氷水をかぶって寄付をする(いや、しない方法もあるらしい)映像は少し前から目にはしていた(かれこれ数か月にはなる)。最初は寄付ということではなくて、単に指名されたらやるか罰金を払うというような、そんな話も聞いた。たぶん発祥を取り違えたものだったのだろう。ちゃんと批判もあって、この流れを止めようとする人の映像もいくつか観たことがある。
ネット上ではそれなりに盛んで、これを有名人がかぶるというので話題になり、波及して素人さんも、頻繁に氷水をかぶっておられるようだ。夏だからというのもあるだろうけど、一種の美談めいた雰囲気もある。ついにテレビのニュースでも流れるようになっており、そもそも難病に対する寄付金を集う成功例というような趣である。やっとそうだったんだと思ったりしたが、日本でも寄付しているということなんだろうか。そういう寄付先という案内は特に無い。要するにやはり水かぶりを楽しんでいるのだろう。
罰ゲームというものとは少し違うらしいが、氷水をかぶった人が、さらに3名指名するというルールらしい。つまりマルチ商法である。強制ではない(当たり前だ)という断りは一応あるらしいが、映像で公表されたら、逃げるという選択はそれなりに勇気が居るだろう。事実堂々と拒否する人は、そのような勇気のあるような人が多い(小泉さんの息子とか)。それはそれで大物感があるけど、一般の人でもこれだとどう解釈すべきか。友人間でやる場合が多いのだろうから、ある種の禍根も残しそうだ。
遊びなんだから、という考えもあるだろう。どこが楽しいのかよく分からないが、準備もいるし、ギャラリー無しだと寂しい。いくら暑いとはいえ、着替える必要もあるだろう。そもそもの問題として、一種のいじめの構図という感じもする。だから強い人しか逃げられないのだろう。それか変わり者か。
もちろん簡単に寄付金が集まらない現状打破を狙ったアイディアという好意的な見方も出来る。事実何億という多額の寄付金が集まっているという。話題の成立の仕方から見て、まだのびる余地もあるのだろう。いかにも西洋的な発想だと思うが、しかしこれを真似する文化も卑屈な感じもする。ノレないとダメなようなこの感覚は、何とかならないものだろうか。
難病に金がかかる現実があるという主張もあろう。しかし一難病ひとつだけ助かればいいのだろうか。いや、アイディア勝負だからそれでいいということなのか。治療法は無く、介護するためということなのか。そもそも必要な目標額はどのくらいで、どれくらいの人に行き渡るのだろう。本当に必要な情報は、実際にはそういうことだろう。
これが出来ない難病の人はどうなるのだろう。以前はよく米国での手術のために寄付金を集めるというのがあった。切実な願いは分かるしお気の毒だが、しかし集まる人と集まらない人がいるのではないか。これが出来る人は助かり、出来ない人は亡くなるのだろうか。もっと広くいうと、癌治療などもそういう側面がありそうだ。保険適用外の治療を受けたいが、ワクチンなどが高額だという。そうなると結局命は金である。発展途上国の人々はどうなるのか。人の命の値段は事実上違うという現実を確かめるためにあるのだろうか。そもそもそういうことは考えないのだろうか。
育児書で有名なスポック博士は、高額な医療費を払い続けた結果、破産した。聞くところによるとそのために寄付を募ったということだった。結果は分からないが、要するに、十分な自宅介護をやりたいがために専属の医者や看護婦を雇った結果高額になり、さらにそれなりに長生きしてしまい、破産に至ったらしい。
もちろん、寄付など無しに我慢しろという理屈を言いたいわけではない。つい考えてしまうということを言いたいだけだ。やりたいことは金が無ければ出来ないという現実に対して、やはりどれくらい向き合うのかということはいえるのかもしれない。ある意味ではそれは限りなく素直なのかもしれない。しかしながら、考えることについては、氷水はなんとなく邪魔をしている。成功しているという事実が、さらに拍車をかけて考えなくしている気もする。本来はそういうニュースなのではないだろうか。
追伸:それでも話題になっただけ良い、という意見にはそれなりに肯定はします。けれど、来年以降は寄付金は激減するわけで、それで有名になっただけ良いというだけの問題では済まないとも思うわけで…。結局難病が周知されることとは別問題だということを露呈しているということを言いたいということは理解してもらいたいものです。そもそも問題は、どのように理解されるかということの方が大切です。だから日々苦闘しているわけで、このような形は、やはり不幸なのではないでしょうか。