれてなどおらず、常に新鮮な生命力に溢れています。
強く優しいエネルギーに満ち満ちています。
私たちの毎日、私たちの人生とはそういうものなのです。
さぁ、鹿児島の御主人のように、自分の故郷に誇りを持って、どんどん輝かせていきましょう。
観る者(自分)の囚われや思いこみを取り払って、「おしゃれ」で「クール」にしましょう。
スパイスとなる方便は、いくらでも転がっています。
自分の街を綺麗にできるのは自分自身です。
自己プロデュースを楽しむために、私たちはわざわざ生れて来ています。
当世の言葉でいえば、私たち一人一人が地方創生担当大臣なのです。
地方が輝くために、なにより大事なのは、清らかであることです。
古さや新しさは全く関係ありません。
ドロドロしたものは、サッと洗い流しましょう。
スパーンと吹き飛ばしましょう。
清潔で爽やかな心が、新鮮で美しい田舎の景色を生み出します。
そうして、その景色とともに私たち自身も、溌剌としたエネルギーに溢れるのです。
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