カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

キャパとその興味の必要

2013-03-16 | 雑記

 なんか最近キャパの名前をまた聞くようになったな、と思ったら、写真展があるらしいですね。学生時代だか「ちょっとピンぼけ」を読んだことがあるようで、写真が凄いというより、文章が何とも面白い人であるという印象は残っている。戦場写真家という職業がどうこうという気は無いが、結局戦場で死んだという事実からして、なんだかやっぱり少し変わった人で無いと務まらないものかもしれないとは思う。
 だいぶ後、日本でも戦場カメラマンという有名な人がたくさんいるようだと知ったが、やはり需要があるということでもあるのだろう。批判しているのではなく、そういう世の中だからやっていけるというのはちょっと複雑な気分だ。
 キャパが架空というか、二人で一人だったというのは知らなかった。もちろん、もう一人のゲルダ・タロー(岡本太郎から取った名前らしい)も写真家として成り立っている面もあり、しかし名義が混ざったまま人々に知られている写真も多いのだという。さらにその背景も、知られていない事実がいろいろあるらしい。興味のある人は実地に当たって欲しいが、なかなか面白いものである。伝説の人は、やはりいろいろつくられる素地がある訳だ。
 そういう職業があって、さらにそういう仕事に憧れて、つづいて伝説になりたいというか、それでもいいからやってみたいというような、いわば名前を残したいとか、いや、写真そのものを残したいというような欲求があるというのが、そのまま人間の面白さということは言えるかもしれない。いわゆる戦争というものを写真で描く事の意味はいろいろあろうが(あえてそういうけど)、なんと言ってもそれは人間の興味がそうさせているということである。さらに名前を売るためであるとか、生活も成り立たせる必要がある訳で、そういう内面も含めて、ロバート・キャパという存在は、伝説以上の存在となっているのかもしれない。
 いまだにどこかで内戦をやっているところは絶えない訳だし、将来的に終わりが来るものかは不透明だし、あるいは平和というものを保障するためとして、一定の暴力そのものは、結果的にその担保になっている現実がある訳だ。興味が無くなると却って危ないことになるということも言える訳で、要はそのバランス感覚なのかもしれない。自分が死なないでいられることは、誰かの死によって成り立っているかもしれないのだ。
 もちろん、表面的には何の関係も無いお話かもしれない。そのような考え方自体がナンセンスかもしれない。キャパは戦場に行き、死んでしまっただけなのかもしれない。
 しかし多くの人々は、その意味をやはり探ろうとする訳だ。ちょっと胡散臭いところもあるが、しかしそれこそが人間としての真実をいちばん伝えているということにもなる。いわゆるキャパ的なものというのは、どこかに持っている必要が、僕らにはあるのだろうという気がする。
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徘徊の昼(2)

