真実の「名古屋論」/呉智英著(人間社)
県民論とか県民性というのは、確かにありそうだ、と思わせるところに面白さがある。冗談として、話のネタとしてなら、そう目くじらをたてるべきものではないのかもしれない。もちろんそれは分かっていながら、やはりひどいものは酷いと批判すべきではある。中にはかなり有害なものがあるということだ。この名古屋論を語る岩中浩史という人はその代表格のようで、自分の無知から始まって論を展開する害悪があるということで槍玉に挙げられてしまったわけだ。居酒屋でどうでもいい話をする分には罪も軽かったが、堂々と本にまでして害を垂れ流した上に、それで権威的にさらに無知なるマスコミが取り上げたりする。目も当てられないという感じかもしれない。血液型性格診断と同じように、無知に付け込んだ悪の連鎖というものを、知識人は放っておいて良いはずはない。まあ、本当は半分冗談ももちろんあるが、そういう正義感の本という事もできそうだ。ついで、というかそれが本文だろうが、名古屋という場所の素晴らしさも同時に理解できる。もちろん、名古屋に限らず、さまざまな地区というものについては正しく評価されるべきものだ。そういうことも同時に考えさせられる内容ではなかろうか。
実は僕もなんとなく騙されていたクチではある。特に恨んではいないが、トリビア的にも楽しめた。名古屋人は堅実だが、結婚式に金をかけ、離婚率も低いと思っていた。というか、そういう話などはどこかで聞いたことがあるようだし、恐らくテレビでも見たことがある気がする。しかしながらそれらはそんなに顕著な特徴とはいえないらしい。都市化が進んだところでありながら血縁を大切にする傾向は多少ありそうだけれど、それは地方都市がそのまま巨大都市化したということでもあって、他の地方都市でも、そういう傾向が残っているところはある。名古屋らしい特色は、案外当たり前のことで、さらに名物などについても、比較的新しいものが多いようだ。恵まれて素晴らしい土地柄ということは言えそうだけれど、それは名古屋的にこの土地の人の気質が生んだものと断定するには、やはり根拠が希薄といわざるを得ないのかもしれない。
もちろんそういうことは、名古屋だけにとどまらないわけだが、しかし、ロマンというか、願望というか、地方にはそれらしき気質があってほしいような気分というのはある。そういうことは考えるべきことかもしれない。人というのは類型化したがる癖のようなものが、たぶんあるのだろうと思われる。または差別化というか。
以前英国から来たという人に、紳士の国からみえたのですね、と話を向けると、「それはよく日本人にいわれるが、大変な思い違いだ」と笑われたことがある。英国人は乱暴で粗雑、マッチョで暴力的なとこがあるというのが定評だというのだ。サッカーのフーリガンを見よ、ということかもしれない。そのときはちょっと驚いたが、そういえば僕らはパンク・ロックに親しんだ世代だ。あれは若者のカウンターカルチャーだと思っていたが、そういう資質のようなものが、もともとあるらしい。いや、いかん。また簡単に類型化しようとしているかもしれない。野蛮だからこそ紳士的にあれと謳わなければならないとしたら、どうなのだろう。日本人が勤勉だなんてのも、今や昔かもしれないし、そういう気質というのは、簡単に語られるものでは本来は違うのだろう。うっかり口にしては訂正ばかりも変だけれど、自戒の念くらいは持っておくべきかもしれない。