カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

どちらもやり過ぎには違いないのだろうけど

2015-01-14 | 時事

 フランスの一連のテロ事件で素直に大変だな、と思うわけだが、その反応の少し気になるところがある。まずはテロは困ったもんだと思うし、実に馬鹿げていると悲しい気持ちや怒りは当然ある。それに対して人々が何らかの反応を示すことは当然すぎることだ。むしろテロリストが望んでいることは、社会問題化することこそが第一のはずで、それを信じて死んだということかもしれない。さらにそれを求めて死なせた人にとっては、実にこれが楽しいのだろうというのが何よりも情けないと思う。本当にまじめな人々というのは害悪が激しい。
 それをどうするか問題を考えるのは確かに重要ではあるが、特にテロと少し距離のある日本に少なからずある意見に、やはりテロを生んだ社会批評なりに対する批判が、この機会に出るのがなんとなく気になるのである。イスラム原理主義といわれる人たちを批判すると、命もいとわずテロをする図式というのがあるのは確かである。実際にだからこういうことが起こった。しかしだから自由世界とはいえ、やはり冒涜しすぎるやり方をやったために危機を招いたのではないかという批判は、確かにそうなんだけれど、やはりテロの側の幇助にしかならないのではないか。なぜならそれを悔い改めて批判の手を緩めるのであれば、やはりテロに屈するというか、テロに同調することになるからだ。それじゃあいつまでたっても終わらないじゃないかというのも分からないではないが、しかしいくら批判されようと、テロ以外で反論すべきが、やはりどこかすっ飛ばして論じられていると感じるからだろう。要するに人を殺すような言論の封鎖がけしからんわけで、いくら行きすぎであっても、言論のものは言論でやろうよ、ということが相手に伝わらなければならない。冒涜には死を持って抵抗するという原理主義にそれが分かるのか、分かるはずがない、というのなら、それは既に言論では無く、だから結局戦争である。許せないからテロに戦争で答えることと、まったく無抵抗に言論まで止めることは、実はかなり親和性が高いのではないか。
 対話のできない世界との接触のある世界のむつかしさがある。西側が協調する今のような風潮が、結局は負の連鎖にならないようにするには、暴力を批判し続けるより他にないことになる。たとえ言論が死に絶えたとしても、言い続けることが出来るのか。問題の根本はそこにあるということかもしれない。ただ問題は、それでも死んだ個人はそれ以上は先が無い、ということだ。人間世界の問題は、生きているうちにやるしか無いのである。

 だがしかし、襲撃されたフランスの風刺週刊誌は、通常6万部の発行のものを300万に増やして発行するという。これがテロの代償である。成功したテロは、より一層の神の冒涜を許す結果になったということになるだろう。さらに武力介入も正当化され強化されるという方向性が強くなるだろう。何故2000年以上も戦争をやっているのかの理由は、実に単純だということのようだ。
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