2013-03-15 | 

 急いでいる時にはカレーと決めていた事もある。カレーならルーをかけるだけだから早い筈だ。事実早い場合が多いが、中にはサラダなどがセットになっていて、もったいぶって、順番を待たなければならないことがある。急いでいると告げて注文する必要があるかもしれない。
 とにかく喫茶店のようなところでもカレーくらいはあるということがあって、オフィス街のようなビルの一角でもカレーというのはありつける種類のようだ。妙に凝っているマスターなんかがいたりして、感想を聞かれたりするのが面倒なこともあるが、それなりに旨かったのなら素直に答えれば済むことだ。問題はそうでない場合ということか。
 駅の中にもカレー屋というのは多いようだ。カウンターに並んでカレーを食う。妙に競争心に駆られて急いでしまう。なんで慌ててているのか疑問を感じることは無い。食べ終わって時間が余ったりして、どこでどうして時間をつぶそうか、と悩んでしまったりする。
 水をたくさん飲むので、セルフサービスだと食いかけの雰囲気を醸し出す必要もある。うかつに席を立つと「ありがとうございました」と言われてしまう。もちろんボトルのようなものを置いている店は多いが、ちょうど近くにあるとは限らない。ポジショニングというのも整えておく必要があるかもしれない。
 当たり外れが少ないからカレーを頼んでいるのに、たまにこれは何だろう? という不思議な味のカレーに出会う事がある。世の中には多様性も必要だと思うが、そういうものに当たってしまう不運のことも考慮できないものだろうか。本当にボンカレーである場合もあるが、それはそれで食べることは可能だ。それで無くて何を仕込んでいるのか不安になる味というものがあって、本当に他の人から注文があるのだろうかという味である。泣きたくなりながら、それでも食ってしまう自分が情けない。
 喫茶店系で、ものすごく大盛りの店というのがある。さらにカツカレー系に多くて、地元の若者や労働者に優しいのかもしれない。しかし妙にチャレンジ心をくすぐる大盛りという感じもして、心してがつがつ食うしかない。あんまり量が多くて、途中で食うのにも飽きてしまうことになっても、やはり悲しいかな粘り腰で食ってしまう。誰も褒めてくれなくて、さらに悲しい。
 ただ、急いでいても大量に汗をかいてしまう危険もあって、さらに食った後に電車やバスに乗らなければならない場合があって、汗だくで鞄と背広抱えて人ごみの中にいなければならないのはとてもつらい。急いでいても選択するべきなのかどうか、微妙な分野なのかもしれない。
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墨と日本人のこころ(?)

2013-03-14 | culture

 日本人は墨を使って文字や絵を書くので、最初から書き損じなく書こうとしたり、構成を決めたり慎重になったりする機会が多い。西洋は鉛筆など下書きをしたり書き直したりすることが出来るという違いがある。そのために文化的な違いがあるのではないか。というような考察を聞いて、なるほど、とは思った。そうであるかもしれないし、特に昔の人の考えの中に、そのような考え方がある可能性はあるかもしれない。
 しかしながら、と思うのは、やはり中国からの文化という背景もあることだし、文字を書くのは、西洋でもかねてからインクを使うのではなかったか。
 たぶん主に習字や水墨画の事を指して言っているのだろう。そういう分野はそうだとは思うけれど、構成などは別に習作するということだってあったのではなかろうか。基本的に同じようなものを書いていたということもあるかもしれないし、型が決まるという分野ということかもしれない。書き方そのものが違うように見えて、書く対象について言えば、ひょっとするとそこまでの違いは無いかもしれない。
 僕は中国人の先生に習字を習った事がある。書道家として名のある人だったそうだし、もちろんその字は素晴らしく上手かったのだが、ひとつだけ大変に驚いた事があった。それというのも、書いた文字を整えるために、いわゆる二度書きをするのである。僕ら日本人が先生に注意をすると、「なぜいけないのか? 日本は中国の文化を真似しておきながらおかしなことを言う(大意)」とおっしゃった。一気に僕らから信用を失われた訳だが、面白い先生なのでしばらくは習っていた。字が上手くなる自覚は無かったが…。
 紙や墨に対する考え方は、それを用いるから考え方が生まれるのではなく、考え方をもっているから用い方が異なるということなのではあるまいか。日本人が慎重であったり、二度書きを気にいらなかったりするのは、もっと別の理由があるということのようだ。
 もちろん誰かが言いだしたことを、忠実に多くの人が信じて伝播してしまったのかもしれないのだが、そうであったとしても、そのような考えが好まれる土壌があるということなのであろう。一種の美意識とか、潔さのようなものを、求めているということか。
 しかしながら書き損じをたくさん出すような人にとっては、現代ではエコでは無いということになってしまうかもしれない。さらに完全主義者にとっては、日本文化というのは厄介なシロモノだな、と気の毒にも思うのであった。
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徘徊の昼

