カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

イスラーム国に加担するな

2015-01-21 | 時事

 イスラーム国による邦人人質殺害警告事件が起きたことで、その周辺で様々な意見がみられる。ただどうする? のみの便乗お騒がせもあるけれど、ショッキングな事件に戸惑うことは普通の反応だろう。これで否応なくテロとの戦いに事実上巻き込まれてしまった日本という図式に、どう考えたらいいのか分からない人も多いのではなかろうか。
 映像の真偽の問題などもあるが、日本人が最低二人は拘束されているらしいという事実も、やはり混乱の原因だ。現在のところ身代金の馬鹿げた額もあって、ただ殺されることだけを待っているという状態なのだが(しかしそのまま殺されるかは未知数だ)、交渉でどうにかなるとかどうとかいうが、それは一方的に相手が決めることに過ぎないだろう。
 しかしながらそれでも身代金を払うべきだという意見もあるのかもしれないが、払えないということ以上に、それは最も危険な行為だという認識もすべきところだろう。犯人の要求に応じる、さらにこれほどの高額に応じるということになれば、このテロは大成功ということになるから、さらにまたこのような事件を繰り返す動機になるだろう。また、本当にお金がわたるようなことになると、当然武器などを購入する資金などに流れるわけで、多くの人を事実上殺す手助けをするという意味にもつながる。もっと多くの人を殺していいというシグナルということであって、そうやってもっと血を流せという解釈にしかならない。要するに、そういう道はもともと無い選択ということになると思われる。
 また、事実上巻き込まれた感がある為に、さらに介入するという道が開けているということも考えられる。そういう部分には議論が必要だが、それはさらに集団的な自衛権とは何ら関係が無い。国際社会では集団的自衛権はどこの国でもそもそも持っているものだ。日本にだけないというのは、著しくバランスの悪い妙な国内だけの論理に過ぎない。そんなことを気にしてこんなことをやっているのなら、彼らはイスーラム国では無く日本人だろう。
 もともとイスラーム国は、多くのイスラム教の人間にとっても敵である。そこのところを今一度認識しなおす必要はあるだろう。過激な一部の人には共感があるのかもしれないが、イスラム教の人間が、このような卑劣な行為を支持しているような誤った考えこそ改めるべきだろう。テロの目的はそのような憎悪の連鎖が第一であろう。
 さらにこのような影響をくみ取れるようにできるだけショッキングに演出しているわけで、実際にこの事に反応して、政権批判をしたり、西側諸国との協調関係を緩めるなどのニュアンスが伝わることが、さらにテロを助長することにつがなることを考えるべきだろう。彼らはテロが成功することを願っているわけで、それはテロによる影響力が及ぶことを指している。政府の足かせになる議論が国内的に沸騰する事とは、事実上イスラーム国との協調の意味と同じであるということを、まずは理解すべきだ、という事になるだろう。
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子育てをしなかった人間の発言

2015-01-21 | 掲示板

 久しぶりにステージ上でスピーチをする機会があった。これがたぶん最後のPTA(育友会)の役割みたいなものかな、という感慨はあったが、だからと言って進んでやりたいわけではない。いちおう原稿を書くように言われて提出し、その写しをコピーして手元にも持っておいたが、しかしその原稿は車の中の鞄に置いてきた。それはいつものことだが、理由はそうしないと落ち着かないから。ある程度退路を断たないと、頼っていけない。
 時間は8分程度という中途半端な枠である。50分程度の時間に4人が順繰りに話をする。会場からの質問の時間もあるらしくて、そういうことになっているのだろう。実は打ち合わせ会議というのが別日にあったらしいのだが、僕は出張と重なり欠席している。当日も打ち合わせと称して会場を事前に見物したりした。僕ら以外にも講演会があったり、アトラクションがあったりする大会である。そのアトラクションの吹奏楽とバトントワリングを披露する生徒さんたちは、午後の出演にもかかわらず、なんと8時過ぎには集合が掛かっていたらしい。ということで、僕らも基本的にはほとんど待ち時間。お弁当もらったので文句を言ってはいけない。
 ということでそのアトラクションも講演も終わっていよいよ出番。幸いなことにトップバッター。確かに妙な緊張感が無いではないが、嫌なことは早く終わるに越したことはない。
 原稿を書いたと言ったが、内容的には同じようなことだが、8分に収まるか自信は無い。司会の人から紹介があって、時計で終了時間をだいたい確認してマイクの前に立った。これも大変に幸運なことに、照明が眩しくて会場がぼんやりとしか見えない。同志の学校の仲間が真ん中あたりにいるらしいのも知っているし、出だしの声のトーンが低すぎたのをなんとなく修正も出来て、やっと落ち着いてきた。とりあえずはなんとかなるだろうと思ったら、〆の冗談もなんとなく浮かんできて、原稿のエピソードのしつこい部分は端折って、別の話を埋め込んで、時計を見たらもう1分前だったので、ちょっと最後は何だっけと思ったけど、まあ途中で思いついた冗談を使用して話を閉じた。いつものことだが、終わってみると少し話し足りない気もする。しかし実際にはもっと聞きたい人なんてそんなにいない訳で、あとはステージ端のテーブルで何を考えて座っていようか。
 話す内容としては、最初なんでそれなりに場がほぐれたりウケればそれでよかったのでどうでも良いとはいえるのだが、実は伝えたいことも無かったわけではない。まじめに強調して言えばよかったかもとは思うが、少し理解しづらいことかもしれないので、やはりそんなに強調しなくてよかったかもしれない。
 それというのも、自分なりの子育てなり考え方なりというような答えは明確に持ってないし、さらに何をやってきたかというのは話した通りで何もしていない。そうして自分が子供に対して何か影響があるかというのは、それでもまったく影響がないわけが無かろうということだ。父親というのは古来、憎悪の対象でもあったように、むしろ悪影響のある存在かもしれないではないか。子供に良いことを伝えたい思いというのは十分理解しているけれど、そういう善意を持っていたとしても、存在自体が悪い影響を与えうる自覚を持たないというのは、逆に問題なのではないか。しかし、そういう悪の存在であろうとも、子供はその影響下にありながら、なんとか育つこともできるということだ。多くの以前子供だった大人たちのように。それが僕なりのメッセージだ。そして言い訳の内容だった訳だ。
 まあでも話通りに伝わらなくてもいいことなんである。なぜならそれでもやはり子は育つ。取り返しがつかないという考えもあるだろうが、実は高校生くらいの人間になると、親の影響というのは微々たるものであるらしい。彼らは既に次のステップを踏んでいるものなのだ。悲しいけれどそれでいい。要は子供より自分のことの方を心配すべきなんだろう。それは自分自身も生きている存在だからということだ。課題はそういう実感が本当にあるのかどうか。それは子供にも必ず伝わるものであるはずだ。既にテーマは決まっているのである。
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