駅前旅館/井伏鱒二著(新潮文庫)
戦後しばらくしてからの、上野駅前にある団体旅館屋の番頭の語りという形をとるユーモア小説である。番頭たちが使う隠語の解説から、団体客で泊まる不良学生や先生の様子、自分の色恋の話などをとめどなく語り尽くすという趣向である。とにかく皆よく酒を飲み羽目を外し、その問題がいろいろな形で騒動になる。思い出話ばかりでは無く、現在の様子として番頭や旅館周辺で暮らす人々の風俗紹介という感じにもなっている。特に一筋繋がった物語という事でもないのだが、取りとめなく語られている風でありながら、この男の運命的な気風のために生まれてくる恋愛話が、ひとつの大きな流れになっている。
現在はこのような旅館というものはすっかりなくなってしまったように思えるが、駅から降りる旅行客というのは、多かれ少なかれどこかに泊まらなければならないだろう。そういう一夜のためには、またいろいろとドラマがあるはずで、そういうものを拾ってみようという趣向が、それなりに面白いのであろう。多少昔の風物になっているところはあるようだが、基本的には人間が織りなすことにそう変わりは無い。それぞれの立場はあるが、何かと競合しあいながらも、どことなく助け合っている。そういうあたりの人情話が、何か落語を思わせるようなバカバカしさとおかしみを生んでいくのである。
番頭仲間には口から出まかせだらけで法螺ばっかり吹いている奴もいる訳だが、そういう彼にも友情があって、いろいろ言いながら見合いの世話を焼こうとする。ところがこの見合いの会にかこつけて自分たちの気になった女を連れての旅行に繰り出すという口実になっていたりする。ところがこれの参加者のある番頭の愛人がこの動きを察知したまま、本妻に告げ口してしまうという事件が持ち上がってしまう。それだけでなく他の番頭の本妻にまで投書してしまったのである。これは旅行どころでは無いという事にはなるが、せっかくの見合い旅行はどうなってしまうのだろうか。
まあ、そのようなドタバタのような人間模様の可笑しみがつづられた作品である。映画にもなったそうで個性派俳優が腕を競ったことだろう。古き良き庶民的な日本人という事なのであろう。