2013-03-13 | 

 出張で移動中に飯を食うのがめんどくさい事がある。慌てているのでは無くて、ちゃんと時間はあったりする。しかしながら知らない土地である。店を選ぶ基準をどうするか、ということかもしれない。手早く麺類、ということであっても、日本ではそれなりにいろんな麺屋さんがある。
 以前は関東に関西だと歴然とした店の違いのようなものがあったが、今はあんまり変わらない気がする。アメリカのことは知らないが、アメリカ的な画一さということか。
 蕎麦屋は気をつけなければ、それなりに高価な店であることもある。そんなにいきなり気どった気分になりたくない。しかし夏だと汁ものはしんどくて、ざるにしようと思って入ってしまったりする。そうしてそのように敷居の高い感じだと、なんだか緊張して高い金払って食った気がしなくて嫌な思いをする。そんなに旨くなくていいから、普通にズルズルしたいものである。
 ラーメン屋というのも若い頃にはそれなりに燃えたものだけど、やはり暑いと食いたくないし、さらに背広だとまた食いたくない。いや好きで食ってしまうことが分かっているから、うかつに選べない。寒くても暑くなるのは分かっているので、やはり背広での選択からは外れやすくなる。ご当地だと悩むかもしれないが、出来るだけ名物で無い店の方がありがたい。それに並んで食うつもりもない。のびていなければ不味くてもかまわないが、やはり不味いのはそれなりに残念だ。ということで店先でウロウロするのも何となく恥ずかしい。
 近年はうどん屋が増えたが、増えたといってもチェーンというのは芸は無い。芸は無いが手軽なのはそれなりにありがたくはある。うどんは体調が悪くても食えるということもあるかもしれない。二日酔いだと寄りたくなるようだ。これも特に不味くてもかまわないけれど、関東の黒いスープはやはり少し引く。しかし関西でも黒かったりするので、それなりに注意は必要かもしれない。そういう意味ではあんがい選びにくい分野かもしれない。
 ということで他の分野もそうなんだけど、普通に大衆食堂のようなところがいい感じもする。妙に最近は減っている感じもするし、しかし作業服や背広組が消えていく店(通りから中に入るという意味で)というのがあって、ふらりとついて入っていく場合がある。そういうカンが働かなければ、なかなかウロウロを止めることが出来ずにさまよってしまうようだ。(たぶん、つづく)
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飛行機乗る前に観る選択をすべきだったかは疑問だが   フライト

