カワセミ側溝から

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大衆が力を持てば血が流れる   フランス革命・歴史における劇薬

2014-08-14 | 読書

フランス革命・歴史における劇薬/遅塚忠躬著(岩波ジュニア新書)

 フランス革命については良く知らなかった。というか、市民革命で王朝が没落して共和国になったんだろう、くらいの認識しかなかった。そういう面もあるけれど、しかしもっと激しく痛みの伴うものだったということのようだ。確かに革命でギロチンにかけられた人がそれなりにいるらしいことは知らないではなかったが、それはもうすさまじい人々が殺されてしまったようだ。文中これは劇薬だったという表現がなされているが、人間の情熱がおりなす感情の噴出は、血で血を洗うすさまじいものだったということだ。最終的にはナポレオンの軍事クーデターでおさまるわけで、結局何の平和裏に済んだ物語ではない。終始あくまで血生臭く、強烈な激情の革命だったのだ。
 民主的な国家の礎になったことは事実だが、結局は力による権力闘争でもあった。民衆が隆起してさまざまな暴動めいたことがあったわけだが、キーになっているのはいつもブルジョアだった。要するに金を持った勢力がどこに加担するかということで、力のバランスも揺れ動いた。ブルジョアは貴族になりたがったこともあったのだが、貴族はブルジョアを恐れた。さらにブルジョアは民衆をも恐れてはいたが、結局彼らを利用するよりなかったのかもしれない。結果的に長きに渡って政治的には混乱し、多くの勢力の裏切りもあり、多くの人々は粛清された。その痛みはあまりに大きく、最終的に手にした自由の代償はあまりにも大きかったといわねばならない。それでも今となっては必要だったとも捉えられるのは、そのままの社会でよかったわけが無いという考えからであろう。現代になってやっとその痛みの部分の反省も語られるようになっているようだけれど、それでも人々の情熱というものが如何に恐ろしいものであるのかということは、忘れられがちという気もする。あえてこのように検証する書物が、読まれる必要があるということだろう。
 面白いというか現代的にも少し考えさせられるのは、その頃にも多少の制限はあるにせよ、選挙は行われていたということだ。さらに革命前の選挙では、投票率が著しく低かったということだ。政治的な機運が高まって革命に至ったのではなく、大衆は政治的には無関心になり、政治と切り離されたところで生活の不満を爆発させたようなのだ。現代の日本がそのまま当てはまるとは考えにくいが、現代社会においても投票率は下がる一方で、しかしデモなどの行動は先鋭化しつつあるように見える。政治と民衆の視点が著しく乖離していくと、不満というものを解消する術がなくなってしまうのではないか。結局は革命というのは、無法者の自由に暴れる状態が頻発するもののようだ。統制が取れなくなる人間がなにをするかというのが、劇薬の一面なのではなかろうか。政治的手段で改革を行わない行為は、血を流さざるを得ないということのようにも思える。日本の社会運動においてもそれはある意味で似ている部分もあり、大変に示唆的である。現代の政治的無関心がどこに進むのか、やはり注意は必要なのかもしれない。
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