小学生のころからメガネをかけている。高校生の時に運動部だったのでコンタクトにしていたが、結局メガネに戻ってしまった。コンタクトは便利だけど、まあ、段々とメガネでもいいかなと思ったのかもしれない(忘れた)。
そういう訳で習慣としてメガネをかけることは特に苦にしてない。メガネが無いと生活が出来ないので、ほとんど体の一部である。例えば銭湯のようなところでも、洗っている以外ではメガネが無いと移動が出来ない。方向性が決まると外しても何とかなるかもしれないが、見えない状態に慣れてないので、いつまでも我慢できない感じかもしれない。
そういう訳で、たぶんだけれど、僕のようなメガネ人間にとって意外な憧れというのがあるんではないかと思う。それは他でも無く、サングラスなのである。
目が悪い人間がサングラスをかけると、本当に見えなくなってしまう。つまり近眼人間は、おしゃれとしてサングラスの選択が現実として出来ない。もちろんコンタクトなら可能だし、いわゆる近視対応のサングラスを作るという人もいるかもしれない。しかしながらタモリのような人ならそれでもいいかもしれないが、サングラスというのは、一時かければいいという、いわば帽子のようなものである。裸眼の性能の悪い人は、よほど身の危険を犠牲にしない限りサングラスは不適当なのである。
サングラスをしている人が特にカッコいいと感じている訳ではない。おしゃれという側面もあるが、実用の面でかけてみたいという思いがあるのである。メガネの上からかぶせるようなやつがあるにはあるが、何となくかさばる感じがして気に食わない。せっかくメガネに慣れているのだから、普通にかけるようなのがいい。
それというのも、日中にけっこうまぶしくて涙が出るのである。白い服の人の後ろにいる状態もつらい。朝日も嫌だし夕日も嫌だ。冬は比較的ましなんだろうが、強い日差しの時はつらい時がある。軽い吸血鬼の気があるのか分からないが、元気に外にいるというのがつらいのかもしれない。まあ、いつも部屋の中にいたい訳でもないが…。
最近はマラソン・ランナーなどでサングラスの人が増えているように思う。たぶんテレビの影響で、苦しい表情が表に出るのを嫌っているんじゃないだろうか。苦しいことをしているので仕方ないが、テレビや写真というのは残酷なところがある。走りたいが表情を見られたくないというのは人情ではあろう。
そういう表情を見られたくないというような心情にある訳ではないが、一時逃避にサングラスをしている人というのは多いのではないかと推察する。人ごみで一人になる状態は、ひょっとするとサングラスの演出にあるかもしれない。人も寄せ付けづらいし、自分も孤立できそうだ。
目を見て話をするというのは、あんがいつらいことだったりする人もいるのかもしれない。近視の人は、そういう圧力とも日々戦っているのである。いや、もちろんサングラスに何の縁も無く生きている人も多いのだろうから、メガネかけだけの苦悩では無いのだろうけれど。
たぶん選択できないという思いと、無理してまでそうしたくないという思いのバランスが悪いのだろう。サングラスをしている人はそう多い訳ではないのだけれど、やはりその特殊性を楽しんでいることは間違いなさそうに思える。老後にレ―シックでもやりたくなったら選択肢の一つに加えることにしよう。