これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

大臣、出番ですヨ!

2015-03-11 21:08:07 | 心をラクに
先日、テレビを観ていたら、鹿児島の人気旅館を特集していました。
古民家を移築し、食事も雰囲気も素朴で懐かしい田舎暮らしを再現したものでした。
料金はかなり高めの設定でしたが、引っ切りなしに客が訪れているといいます。
この宿の御主人は昭和の高度成長期の時代、新婚旅行や家族旅行向けの旅館を作ろうとしたものの
失敗してしまい、最後は旅館でストリップショーをするほど苦しい状況に陥ってしまいました。
さすがにこのままではいけないと、毎月のように東京へ出て、何でもいいからヒントとなるものが
無いか探しまわったそうです。
そんなある時、銀座のド真ん中で大量の菜の花を飾っている場面に遭遇しました。
こんな一等地に何故?と驚くとともに、ある確信に至りました。
コンクリートに囲まれた都会の人たちは田舎の景色を求めていると。
まだバブルが訪れるずっと前、昭和の成長期のことです。
その時のヒントが、今日の成功のもとになったのでした。

これを見て、いくつか思ったことがあります。

この御主人は、ドン底の暮らしの中にあっても必死に足掻いて、何か突破口を見つけようとしました。
その何かというのは、自分の意識の外にあるものだったわけです。

目の前のことを一所懸命やるというのは絶対に必要なことです。
そこから逃げようする気持ちは、さらなる悪循環を生んでしまいます。
とはいえ、目の前のこと「だけに」囚われて、それしか見えなくなってしまうのは逆にマズイ状態です。
この紙一重の差が、天地ほどの違いになってしまいます。

仕事をやってる時にはそれに100%集中します。
一心不乱にそれだけをやり続けているのならば、執着や囚われが薄まっていき必ず視界が晴れて
いきます。
しかし、同じ働くにしても、目の前のことにせかせか追われてアップアップしながらこなす日々になって
しまうと、視界は何も変わらず、終わりなき回転ハシゴを駆け続けることになってしまいます。
なぜならそれは自分の中心から外れて、目先のことだけに囚われている状態だからです。

そのようになってしまった時は、仕事の合間に、自分の心を広げるしかありません。
そうやって視界を広げることが、多くの可能性を生むことになります。
このとき、心の切り替えがとても大事になってきます。
後ろ髪を引かれず、切り替えた先に対して100%集中ということです。

仕事をしている時には、夢や希望は忘れて、いまの仕事に集中です。
たとえそれが酷い仕事であっても雑念を挟まず、今は淡々とそれだけに集中です。
そして仕事が一息ついて心を広げる時には、仕事のことは完全に忘れ、いま心を向けていることに
集中です。

この宿屋の御主人は、その切り替えがしっかり出来ていたのだと思います。

それが出来た理由の一つは「人はそれぞれ求めているものが違う」という実体験にあったようです。
実際、マトモな旅館とは言えないような経営をしていた時も、それなりに繁盛していたのではないか
と思います。
つまり、世の中にはそれを求めている人が居るということを知ったはずです。
ただ、それが自分の描いていたものとは違ったわけです。
そうして、自分の描いたものを求める人は必ず居るという確信が芽生え、同時に自分の常識や思い
込みの中にはそれを繋ぐ答えがない、逆に言えば、その外にこそ答えがあると気づいたのではないか
と思うのです。
それが、自分の固定観念の外へと目を向ける原動力、毎月東京へ出てあれこれ探し回る原動力に
なったのではないでしょうか。

純粋なバイタリティーは、あとからついてくるものです。
我(が)を出してガツガツやるものではありません。
それではわざわざ我執を重ねてしまうだけです。
ポイントは、自分の視野以外の景色を確信することです。
つまり、囚われや固定観念を捨て去る潔さです。
観えない景色を確信しているからこそ、それを観たいと思うわけです。
自らにムチ打って頑張るのではなく、自然に動いている状態です。
それは『青い鳥』のように、何かに囚われてフワフワ浮き足だってアチコチ探し回るのとは違います。
自分の中心を保ったまま我執が薄まっていくことで、霧が晴れて景色が観えるようになるのです。
そうでなければ、都会の菜の花も見逃してしまったかもしれませんし、あるいは、それを見ても
それ以上何も観えてこなかったかもしれません。

またこの御主人は、子どもの遊び心のままに建物や敷地をデザインしていました。
まさにハックルベリーフィンの世界です。
儲けようとか、喜ばせようとか思う前に、とにかく自分が楽しむことに100%正直でした。
その純粋性が、さらに己の我執を薄めるもとになっていたわけです。
この人には、何にも囚われない晴れ渡った景色が観えているのかもしれません。
本当に、全ての要素を体現している方だなと思いました。

そして最後に、今風のホテルが流行ったり廃れたりすることを聞かれた時に「日本人は新しいものが
好きだから」とサラリと答えていたのが印象的でした。
それを聞いて、私の頭には伊勢の式年遷宮が浮かびました。
皮肉だったのか、色々な意味を含ませていたのか分かりませんが、核心をついた一言に感じました。

日本人は昔から、汚れたものやくたびれたものは、エネルギーが枯れていると見なしました。
近くにいるだけで、何となく自分もエネルギーが奪われてしまうように感じるわけです。
これは今も、どこか汚れた場所や、部屋のゴミ袋の中などを想像すれば分かる感覚だと思います。
一方、新しいものが放つ清々しさには生命力を感じ、自分の心もスッキリ清められて、何だか元気な
エネルギーをもらったように感じます。
新しく出来た観光スポットが、最初はピカピカに見えたのに、ほんの数年たっただけで新鮮味が薄れて
ボヤけて見えてしまうのは、必ずしも好奇心だけが理由ではないと思います。
また消費者が「生」という言葉に弱いのも、新鮮なものが放つエネルギーを知っていればこそ
それを想起させるイメージに惹かれているからではないでしょうか。
そしてこの「ケガレはエネルギーを奪い、清らかなものはエネルギーをくれる」という感覚が、実は
ピカピカの清潔好きという国民性の正体でもあるのではないかとも思っています。

ただ、ピカピカ好きだからといってコンクリート造りの豪勢なホテルを造っても、やはり月日とともに
くたびれてきてしまうものです。
新しいもの好きという一面だけを追ってしまうと、いつも新しくないといけなくなってしまいます。
それでは消費者も上っ面だけを追いかける心癖が強化されるだけですし、提供者もまたそのニーズに
追われることになってしまい、いつまでたってもイタチごっこです。
(ただ、消費経済はこの構図を確信犯的に作り出しています。囚われを強化させるのは罪ですし、
それではいつまでたってもどちらも救われません)