2013-03-12 | 映画

フライト/ロバート・ゼメキス監督

 アルコール依存症にはどんな人がなるのだろうか。それが分かれば苦労はしないが、しかし分かっても苦労は減らないかもしれない。アル中には自覚があるのかというのは、確実にあるはずだと思う。そのことを隠そうとしているかというと、やはりそうである人は多いだろう。まったく自覚の無いまま、アル中で居られる人というのは、存在できるのだろうか。しかし、そのような自覚というか罪悪感が、さらに飲酒への誘惑と過激さにつながっている疑いもある。時と場合によっては、酒を飲むことは合法である。飲んで駄目だという場合の方が、実のところそんなに無いかもしれない。しかしアル中の人が飲んでいいのかという問題があって、これはかなり明確にいうことが出来ると思うが、絶対に駄目だということだ。アル中が治療で治る例も絶対に無いとは言えないようだが、ほとんどの人は、いわゆる治ることはありえない。答えは100%明確で、アル中である人は酒をやめる以外に無い。酒との相性の悪い人間に生まれたということがすべてあって、人間社会だから飲んでいいということにはならないのである。
 しかしながらやはり誤解があるようで、酒は飲んでもいいのであるから、アル中であろうとなかろうと酒を飲ませようとする環境がある。未成年には厳しくというのは法律だが、アル中をシラフで見分けるのが難しいためか、アル中が飲んでは駄目だということは外部から規制できない。それが最大の問題だと言えて、つまり、本人に止める意思が無ければ、アル中の状態から抜け出すことはできない。さらに厄介なのは、やめたくても、酒はどこにでも手に入る。本人が悪いのは分かるが、しかしその苦しみは、なかなかまわりには分かりえない。いや、まわりも苦しいから、本人から離れるしか方法が無くなってしまうのかもしれない。
 物語はサスペンスで、非常な窮地に陥っている主人公がそれなりに上手く立ち回っている現実を描いている。飲んでいてもこれだけ上手く日常をやりくりできるのであれば、ある意味では問題は少ない。家族が見離したのは、恐らくそれではすまない日常があったはずなのだが、そういうところは、何となく隠されている。普通のアル中は、飲んだせいで仕事が出来なくなるために問題が膨らむ訳だから、そもそもこのような状況を起し得るかどうかが疑問ではある。しかしそれではこの物語自体が成り立たないから、お話しにすらならない前提ということだろう。ならば特殊な例だが、そのおかげでお話は大変に面白くなっている訳で、文句を言うつもりはない。さらにもっと宣伝しておくと、アル中の人こそこの映画は観るべきだと思う。また、そのようなことに関わりの無い、酒に疎い人も見ておいて勉強にはなるだろう。いや、理解できない人もいるかもしれないが、そのような人にとっても、自分に嘘をつかない切実な生き方の大切さは分かるかもしれない。
 人間が生きている社会というのは、それなりに嘘が混ざっていて正常である。しかし、自分自身に嘘をついて生きていくことは、実は大変につらいものがある。嘘をつき続けて生きられるほど、世の中は単純ではないということかもしれない。特に関係の深い間柄において、明らかな嘘の上に信頼は成り立たない。そういう当たり前のことに気づいていないのならば、その人は本当にしあわせなのだろうか? そういう疑問にもある一定の答えが見出せるかもしれないのであった。
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隕石の脅威

2013-03-11 | HORROR

 ロシヤに隕石が落ちたというニュースは、それなりの衝撃度のあるものだった。現場の学生さんは第3次世界大戦が始まったのではないかと思ったとコメントしていた。そういえばそんなことを冷戦時には心配していたものだったな、と思い出した。
 恐竜がなぜ絶滅したのかというのは諸説あるが、最有力は隕石説である。ユカタン半島に大きなクレータが残されているが、その時の隕石(小惑星)が直径10から15キロのものだったと推定されている。これで恐竜が絶滅しなかったら地球の歴史もかなり変わったものになっていただろう。
 そのような大きなものが落ちてくるのは、確かに時間的には稀なものらしい。あくまで人間時間に換算してという感覚の問題に過ぎないにしても。
 近年の隕石の爆発と思われるもので有名なのは、同じくロシヤ(シベリア)のツングースカの大爆発というのものがある。半径約30キロにわたって木々がなぎ倒され炎上したといわれ、大都市に落ちていたら大惨事は免れなかっただろう。というか、都市そのものが消滅したとも考えられる。その時に隕石の破片は見つかっていないが、推測での大きさは3から70メートルくらいではないかといことだ。
 比較するのに適当かはよく分からないが、この度の東日本の震災が1000年スパン程度には発生する災害だと言われている。都市を消滅させうるだろう50メートル程度の隕石の落下は、数百年に一度という程度には落ちてくるものらしい。人間が壊滅的な被害を受けるものは数万年スパンかもしれないが、それであっても近年である可能性は消えていない。大きいものはさすがにある程度見つけて予想できる可能性はあるが、しかし今回のロシヤのものは事前に発見が出来なかった。ロシヤは国土が広いので、このような機会が多かったとも言えて、大抵は海に落ちていただろう(それでも津波などの災害はあろう)事を含めても、人の一生の間に落ちてくる確率は、かなり高いのではあるまいか。
 実は2029年にアポフィスという隕石が地球に衝突する可能性があると話題になった事がある。精密な軌道の計算がなされ、わずかにそれるということが分かったが、まったく影響が無いかはまだ分からない。16年後の事だから、僕でも生きている可能性はあるので確かめることは可能そうだが、楽しみにしていいものかどうか…。
 アポフィスの大きさは300メートルほどと言われ、もしも衝突してしまったのなら、数千キロにわたって被害が及んだだろう可能性があるという。それるといっても、いまだに人工衛星などに影響があるという予測もあるようだ。
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Kanye West - Runaway (Extended Video Version) ft. Pusha T

