カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

評価をさせたい人に答えたくない訳

2015-01-24 | なんでもランキング

 アマゾンでの買い物が多いので、頻繁にマーケットプレイスでの評価をせよとのメールを貰う。要するに買い物をすると言っても中古ばかり買っている貧乏人に過ぎないという証明でもあるわけだが、問題はそうではなく、これの返答をしたことが無い(と思う)。一番の問題は煩わしいから、という一言で済むのだが、さらに注文やら確認やら、そもそもアマゾンからのメールがスパム並みに多いというのが第一にある。最初の頃は確認していた時代もあったが、面倒なんで開かないで全部消す。時々商品が無くて返金のお知らせだったり、実際に商品が届かなかったり、さらには商品が間違っていることがあるわけだが、年に換算しても数回のことだし、メールで確認が簡単かもしれないが、やはりネットに履歴があるので、結局そっちで確認する。さらにメールだと何の商品だったか分からないことが多くて、ネットだと画像付というのもあって助かる。重さもあるんだろうが、確認メールは便利なようで結局そんなに役には立たないということだ。もっとも仕事や他のことは適用外に役立つから、こと頻度が多すぎるアマゾンについては、という断りがいるわけだが…。
 このような欄を作っていることからも分かるように、僕にだって評価基準に点数を入れたり、ランキングを付けたりすることが嫌いなわけではないとは思う。特に読書は長年の習慣もあるから、自分なりの評価基準のようなものは当然ある。だからランキングすることはわけは無い。むしろ安易だからあえてやらないというのはあるかもしれない。自分の為に書いているものを遠慮することも無いとは思うが、しかし好きなものはともあれ、嫌いなものに0点を付けるというのが、それなりにめんどくさいということがあるような気がする。
 本や映画などならまだいいとは思うが、特に食べ物なんかはそういうことを強く思う。要するに他人がそういうことをしているのを目にすると、かなり不快に思うことが多いからかもしれない。いわゆる品が無いというか、人間性に悖る行為のようにも思える。他人の袖見て何とやらで、やはりそういうのは、やめておいた方が良いと思うのかもしれない。
 評価をするというのはジャッジであって、ある意味で神の行為である。スポーツであれば同じ人間でこれをやるので、審判にも時には評価が下る。しかし時のジャッジは基本的に覆さない。もちろん個人の評価はスポーツではないから別物であるとはいえるわけだが、人間としての越権であるとか、下品さというのはそういうことからくる感情なのではないか。まあ、ダメなものはダメで良いものは良いが、しかし本当にそれは絶対であろうはずは無いものだ。
 しかしながら元に戻るが、これを強制的に評価させようというシステムにつきあうのが単に面白くないだけなのかもしれない。他人に評価してほしい感情に付き合うのはめんどくさいのである。
コメント
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