日本人が本当に好きなのは、単なる新しさではなく、新鮮な清々しさなのです。
つまり、そこから醸しだされる清らかな空気感であり、淀みのない爽やかさなのです。
ですから、そのもの自体が新しいか古いかは、二の次なのです。
新しいものは当然新鮮で清潔ですから、それで気持ちよく感じているだけであって、新鮮で清潔で
さえあれば、決して新しくなくても気持ちよさは感じるのです。
むしろベースの部分が馴染み深いものであるほうが、リラックスして心も細胞もフルオープンとなる
ため、幸福感は倍増するといえます。
この気持ち良さとは、自分の心が洗われている状態です。
澄んだ湖面を眺めるように、あるいは雪原の透き通った風を頬に受けるように、自分の内なる雑味が
霧散して、内外の壁がなくなって全身にエネルギーが吹き抜ける感じです。

一方で、古くから積み重ねられてきたものとは、研ぎ澄まされたオリジナリティ(独自性)の塊です。
ありふれた使い捨ての薄っぺらなハリボテとは違います。
そこに清潔さが加われば、私たち日本人はイチコロなのです。
それ自体がエネルギーに溢れ、それを観る者も心洗われてエネルギーが溢れだすのです。
伊勢神宮の式年遷宮とは、まさにそれらを兼ね備えているわけです。

冒頭の鹿児島の宿屋が人気なのは、もちろん故郷の景色にDNAや魂が喜んでいるからなのでしょうが、
それだけが理由ではないと思います。
それまで故郷の景色や田舎暮らしが古びれたものだと断じてきた思いこみや囚われが、無意識のうちに
取り払われ、本来の景色が観えるようになったということもあるのではないでしょうか。
そうした思いこみは、例えば昆布やカツオ節を使った日本料理をお手軽な調理と感じてしまうのに通じる
ものがあります。
実際は、ありふれた昆布やカツオ節の向こうにあるもの、それが出来あがるまでに積み重ねられた
過程こそが、全ての土台になっています。
つまり、ごくありふれた当たり前の景色に観える田舎や故郷というものは、何千年もの積み重ねの
結果であり、途轍もなくユニークで個性あふれるものなのです。
だから、手間のかかった味噌汁を飲んだ時の滋味と同じく、田舎の風景に触れると表現できない幸せ
を感じるのではないでしょうか。

実は、このユニークさこそが地域性の真髄です。
あまりにも身近すぎて、それがユニークであることを私たちは分からなくなっています。
そして、一見ユニークに観える都会の方が、逆に均一や画一の塊であるわけです。
その都会の薄っぺらい感性を地方に転嫁させようとするから、余計に地方再生がカラ回りしてしまう
のです。
見た目だけの箱モノばかりに金をかけてしまい、無用の長物と化した建物が数多くあるはずです。
都会から学ぶべきものは、発信の仕方、アピール方法や表現手段だけです。
地方には、もともと全てが揃っているのです。
独自性というユニークさは、多様性の核となります。
それが重厚さを醸し出していくことになるのです。
そして、長年にわたって積み重ねられたものというのは、すでにしっかりとした芯が通っています。
そのままで中心が定まっています。
ですから、あとは、観る者の思いこみや囚われを取り払って、いかに焦点を合わせられるかだけなのです。

そのためにまずは、観る者の緊張をほぐすなめの清潔感が第一となります。
そして、心の焦点を定めるためのワンポイントがそれに続きます。
テーマやキャッチコピー、注釈や表現をあとづけしていく作業です。
それは本当にピンポイントで十分です。
あくまで風味付けのスパイスなので、ほんの少しでいいのです。
目を開かせるための方便のようなものです。
ですから、それ一色に染めようとするのは愚の骨頂です。
鮮度に欠ける都会ではそういうことも必要かもしれませんが、地方は素材勝負です。
清潔感と馴染み深さが安心感に繋がり、我執が祓われて視界がクリアになれば、観る者はそこにキレを
感じるようになります。
それが「おしゃれ」や「クール」という感覚なのです。

日本は、文明開化とともに藩の壁が取り払われ、交通の発展とともに地方の壁が無くなりました。
そうして日本全国の志向性が一つになったわけですが、同時にそれは均一化でもあったわけです。
みんなの目は都会へ向き、都会の雰囲気というものが新鮮さや洗練さの指標となり、対して
地方の雰囲気は野暮ったいものとなってしまいました。
そうして地方の雰囲気が何となく劣るものとなってしまい、地方の伝統も文化も隅っこへと追い
やられてしまいました。
しかし、それがむしろ全くの逆であったのは、これまで書いたとおりです。
今では、都会のあちこちに昭和や大正の民家カフェやレトロな店舗が増え、地方では古民家や
田園風景が旅行客で賑わっています。
これまで古物や田舎が古びれているから野暮ったく感じていたのではなく、清らかな溌剌とした
エネルギーがなくなっていたから魅力を感じなかっただけなのです。
清潔さが伴えば一転して、洗練された美しさと心の安らぎをそこに観るのです。

この「田舎から都会」「都会から田舎」という一連の流れは、多くのことを示唆しています。
一つの空気感を目指そうとすると全体が薄ボケてしまって、一極集中と地方衰退を招いてしまいます。
つまり、均一性とは所詮は人間考えの偶像に過ぎず、人間の視野での価値判断がエネルギー欠乏を
招いてしまうわけでます。
多様性こそが天地自然の姿であり、その自然の姿が再生を可能とし、再生が新鮮なエネルギーを生み、
天地の隅々までくまなくそのエネルギーに溢れ、全体が調和してさらに大きなエネルギーとなるのです。

世界国家という言葉がありますが、おそらくそんなことが起きてしまったら、わずか数ヶ国の都会国家
と、その他大多数の田舎国家が生まれてしまい、その格差は果てしなく開いていくことになるでしょう。
田舎国家はますます廃れ、都会国家へ全てが流入していくことになるわけです。

日本も幕藩体制だった頃は、とても素晴らしい地方文化が花開いていました。
この平成の世に残る地方文化も、すべては江戸時代までに積み上げられた名残りでしかないのです。
貯金を切り崩しているだけということです。
いま、世界の各国が彩り豊かな文化と新鮮なエネルギーに溢れていられるのは、幕藩体制のように
独自性を保たれているからなのです。

美しい調和とは、その前提に多様性があります。
高価なヴァイオリンを100本集めるよりも、多彩な楽器を10種類揃えた方が遥かに重厚なハーモニー
を生むことでしょう。
そして様々な楽器の良さというものは、他の楽器の存在があればこそ引き立つのです。
多様性とは、一つ一つが異なる独自性を確立してユニークであるということなのです。

