Vフォーバンデッタ/ジェームズ・マクティーグ監督
今更ながら何で観て無かったかな、と思うのだが、たぶん僕は刃物で血しぶきが飛ぶような感じが苦手だからだろうと思われる。子供の頃に座頭市や子連れ狼をみていたトラウマかもしれない。といいながら、やはりそういう映画も面白いものが多いので、結局観なくてはならないわけだが…。まあ、この映画もそのひとつといえるだろう。
ずいぶんマトリックスみたいな哲学的な説明の多い映画だな、と思ったらウォシャオスキー兄弟が脚本を書いていた。なるほど、そのようなゲイ的な美的感覚も満載で、これはきっとお仲間がたくさんおられるのだろうということも見て取れた。拷問や血の流れ方も、そのような美学ということもあるのかもしれない。だからキルビルのようにならないということだ。僕はどちらも好きだけれど、やはりどこか馬鹿映画にならず、美しくまじめなのはその為だろう。
背景となっている政治的な物事は、リアルとしては実はどうでもいいというか、それこそが最大の幻想なわけだが、しかしそのなかで戦う動機は復讐で、しかし最終的には共感であるというのがポイントといえばそうかもしれない。扇動される気分というのは、本当に迫害を受けた側への共感でなければならない。復習はある意味で素直な感情だと思うが、多くの場合個人的に内包される側へ向かう場合がほとんどだ。何故なら法律で規制されているから。それが国家であるとか、文化であるとか、とにかく規範的なものである。しかし超法規的に復讐がなされなければならない場合があろう。それは個人的な問題でありながら、社会的に阻害されているもの、なのだ。観たら分かることなのでそれ以上はいわないが、多かれ少なかれ、個人の事情が社会的に阻害される少数者が居る。この場合権力の圧力に晒されているということになるが、実際社会では、もっと具体的でない形で、この世界を支配しているものだろう。そういう比喩を映像化するとこうなるということで、理解が上手く行かない人は、そのような脳内翻訳をすると、見えてくるものがたくさんあるのではないか。いや、感性に任せてそのまま楽しんでも何の問題も無いとは思うけれど…。
ということで、大変に楽しい、というか。とにかく美しく、見事なカタルシスという感じだ。最初の爆発と最後の爆発はかなり意味が違って、最初も驚きは見事なつかみだけれど、最後の美学は完全に確信に応える確かなものだ。ビッグベンが壊されてこれだけ爽快な気分にさせられるという皮肉も飛躍も、この映画だからこそ許される必殺技である。これが米国で無いというのは製作者側の都合もあるとは思うが、むしろそのような美学において必要な要素だったのかもしれない。ナチスしかりヨーロッパ文化しかりである。重厚な歴史があって初めて、新世界は現れる。アメリカ地方ではなしえない、連携を呼びかける意味もあるのであろう。