僕はいわゆる几帳面な人間では無いが、他人の几帳面が嫌いなわけではない。人間こだわりを捨てるのは難しいが、妙なところでこだわってしまう悲しい生き物である。いわば肯定している訳で、バカボンパパに言わせると、それでいいのだ。
時は遡るが、僕は小学生時代、ご多分にもれず小学館の雑誌「小学○○生」というのを読んでいた。ドラえもんの連載のあるあの雑誌だ。付録もたくさんついていて、二三日は熱中して遊べた。
最初に漫画を読んでしまうと、仕方がないので記事のところもだいたい読む。いや、たぶんほぼ全部読んでいたのではないか。興味が無くても、とにかくあらかた読んでしまう。いつの間にか読まなくなったのは不思議だが、あれは初期の雑誌体験だったことは間違いない。
そこで野球選手の話が載っていることがけっこうあって、僕はソフトボールくらいはやったことがあったが、あんまり野球に興味があった訳では無かった。王選手くらいは知っていたが、その時代は田淵だとか田代だとかいうようなスラッガーもいたようだった。高学年になると興味を持つようになったような気がするが、低学年時代には野球中継で見たいテレビ番組がつぶれる方が腹が立った方である。
そういう訳で誰の談話だったのかよく覚えていないのだが、野球選手だったのは間違いがない。彼は僕ら小学生の低学年生に向けて、生活の心がけのような事を言っていた(恐らく記者の紹介文であろう)。しっかり練習を積むことは当然だけれど、普段の生活態度から、しっかりするべきだということだった。まるで先生がいうことと同じだ。つまらないが読み進むと、例えば、自分は必ず心がけている事があるという。そういう生活態度こそが、日頃のまじめさの現れであると言いたげである。それはいったいどんなことであるかというと、その野球選手は、寝る前に必ず明日穿く靴下を事前に穿いたまま寝ているのだという。そうやって準備を怠らない態度が、プロの選手としてやっていける秘訣である、という意味だったように思う。
選手の名前を思い出せないので、うろ覚えには違いないのだが、よく覚えている感じがするのは、その衝撃的な几帳面さの告白内容の所為だと思う。明日穿く予定の靴下をはいて寝るのが几帳面な行いだとは、僕はどうしても信じられなかったのである。むしろ、なんというか、先走ったズボラというか、とにかく奇妙で非常に滑稽ですらある。そうであるのに、この人はそういう習慣をむしろ誇らしく思ってさえいるようなのである。
僕が小学生ながら悟ったのは、几帳面さというのは、必ずしも共通の概念ではなさそうだということだ。ズボラなことをしておきながら、堂々と几帳面だと信じられてるような大人もいることだし、ましてや僕のような子供が毎日主に母親に叱られるようなズボラさなんてものは、あんがいどうでもいいことなのではなかろうか。そういう意味ではあんがいこの野球選手は、いいことを言っていたのかもしれない。
もっともそのために、僕は後の人生で多くの人に迷惑をかけることになっているのかもしれない。すべての責任が名前を忘れてしまった野球選手にあるとは言わないが、かなりの責任の一端はあるのではなかろうか。それともそんな記事を子供に読ませても問題無いと考えていた当時の大人たちというのは、かなりおおらかだったのだろうと思う次第である。