お花畑の世界市民も、平等主義の学校教育も、まったくこれに逆行するものです。
「競争をなくして平等にする」というのは、本質から目をそらさせるものです。
競争というものは、結果として必ず発生するものです。
自然界にあるかぎり必ず起きるものを否定することはナンセンスです。
本当に非難されるべきは「比較」という固定観念です。
比較判断こそを捨て去るべきなのです。
それは順位を付けないとか、全員一位だとか、そういうことではありません。
競争というものが自然発生的であるように、順位や差というものも結果として必ず発生するものです。
そうしたことは隠さず明らかにさせた上で、どっちがいい悪いという優劣意識や損得勘定に心を奪われ
ない指導をすればいいのです。
一つ一つ違っているのが当たり前なのです。
差というのは、そういうことです。
まわりと違うのが自然なことであり、それに価値判断をつけることが不自然なことなのです。
その差を隠したり、あるいは強調したりせず、そのままで受け入れるだけのことです。
競争にしろ平等にしろ、あえて論点をズラすことによって、わざと解決を遠ざけているとしか思えません。

そしてそうした比較や価値判断こそが、多様性を受け入れられない心を作り出してしまっています。
長いものに巻かれるのが安全という感覚は、学校教育で強化されています。
自分が他人と異なると不安になるというのは、多様性そのものを許容できていないことを意味して
います。
他人と自分がズレている時に強烈な違和感を覚える。それをそのまま流せない。
そうなると、他人を排除するか、自分が居なくなるか、あるいは自分か他人のどちらか一方を他方に
無理やり合わせさせるか、そのどれかになります。

これは移民国家の抱える問題そのものです。
そして異国間の紛争の原因でもあるわけです。

私たちは一人一人が違って当たり前で、違うからこそみんな存在しているのです。
みんな似たような生き方をするのならば、こんなに人類がいる意味がありませんし、そもそも生まれて
きていません。
私たちの体にしても、それぞれの器官が全く異なる機能を果たしているからこそ、全体が当たり前に
調和しています。

私たちは、もっと自由に生きられるはずなのです。
自由に、活発に、自分の楽しいように振る舞っていいのです。
人と違うことが当たり前ですし、そのために存在しているのです。
人の目を気にして本心を曲げるなどナンセンスですし、逆に、他人のことにイライラするのもナンセンス
なのです。

といって社会調和を乱したり、仕事もせずチャランポランにやっていいということではありません。
田舎や地方の話でも触れたように、過去から積み重ねられた当たり前の姿がそのベースにあるのです。
私たちでいえば家庭や社会がそれですし、仕事や家事といった日々の生活がそれです。
それらをベースとした上で、多様性を花開かせれば、新鮮で溌剌としたエネルギーが溢れ出るのです。
決して、くたびれさせたり、古びれさせたりしないということです。

私たちの、アカ抜けない平凡な日々というものは、いま日本が抱える田舎や地方の状況と同じかも
しれません。
私たちのこの日々も、この人生も、まさに故郷の街そのものということです。
そう考えて振り返りますと、色々なことが観えてくると思います。

私たちは自ら選んで、この街に生れてきました。
この街は、この街ならではの良さに溢れています。
どこか他の街に似せようなど、思うはずがありません。

それは都会の単一な景色とは違い、豊かな自然の色彩に溢れています。
森の風や土の匂い、鳥の鳴き声、耳や鼻や肌をくすぐる様々な刺激に満ち溢れています。
そして全てを優しく包みこむ温かさに溢れています。
それは、ごくありふれた当たり前の景色かもしれません。
でも、都会のお金持ちや有名人が恋焦がれ、手に入れたくても手に入れられない世界です。
もしもそれが色あせてアカ抜けないものに観えるとすれば、それは単に自分でススけさせてしまって
いるからです。
この多様性、この生命力、この安らぎ、この温かさ、この美しさ、この清々しさ、この気持ち良さ、
この味わい深さ・・・
目の前の景色には、それらが詰まり詰まっています。
我執という囚われが薄まれば、霧が晴れるようにすべて鮮明になっていくのです。

自分の故郷を悪くいう人はいないはずです。
その良さを一番知っているのは、他でもない私たちです。
決してそれは古びれてなどおらず、常に新鮮な生命力に溢れています。
強く優しいエネルギーに満ち満ちています。
私たちの毎日、私たちの人生とはそういうものなのです。

さぁ、鹿児島の御主人のように、自分の故郷に誇りを持って、どんどん輝かせていきましょう。
観る者(自分)の囚われや思いこみを取り払って、「おしゃれ」で「クール」にしましょう。
スパイスとなる方便は、いくらでも転がっています。
自分の街を綺麗にできるのは自分自身です。
自己プロデュースを楽しむために、私たちはわざわざ生れて来ています。
当世の言葉でいえば、私たち一人一人が地方創生担当大臣なのです。

地方が輝くために、なにより大事なのは、清らかであることです。

古さや新しさは全く関係ありません。
ドロドロしたものは、サッと洗い流しましょう。
スパーンと吹き飛ばしましょう。

清潔で爽やかな心が、新鮮で美しい田舎の景色を生み出します。
そうして、その景色とともに私たち自身も、溌剌としたエネルギーに溢れるのです。




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隙の無い状態

2015-03-03 23:51:27 | 武道のはなし
達人の佇まいとは、空気のように透明なものです。
しかし、そこに隙はありません。

若い頃は、筋肉をガンガン鍛えて腕力をつけたりスピードを磨いたりするものです。
相手と対峙をした時は、隙を作るまい、絶対に入らせまいと全身からブワーッと気合いを出していたかと
思います。
覇気とかオーラとかいうやつですね(笑)
全身ハリネズミのようになって、寄らば斬るゾの気迫です。

今日は武道の話ですが、心の持ち方についての比喩にもなっていますので、オーバーラップさせて読んで
頂けると幸いです。

全身クマなく針を出し続けるのは、心がとても疲れます。
そして、ふと心が緩んだところに隙が出来てしまいます。
心を緩めまいと必死に頑張っても、自分の観えているところしか針を出せていないと、頭隠して尻隠さず
で、他のところが隙だらけになります。
ならば、それも無くそうと、またガンガン鍛えてさらに気合いを出していくわけです。

それはまるで炎の鎧を着ているようなイメージです。
相手に入らせまいという気持ち、斬られる前に斬ってやるという気持ち、それら我欲が燃えたぎって
います。
炎の鎧は、執念の心です。
確かにそれは強いものではありますが、長くは持ちません。
少しずつ心が疲弊してきます。
外向けの炎は、内をも焼き尽くすのです。
努力の人は、折れそうな心すらバネにしてさらに炎を燃やしますが、それは内には健康問題として、
外には家庭問題や人間関係として、様々な形で表に現れるようになります。

