カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

犬を飼うべき男との遭遇

2022-03-02 | Science & nature

 図書館で本を探していると、男性の少し大きな声が聞こえる。誰かを叱責している様子で、おそらく相手は図書館の女性職員なのだろう。時折受け答えの女性の声は聞こえるが、図書館なので低く小さく、内容までははっきりとは分からない。申し訳ない、というようなことは言っているようだ。
 そうした受け答えの後に、男の声はさらに大きくなり、こうしていくつかの本棚の後方にいる僕の耳にも、聞くともなしに内容が入って来る。何しろここは図書館で、誰も声を出して話している人はいないのだ。男は「ここまでこの音量で声が響いているのだから、一階はもっとひどいことになっているはずだ。それをだれも見向きもせず、放置していることに問題がある。あなたたちは仕事をしていないということと同じで、もしくは無能なのではないか」という内容である。皮肉たっぷりに言葉を選んでいるが、𠮟責は厳しい。この図書館の一階はこども向けのスペースになっており、その日は土曜日で、たくさんの幼児を含めた親子連れなどもいる(よく見えないが)様子だった。男の話しぶりから初めて気づいたが、確かに子供たちの声は聞こえる。何をして遊んでいるのかは分からないが、時折大声をあげる子も中にはいるようだ。たくさんの子供がいて、高い声のざわめきが、はっきりした単語の分からないままに響いている。そうしてここは三階の階段そばで、階段から主に下からの声がちょうど聞こえるところのようである。しかし、少し離れた場所にはいくらでも読書スペースがとられていて、そこまでは子供の声は届かない。そうして客観的にこういう状況を考えると、男の叱責の声が静かな図書館の中に響き渡り、かなり神経質な空気とともに、うるさい。
 僕は近づいていって「うるさい」、と、男に注意したい欲求に捉われたが、まだ本棚が陰になって、男や図書館職員の姿は見えない。ちょうど男の声は止み、何か荒っぽく机のものを動かすような音だけが響いた。確かに面倒な状況ではあるが、かといって何かをすると余計にこじれるだろうとことは予測される。僕の欲求のために、混沌が増えるだけのことだろう。それに実際の僕には、そんな勇気や正義感なんてものは無い。あくまでも空想の、「出来たらよい物語」なのだろう。
 この間読んだ本で、著者は、もともと子供が嫌いだったという記述があった。店で子供の声が聞こえると、うるさいと不快になったし、子供が集まる場所にはそもそも近づかないような人間だった。ところが犬を飼うようになり、いつの間にかそういう感情が消えていることに気づく。子供が泣いていると、どうしたのかな? と心配に思うようになる。新幹線などで本を読んでいると、子供の比較的うるさい声が聞こえてきて、以前ならまったくしょうがないな、と思いそうなところなのに、しかしまったく不愉快でないのであった。
 赤ちゃんを抱っこするなどすると、人間は脳内物質のオキシトシンが大量に放出され、幸福感に包まれることが知られている。そうして子供のお世話をしたくなるような、いわゆる母性が働くのではないか、と考えられている。実は犬の頭をなでるなどすると、同じようにオキシトシンがでるのだそうだ。著者は、そのような脳の仕組みによって、以前の自分とは人間が変わったのではないか、と考えていた。すでに調べようが無いが、以前の自分の脳波と今の自分の脳波を調べたら、いろいろなことが分かったかもしれない。
 男に犬を飼うつもりがあるのかどうか、そういう質問をすべきだったかもしれない。もっともこの男に飼われる犬のことを思うと、やはり気の毒な気もしないではない。そういう場合の不幸に、僕は関与すべきではない。探すべき本を見つけ、そうしてそそくさとこの場を離れ、帰宅すればいいのである。
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