ただ、年齢とともに体力が落ちていくと、拠り所を無くした心は気迫を失っていきます。
自信過剰な慢心が薄れ、弱気の虫が出てきます。
本来はそれこそが、執着や囚われを薄めるための、天地自然の計らいなのですが、それまでの生き方に
自分の存在を投影させてしまっている人は、それを失うことが自分を失うことに思えてしまいます。
それがアンチエイジングとなり、度を過ぎると老醜となってしまいます。
なぜならば、それは本当の自分を弱々しいものだと思い込んでいる状態、本当の自分を受け入れて
いない状態だからです。
本当は誰よりも自分を受け入れるべき「自分」が、他の誰よりも自分を受け入れていないわけです。
天地の全てが嘆き悲しむ事態です。

武道の話に戻りますと、我欲の炎をバチバチぶつけあっている試合は、観ていて気持ちいいものでは
ありません。
見た目が分かりやすいので、外国人はそちらを好む傾向にあるようですが、私たち日本人は、やはり
シーンと心が落ち着いた者同士が全力でぶつかり合っている試合の方を好みます。
それは我欲のぶつけ合いではなく、それまで研鑽してきた自分の「今」を、互いに混じり気なしに
出している姿だからです。
勝ち負けの結果などはどうでもよくなり、ただ、その姿に心奪われます。
観ている人たちの心は洗われ、澄んだ状態になります。

武道で礼節を重んじる理由や、 勝敗よりも心の在り方を重視する理由も、そこにあります。

ガッツポーズや相手への不敬など、醜悪の極みです。
相手より上だ下だという幼稚な優越感や、勝った負けたと見た目に囚われるさもしさ、自分こそが
強いという自己顕示と自己満足・・・
それらは全て上っ面の価値観でしかありません。

スポーツは純粋な娯楽や運動として楽しむだけならば何の問題もありませんが、それが勝ち負けに
重きを置くようになってしまうと、少々キナ臭くなってまいります。
もちろん勝ち負け自体は何も悪いものでありません。
それはただ、結果を表現したものです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
そして、目指す先があればこそ、過程がより充実します。
そういう意味での勝敗が無ければ、面白さも半減してしまいます。
ですから、それは遊びをより充実させるためのスパイス、方便であればいいのです。
いけないことは、それに囚われてしまうことだけです。

勝つためにお互い頑張る。
その過程を楽しむ。
勝負が終われば、即ノーサイドです。
しかし、勝ち負けに囚われてしまうとあちこちギクシャクしてきます。
遊ぶ楽しさだけに向いていた心が、他へ分散してしまい、楽しさそのものが薄まっていくきます。
知らず知らずのうちに、上っ面の価値観や囚われを強化していくことに全力疾走していたりします。
そうなると”健全な精神は健全な身体に宿る”どころではなくなります。
社会に出てからも、勝ち負けの囚われに縛られ続け、苦しみの元となってしまいます。
本来スポーツ自体は何も悪くないのに、それへの関わる姿勢で全く別物になってしまうわけです。

子供の頃は、結果など気にせず、ただ遊んでいるのが楽しくて仕方なかったはずです。
楽しいという感覚に全身を投じていたわけです。
でもそれが、勝ち負けに大人が一喜一憂する姿を見ているうちに、心の向きがブレ始め、純粋な喜びが
徐々に薄れていってしまったのです。

スポーツは、もちろん健全な精神を育みます。
ただ、スポーツの場合は初めから勝ち負けを目的としており、勝敗の大義のもと優越感や自己満足の
高揚を肯定してしまっているのが危険なところです。
ただ一方で、「今」だけに集中しきることの充実感を体験できるという素晴らしい部分もあります。
勝ち負けをニンジンとして鼻の先にぶら下げることで、苦しいトレーニングにも正面から向き合い、
「今」に集中しきることができる、そして気づけば上達という形をともなって自分の視野も変わる。
落とし穴と純粋性は紙一重です。
勝敗というものをあくまで方便として割り切れるかどうかが、天と地ほどの違いになると言えます。

それらをうまいことやってる例としては、中年オジさんの草野球があげられるかもしれません。
勝ち負けに嬉しがったり悔しがったりするわけですが、この場合は悔しさも本当に楽しんでいます。
体力の限界を知ればこそ、楽しみの向きが、勝敗よりもプレーそのもの、つまり遊びそのものに集中して
いるわけです。
我欲に囚われないスポーツであれば、これほど心に良いものはありません。
すべては私たちの心次第ということです。

武道も、結果よりも心の在り方を重視します。
本当の喜び、本当の美しさとはどこにあるのかを導き示します。
見た目の囚われを無くし、凝り固まった視界を開かせることに重きを置きます。
そして、我欲を払った心の清涼感と、穏やかな広がりの中にある幸福感に気づかせます。
それらを刻んでいる過程に喜びを見いだして、その後の結果は付け足しと見なします。

ガッツポーズを唾棄したり、敗者に敬意を表するというのも、決して綺麗事からではないのです。
それは相手に失礼だとか、惻隠の情だとか、そのような浅い理由ではありません。
そこで分かったつもりになって思考停止させてしまうと、かえって危険です。

子どもの頃を思い出すと、遊んでいる最中の喜びに身を投じていれば、終わったあとにも幸福の余韻が
残ったものです。
勝ち負けの結果は、それはそれとして理解するのですが、喜びの対象はむしろ過去にあるわけです。
「いやぁ、ホントに面白かったなぁ」と。
そして、その喜びの瞬間を共に分かち合った相手には肩を叩いて親愛の情を示すのです。

それが、形としては敗者への敬意に見えていたりするだけです。
過程を楽しみ尽くせば、結果などオマケでしかないのです。
ガッツポーズを諌めるのも、”いったいオマエは何処を見ていたのか””何を楽しんでいたのか”という
だけのことです。

しかし、それが外国人には分かりにくいようです。
目に見えないものを深く味わうことが、習慣として馴れていないのかもしれません。
ですから、一部の武道は方便として勝敗を設けられているだけなのに、それがスポーツと味噌クソ一緒に
なってしまったりするのです。
その過程や心の在り方などスッ飛ばして、見た目に分かりやすい勝ち負けへフォーカスしてしまうのです。
残念ながら、オリンピックの柔道は完全にスポーツと化してしまいました。
武道の本質は、囚われやすい心や固定観念をクリアにするところにあると思います。
私たちの視野の外に、幸せや喜びがあることを気づかせるものです。
ですから自分自身を磨くということに繋がってくるわけです。
何としても、この日本の中だけでも、武道としての柔道を遺して欲しいと切に願うばかりです。


武道であっても、スポーツ同様、自分の心次第で毒にも薬にもなります。
上手くなりたい、結果を残したい、という気持ちがあまりに強すぎてそれに囚われてしまうと、自分の
中心から外れていってしまい、出口のない迷宮へ迷い込んでしまいます。
しかし、その気持ちを上手に使って、厳しい稽古へ心を向けるためのモチベーションにするならば、
一転して「今」に集中した過程を刻むことになります。
染み付いた心癖を取り払わない限りは、武道も諸刃の剣であるわけです。

冒頭に書いたハリネズミのような姿なども、外から来るものを弾き返そうとする心の現れです。
自分のまわりに壁を作って相手を入れさせまいとしているわけです。
表現を変えれば、それは固定観念の強化、自分の世界の強化です。
そして勝ち負け意識が強いと、その壁を強固なものにしようとさらにガチガチにしていってしまいます。
これではお互い、どこまでいっても我執の背比べになるだけです。
第三者としては、そんな雰囲気には近づきたくもないですし、観ていて何一つ心は動きません。

しかしながら、達人の佇まいはこれとは全く異なるものです。

そもそもが、柔らかい空気、透明な雰囲気です。
そこに壁はありません。
つまり、心のガチガチが無いのです。
囚われや執着がないため、天地に溶け合った状態です。
それは、ただ観ているだけで何故か幸せな気持ちになってきます。
でも、ホッコリしているからといって小さく観えるわけではありません。
むしろ、天地宇宙と隔たりがなくなっていますので、果てしない大きさを感じます。
そして、どこにも隙がないのです。
打とうにも打てない。
打ち込めないのです。

相手に飲まれて動けないということではありません。
それ以前に、見えない何かのせいで物理的に入れない感覚です。
打つ前から制されているというか、入ろうという気持ちがゼロにされてしまうわけです。
そのくせ、達人の方は、何かを作為しているようなことはありません。
相手を無効化しようとか、制止しようとかは一切考えてません。
ただ、そこに居るだけです。

つまり、それが「今」に中心を置いている状態ということなのです。

「今」にビシッと自分の全てを置いている。柱を立てている。
まさに、心御柱(しんのみはしら)です。
天地宇宙に自分の御柱を立てる。
そこに、圧倒的な存在感とともに、微動だにしない「今」が現れているのです。
その揺るぐことのない感覚を、私たちは隙がないと感じるのです。
何か仕掛けようとする思いが霧散するわけです。
その一方で、もしもこちらが親愛の心であれば、まるで磁石が惹かれるようにスーッとその間合いの中へ
吸い寄せられるのです。

天地宇宙に溶け合ったフルオープンの感覚のまま、「今」の一点に自分を100%置いた状態。
それこそが、達人の姿です。

そして、自分がそこに入れるか入れないかは、こちらの心の持ち方次第で180度変わってくるのです。
決して、達人自身が心を切り替えているわけではない。
天地宇宙と一体になっている時点で、むしろ全てを受け入れている状態です。
こちらの心次第で、勝手に跳ね返ってしまっているだけなのです。
これは、まさに天地宇宙というものがそうであることを示しています。
「神よ、何て無慈悲なんだ」と嘆くのは、お門違いなのです。

入るも相手次第、入らぬも相手次第。
全てを受け入れる心とは、物事がなるようになるのを見守る心でもあるのです。


天地宇宙へフルオープンになるのと同じく大事なのが、自分の中心をしっかりと立てることです。
それが欠けたままで、ただ天地宇宙へ溶け込んでいくのは、フワフワ流されるクラゲ状態です。
これは、風呂に入ってボーッとしている状態と同じです。
あれはあれで、雑味を無くして心を解放させた感覚を掴むのに最高のものですが、だからといって
あの状態のままで日常生活に出るのは危なっかしくて仕方ないでしょう。
湯船のあのボーッとした状態で街中を歩いたらどうなるか、考えればすぐ分かると思います。
数メートル以内でチャリに引かれます(笑)
ですから、心を広げるためにはあの開放感は絶対に必要なのですが、視界をシャキッと鮮明にさせること、
つまり「今」に焦点を合わせることがセットになって初めてバランスが取れるのです。

例えば、カメラも絞ってピントを合わせることで目の前の全景が鮮明に写ります。
瞳孔が開いたままではボヤけた景色しか見えません。
光を集中させること、焦点を合わせることが大切なわけです。
といって、心をギュッと締めるということでは決してありません。
単に、心を向けるだけでいいのです。
明確に向けるということが、集中することになっているのです。

自分を自分の「今」に立てること、つまり「今」に心を向けることが、天地の中心の「今」を鮮明に
させることになります。
それは、外に向けてエネルギーを出すものではなく、ただそこに在る状態です。
但し、これ以上ないほど「明確に」在る状態です。

一方で、天地宇宙と隔たりなく広がった感覚にあることが、エネルギーに満ち溢れ状態となります。
これも内から外へ流れるものではなく、天地宇宙に偏在した状態です。
外から来るものに対してぶつかるのではなく、全てを受け入れる状態であるのです。


そのような状態を目指すために武道では、基本稽古を重視しています。
移ろう心をシュッと集中させるために、反復動作を行ないます。
余計なことを何も考えず、ひたすらその動きだけに100%集中するのです。

「ヒゲ剃りに集中、ドライヤーに集中、着替えに集中」と今までシツコク言ってきたのは、そうした
稽古や訓練と同じものと言ってもいいかもしれません。
集中しようと漠然と思いながらやっていると、すぐに何か他のことを考えてしまうものです。
ですから、そうなった時は「今のこういう心癖を無くしていくための稽古なんだ。訓練なんだ。」と
割り切った方が、囚われに惑わされず集中しやすくなるかもしれません。

こうした一つ一つの積み重ねが、他の場面での条件反射へなっていきます。
逆を言えば、そういう小さな場面で心が散漫になってしまっているということは、散漫になる稽古を
いつも繰り返していることになります。
それが日常のあらゆる場面での、知らず知らずの散漫になってしまうわけです。
小さなことに集中できなかったら、大きな場面で集中することは不可能です。
ましてや、散漫になっていることにすら気がつけないとなると、集中しようとするキッカケすら失って
しまうことになります。

歯磨きや着替えなど、小さなこと一つ一つに集中していると、ハッと散漫になっている自分に気づきます。
これが大事なのです。
気がついて、それを正そうと思うことができるのです。
他の場面で散漫になっている状態にもハッと気がつくことができるようになるのです。
しかしそうした散漫が当たり前になってしまうと、最早それに気がつくことができません。
麻痺した状態になってしまうわけです。
ですから、そうしたものをリセットする場面が大切になってくるのです。

どんな大きな場面に観えようと、どんな小さな場面に観えようと、等しく価値ある「今」に変わりありません。
ヒゲ剃りでもドライヤーでも、その「今」を安く見ずに、きっちり集中していくことが、結局は全ての「今」を
等しく集中していくことへと繋がっていくのです。

この場面は重要だから集中しようとか、ここは手を抜こうとか、そういうことではなくなるのです。
だから心癖の訓練が大事なのです。

一つだけ細かい例をあげてみます。
着替えている途中や、ドライヤーで髪を乾かしている最中に、ハタと何か思いついた時には、「あと少し
だから」と、考えごとをしながら続けてしまいます。
でもそういう時は、その作業をやめて思いついたことを先にやるか、あるいは忘れてもいいと割り切って
元の作業に集中するか、どちらかです。
忘れたら困ることであるならば、なおさら意識は散漫になりますので、それはメモに書くなり何なりして
一旦リセットさせて、スッキリした状態で元の作業に集中するのがいいと思います。
ですから、洗面所や居間などにポストイットのような手軽なメモ紙とペンを置いておくといいかもしれません。
ただ、風呂で思いついた時は、もう諦めるしかないですね(笑)


四六時中、気を張ったままでいますと、心は本当にグッタリ疲れます。
あれこれ忙しくなると、どうしても頭の芯の部分がキュッと締まって緊張状態となります。
仕事でトラブルが続いたり、家の家事に追われたり、通勤ラッシュにもまれたり、おかしな人が近くにいたり
すると、グッと気を張って心を硬くしてしまいます。
それは、全身ハリネズミのようにしてエネルギーを放出している状態です。
疲れるだけでなく、気力も枯れてしまいます。

ですから、そういう時は毛穴の緊張を解いて、天地に向けて感覚をフルオープンに開き、頭の芯の部分と
後頭部あたりでギュッとなっている締まりをスッと緩めてみるのです。
それから自分の中心の一点にストンと心を置いて、そして目の前の「今」に気持ちを向けましょう。
ただ、そこに在るだけです。
一切余計なことをする必要はありません。

そうすると、何もしなくとも、変なものは入ってこなくなります。
逆に、それ以外のものは全て入ってきます。
そして自家発電ではありませんので、疲れ果てることもありません。
むしろ元気になります。

なぜならば、それが天地の姿だからです。

両手で囲わず、大海に溶けて一つとなった状態。
天地宇宙の中心が「今」に定まった状態。
この天地の姿は、文字通りの「自然体」です。

そしてその、天地の神氣に満ち満ちて、天地宇宙の中心が在る状態。
それこそが「隙のない状態」なのです。



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「今」がスゴいのです

2015-03-01 11:50:33 | 空想の世界
以前、未来や過去そして「忘れる」ということについて書きました。
忘れるということで最大のものは、生まれる前の記憶でしょう。

私たちは、今世の過去に関しては思い出したくないことも多いのに、なぜか過去世となると興味が
湧いてきます。

どこぞの国の王様だったとか、悲劇のお姫様だったとか、ドラマチックな境遇はワクワクするものです。
そもそも映画や小説を楽しく感じるのは、自分がそれを擬似体験しているところにあるわけですから、
そういう気持ちになるのは当然なのかもしれません。
やはり私たちは、今の固定観念とは違う、未知の世界に憧れる本能があるのでしょう。
ですから、過去世というものも、映画や本を楽しむようにその一喜一憂を純粋に受け入れ、そして
後腐れなくサラッと手放すことで、初めて価値が出てくるのだと思います。
それは心が広がることへと繋がり、中心の「今」がより鮮明になるからです。

ただ、それを掴んで離すまいという執着が出てくると、たちまち百害へと一変してしまいます。
これが最も危険なところです。
とにかく、今の中心の一点から外れてしまわないことが、何にもまして重要になってきます。
そのためには、過去世へ意識を向ける時の心がクリアかどうか、そして現世へ意識を戻す時の心が
クリアかどうかがポイントになります。
映画や本のように、先入観なしの純粋な状態でスッと入って、しがみつくことなくスッと手放して、
現実の今に100%切り替えられるかどうか、ということです。

もしも、その動機が「今の人生はつまらない」「もっと華やかな世界があるはずだ」という現実逃避
だった場合、その旅は「今」をボヤけさせることにしかなりません。
そもそも今世でさえ、色々なことに囚われたり縛られたりしているのに、そこに過去世まで加わったら
いったいどうなってしまうでしょう。
囚われから逃げようとしたら、さらに新たな囚われまで背負ってしまったというのでは、目もあてられ
ません。
どのような人生でも、闇と光があるわけです。
華やかな部分だけを思い出したいというのは、虫が良すぎるということです。

そんな幻想は、現代社会に当てはめて想像してみますと、すぐに冷めるはずです。
例えば、総理大臣や有名人を想像して、それを羨ましいと思えるかということです。
もちろん、明暗全て飲み込んで、それでも代わってみたいと思う人もいるでしょう。
ただ「そんな大変なことはまっぴらだ」と思う人が多いはずです。
そして、まさにそれが、私たちが今の人生を選んできた証明にもなっているわけです。
華やかに見える有名人たちのツラい部分も想像できるということは、既に似たような人生を経験して
いるということです。
そして、もうそれは十分味わったからこそ、今度は平和な人生を歩みたいと願って来たということ
なのです。

ためしに、自分が憧れる前世というものを、可能なかぎり想像してみて下さい。
歴史上の人物、謎の古代文明人、高度に進化した宇宙人、あるいは神界の住人・・・
それらのありとあらゆる明暗を思い浮かべますと、思いは一つになるはずです。
「いろいろ大変だったろうし、いろいろ面白かったろうな」と。

面白く観える人生の裏には、想像もできない大変なことがあります。
もちろん、それをツラいと思うかどうかは本人次第です。
何の囚われもなくそのまま全て受け入れれば、ツラさなど感じないと思います。
ただ、今の私たちのように、様々な固定観念に染まってしまっている視点では、それは受け入れがたい
苦境に観えることでしょう。
進化したレベルならば、苦境から解放されて全てがハッピーなはずだと思うのは甘いわけです。
まさかそんな苦境を経験していたとは思いもしなかったとビックリ仰天です。
むしろ自ら進んでチャレンジな課題を作り出していることだってあるのです。
彼らはそれを苦しみなどとは思わず、喜びと認識しているわけです。
そしてそれはある意味、私たちの姿でもあるわけです。

このように少し想像しただけでも、華やかな人生と思っていたものにどれほど大変な苦労が伴って
いるかが観えてきます。
さらにまた、きらびやかな前世を観てしまうと、私たちの心癖としてすぐに比較が始まってしまいます。
今の世の中ですらアレコレ比較してしまうのですから、そこに派手な人生が加わったならば尚更です。
心はアチコチへと移ろって、ますます「今」に集中できなくなってしまいます。

つまり、前世が大人物だったとか、高度に進化した魂だったとか、そんな理由だけで喜んだり憧れたり
というのでは、上っ面のものでしかなく、今の中心から外れて浮き足立つことにしかならないのです。
これは、”いわゆる”平凡な前世というものであっても同じことです。
どこを観ようと思うか、どこに心奪われてしまうかで、今の現実から逃避することになってしまいます。

今の不遇を思いながら、何一つ苦労もないハッピーな前世を観ると、必ず嘆くことになります。
前世でそういう世界を堪能したらば、次は全く違う世界を選ぶものです。
それは、頭がクラクラくるほどの落差です。
今のツラさから一時だけでも逃れようと軽い気持ちで前世を観てしまったら、かえって現世のツラさが
増してしまったということにも成りかねないのです。
ましてや「今はこんな有り様だけど昔は凄かったんだぞ」と、飯の足しにもならない自己満足を後生大事
に抱えて、いったいどうして「今」に集中することができるでしょうか。

また、前世が生き地獄だった場合は、確かに今の有り難さを深く実感できると思いますが、その苦しかった
感覚を記憶したままで今世を生きることになってしまいます。
それは、現世でのトラウマやPTSDの比ではないほどツラいことではないでしょうか。
そして他の何かが気になっている限り、目の前の今だけに集中してそれを味わうことなど不可能なのです。

一方、過去世の数多くの知識や経験を覚えていれば、もっと幸せに生きていけると思うかもしれませんが、
それらはすべて人間考えの価値判断のもとで、ラクに安全に生きることだけに使われてしまうでしょう。
つまり、狭い視野を守ることに全てを費やしてしまうわけです。
それでは、私たちの囚われをますます強化させていくことにしかならないのです。
そんな人生では、いったい何のためのこの世なのかということになってしまいます。

あるいは知識や経験だけでなく、社会通念や価値判断が無意味であることも理解したまま今世に
生れてきたならば、それらに囚われることもなく生きていけるかもしれません。
ただ、その代わりに新たな苦しみを経験することになります。
考えてもみて下さい。
自分以外のこの世のすべての人が、ある狂信的な教えを信じて誰一人それを疑っていない状況を。
誰と会話をしても、根本のところが毒されてしまっているのですから、まともに通じないのです。
さらには、自分の方がおかしな人だと、まわりから白い目で見られてしまうのです。
ましてや、小さい子どもにその孤独感はあまりにも酷です。
そして、まわりと衝突せず生きていくためには、やむなくその空虚な教義に、ある程度あわせながら
やっていくしかなくなるわけです。
自分以外のみんなが酔っ払っている時に、自分もちょっと酔ったふりをしながら合わせていく・・・
それならば、最初から一緒に酔っ払って楽しんでしまった方が、何の憂いも苦しみもなく、純粋に
今に集中できるのではないでしょうか。

だからこそ、私たちは全てを忘れさせて頂いて「今」に生まれてきているわけです。

今の現実が見劣りしてガッカリというのは、全くもってトンチンカンな話だということです。
今のこの人生こそを、どれだけ望んで来たかということなのです。
平凡でつまらなく観えるのは人間の視界の話。浅い考えでしかないのです。
天地の視点に立てば、これこそが自分にとってのバラエティ豊かなドラマの一つなのです。

ありがたいことに私たちは、貴族も奴隷も、聖人も罪人も、何もかも全てがリセットされて生まれて
きています。
派手な人生、他人から羨まれる人生、あるいは石を投げられるような人生、目も覆いたくなる人生は
これまで散々やってきたし、これからも散々やっていくのです。
今それをやっている人は、まだそれをやっていなかったか、あるいは味わい尽くせてなかっただけです。
つまり、私たちの歩んできた道を、「今」歩いているだけなのです。

今は今です。
今のことをやるだけです。
別の時にやればいいことを、今やろうとしなくていいわけです。
たとえ平凡すぎる人生に観えても、これまでの何千何万の人生と比べると、どれにも似ていない人生
なのです。
それを他人と比較しても、何の意味もないのです。
どうしても自分の人生が平凡に思えて仕方ないというのならば、天地の視点で、自分の過去世と比較
した方が遥かにスッキリします。
どれ一つとして似通っていない過去世と比べると、間違いなく今の人生も独特なことが分かるはずです。
今のまわりの人たちと変わりばえしないというのは、その中に入ってしまっているから思うことです。
過去のいくつもの人生と比べると、今の人生は、めちゃめちゃ変わりばえしているのです。

私たちは今のこれこそを、心から望んで生まれてきたのです。
前世でも来世でもなく、今世なのです。
今世のこの現実こそが、今の私たちにとってのベストな姿なのです。
ですから、今が劣ったものだと決して思わないことです。


一方で、そうした「比較」とは別の理由で、現世を忌避している人もいるかもしれません。

たとえば、子供の頃に過ごした故郷の温もりを忘れらないようなものです。
とりわけ過去世の感覚を覚えたまま今世に来た人は、様々な違和感や疎外感、孤独感にさらされながら
生きるために、その思いは一層強くなるかもしれません。
そういう望郷の念はとても純粋なものだとは思います。
ただ、私たちは別に捨てられてここに来たわけではないのです。
自分で望んで、今のこの状態にあるのですから、それを嫌がってウチに帰りたいと思わないことです。
そこは早いうちに割り切るしかないのです。
孤独の殻に閉じこもらず、やけのやんぱちでもいいですから、外に出て一緒に踊ることがラクになる
ための道ですし、そもそもそれがこの世に生れてきた理由なのです。

また、生まれる前の使命だ何だというのも、思い出そうとする必要はありません。
忘れるというのは、意味があって忘れているのです。
必要があれば思い出しますし、思い出さない時は、使命どおりの流れに乗っているということです。
天地に任せていれば大丈夫なのは、今も昔も変わりません。

そもそも使命というものが、目の前の現実以外のどこかにあるというのは幻想でしかありません。
それは思い出して身を投じるものではなく、すでに身を投じているものの中にあるのです。
響きのカッコよさに惑わされてはいけません。
地味な現実から目をそらすための口実にしてはいけません。
私たちは、今の現実に生きるために、生まれてきました。
今に生きることが、使命なのです。
地に足つけることなくして、その先など無いのです。

一般的に『使命』というのは、生まれる前に自分がやりたいと思ったことです。
他の誰かから託された大きな役目なんてものではありません。
つまるところは、自分自身が自分に託したものです。
大いなる存在が自分に託したなどと思うことが間違いです。
それを言うならば、大いなる存在は私たち全員に「何もかも」託したのです。
使命とかそんな小さなものでなく、その選択権も含めて全てを最初から託しているのです。

他の存在に比べて自分が小さいと思うのは、完全に現世的な考え方です。
「自分」ということが極めて重要なのです。
重いのです。
自分という存在を矮小化してしまうと、意味をまったく履き違えてしまいます。
霊的な見地で、天地と比べてすら(ここではあえて比較を使ってます)そうなのですから、ましてや
現実世界の中でそのような間違いなどしないことです。

今の現実を100%受け入れれば、アチコチへと移り気な心は「今」に戻ってきます。
様々なことへの感謝とともに「今」に溶け込みます。
自分の思い込みや囚われが無くなれば、大河の流れは自然な「今」へと移ろっていきます。
その時その時の「今」に集中していくことが、『使命』を完遂することになるのです。
「使命」という響きから想起される華やかなものなど、味わいも何もない安っぽいものです。
自分が芯から味わえる本当の旨みは、見た目で決まるものではありません。


そしてそこから、西洋的な「すべての人々は祝福されている」ということにも繋がってきます。

私は子どもの頃、なぜ世界には恵まれない人たちがいて、なぜ自分は恵まれた環境に生まれたのか
とても疑問に感じていました。
その人たちは苦しむためだけに生れてきたのかと納得できませんでした。

でも、結局はそういうことだったわけです。
見た目で決めるものではないのです。
良い悪いという人間の価値判断など、後づけのものでしかない。
「今」を刻むことに、世界中のどんな人たちも変わりはありません。
長かろうと短かろうと、恵まれていようと恵まれていまいと、関係なかったのです。
「今」を刻むということに意味があったわけです。

因果応報という観念も、あるいは西洋的な贖罪観念も、残念ながら本質からは目をそらしてしまうものです。
可哀そうな人たち、不幸な人たち、という決めつけがスタートになっています。
それこそ余計なお世話というやつです。
結局は、自分が恵まれている、幸せだという慢心を拭いきれていないのです。

“彼ら苦労人は崇高な使命を全うしている最中なのだ”というのもおためごかしでしかありません。
意味付けや価値判断は、全て無意味です。
最初から意味なんてものは無いのです。
モヤモヤした気持ちを無くしたくて、腑に落ちる理由を探すわけですが、答えなんて見つかるわけが
ありません。
モヤモヤした気持ちというのは「何かの意味が無いと受け入れられない」という心グセが生み出した
ものだからです。
無条件に全てをそのままで受け入れれば、モヤモヤなど無くなります。

お釈迦様は、弟子たちからどんなに問われても、死後の世界を語らなかったといいます。
知ってるとか知らないとか、そういう次元の理由ではありませんでした。
人間は、現世の物事でさえ、すぐに囚われる生き物です。
遥か先の、あの世のことなどを伝えてもそれは新たな囚われにしかなりませんし、フワフワと遠く
ばかり見るようになってしまいます。
あの世が天国だと言えば、現世とのギャップに不満をこぼし、逆にあの世が地獄だと言えば、現世に
しがみついて先々の不安にばかり心を向けてしまいます。
今にとって「今」以外のことは、不要な情報でしかないわけです。
全ては、現実を苦しいものとして現実逃避をしてしまう人が出ないようにするためだったのです。

ただ、それはその時の話で、現代はその次のステップへと進む時期ではないかと、私は思っています。
それは、前にも書きましたように、日本は物質的に満たされた環境にあるからです。
肉体として生きるのに苦しくない時代になっているのですから、心をラクにする方便も変わっていくのが
自然ですし、その方が面白いのではないでしょうか。

今も昔も、目の前の「今」に集中することには変わりはありません。
ですから、アプローチの仕方を変えることにはリスクが伴います。
心を拡大させていく時に中心がどこかへ飛んでいってしまうと、かえって囚われが助長されてしまいます。
ですから、中心の「今」だけは決して無くさないことが最重要になるのです。
そうしたことを踏まえて、改めて前世へ心を広げる方便について触れていきたいと思います。

固定観念や執着・囚われが心を濁らせてしまい、目の前の景色を翳らせてしまっています。
その縛りを解くためにこそ心を広げるのですから、前世へ思いを広げる時は、固定観念も価値判断も
執着も囚われも、捨て去らなくては意味がありません。
ここまで長々と、価値判断や比較判断、現実逃避や囚われを否定して、前世への憧れに水を差すような
ことを書きつづってきたのも、まさにこのためでした。

前世へ心を広げること自体は、私は、むしろ効果的な方法だと思っています。
ただ、一つ間違えると180度効果が反転してしまうので、まさに諸刃の剣と言えます。
ですから、価値判断や囚われを捨てられない限りは、絶対にやらない方がいいのです。
正直、「今」に集中さえしていれば、そんなアプローチは全く必要ありません。

話を戻しますと、前世に興味があるならば、そのいいところだけでなく、嫌なところも全て受け入れる
ことが大前提となります。
華やかな部分だけでは、自己満足に陥ってしまうからです。
心を広げるためには、すべてを受け入れることが大事です。

そうしてすべてを受け入れると、スコーンとその方向が突き抜けた感じになると思います。
突如、壁がなくなり無色透明に広がった感じです。
前世・今世・来世を通じた広がりを、感覚として全身の毛穴で感じます。
時間の隔たりのない無限の広がりを感じることにこそ、前世や来世を追う意味があります。
そしてそこに、現世において天地との隔たりを無くした空間的な透明感も合わさるのです。

それは、縦へ垂直に貫く、時間を超えた一体感です。
そして、横へ水平に広がる、空間を超えた一体感です。

「自分」という狭い視野に縛られない、すべてから解放された状態です。
時間も空間もなく、天地宇宙へ溶け込み、あらゆる方向へ、限りなくどこまでもどこまでも広がる感覚です。
その無限のひろがりの中心に「今」があるのです。
時間も、空間も、その中心は「今」なのです。

前世・今世・来世、そして天地宇宙を貫く全ての中心こそが『今』なのです。
私たちの目の前にある今は、そういう「今」なのです。


実は、前世の細かい記憶などどうでもいいことなのです。
前世の実在を知ることで、時間の隔たりを取っ払えることにこそ意味があるのです。
ですから、前世とか小さい話はこの際、手放してしまいましょう。
この無限の突き抜け感、解放感をイメージして、天地へと全てをフルオープンにしてみて下さい。
そして感覚はそのままで、焦点を「今」に合わせて下さい。天地の中心の「今」にです。
なんだか視界がクリアになってくるのではないでしょうか。

ただ、これをこの瞬間だけで終わらせてはもったいない。

一つ一つの「今」が天地宇宙の中心です。
焦点を合わせるというのは、行動に集中することです。
ですから、時空の垣根を取り払い、天地宇宙へフルオープンのままで、

「今」の歯みがきに集中しましょう。
「今」のドライヤーに集中しましょう。
「今」の食事に集中しましょう。
「今」の心に素直になりましょう。


・・・本当に大事なことは、驚くほど近くにあるものなのです。


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