2013-03-10 | 音楽
Kanye West - Runaway (Extended Video Version) ft. Pusha T


 6分過ぎのエンディングの流れがカッコいいんだな。それまで我慢して聴いて解放される感じもする。まあ、好みの問題に過ぎない訳だけど。
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欽ちゃんが僕に教えてくれたこと

2013-03-09 | 境界線

 もうテレビの時代は終わったとか、今のテレビはすっかり面白くなくかったとか、テレビなんてくだらないものを見ている人の気がしれない、というような事をしきりに聞くようになった。僕自身も大いにその意見には賛同を覚えて、同調路線で悪口を言うこともあるようである。そういう立場でありながらなんだけれど、実はどうでもいいことなんでそう言っているにすぎないところはある。たまには喧嘩しないでおくような処世術も必要だろう。
 それというのも、このような事を聞くようになったのは、あんがい古くて新しいという記憶があるからだ。つまるところ僕が小学生のころくらいから繰り返し聞かされてきたことの様である。漫画が害だというような事と同列に、大人たちは口々にテレビの批判を繰り返してきたものだ。実際当時の番組は過激なものが多くて、本当に今の子供より僕らは得をしたものだったという感じはある。ほとんど胡散臭いとは言いながら、おかげでいろいろ学ぶことが出来た訳だ。
 しかしながら原因というのはそういうものだけでは無い。僕らテレビ世代の人間であっても、本当につまらなく感じているというのは実感かもしれない。考えてみると楽しいとかつまらんとかいうのは個人の感想だから、なぜという根拠がある程度共通の理解が得られる程度に整合性のある理由で無ければ、ほとんど意味の無い事には違いない。大勢でわあわあ言ってうるさいだけだというのは、大勢でわあわあ言っているのが楽しい人には何の説得力の無い根拠である。
 僕が最初にテレビの楽しさに冷めてしまったという自覚をもったのは、たぶん欽ちゃん体験ということがあると思う。
 今の人はコント55号というのは知らないだろうけど、一世を風靡したコンビだったらしい。実は僕も追体験でしか知らないんだけど…。そのコント55号の片われが萩本欽一で、彼が再度一世を風靡した時代があったのだ。週に何本も欽ちゃん関連の番組があって、欽ちゃんがいろんな人を茶化して繰り返して混ぜ返すという内容にもかかわらず、皆お茶の間で、文字通りその一挙一動に笑い転げたものなのである。
 僕自身もご多分にもれず熱中していたようで、欽ちゃん関連のものが巷間にあふれ、僕の高校時代のあだ名まで「B作」と言われるまでになった。まあ、これは事情がちょっと違うが、社会的影響が個人に及んだ実例とは言えるだろう。
 と、そうなんだけど、僕のあだ名が欽ちゃん関連だった所為という訳でなく、実は同時に爆発的に売れまくっているあるピークだった頃に、突然なんだか飽きてしまったような感覚が僕を襲ったのである。そう思って見ていると、いままで面白がっていた欽ちゃんのしつこさが鼻についてくるし、皆が笑っている状況自体が不思議にさえ感じられてくる。いったい僕は欽ちゃんのどこを面白いと思っていたのだろうかという疑問がわいてきて、何一つとして面白いと思わなくなってしまったのだ。今になってみるといろいろと理由は考えられるのだが、つまり見ている僕の方が変わってしまったということなんだろうと思う。
 もちろんいつまでも売れ続けることに欽ちゃん自身も飽きてしまったのだろう。その反動のような感じで、あっという間に茶の間から姿を消して言ったようにも感じた。いや、まさにそういう感じで、僕以外の人々も、一気に欽ちゃんを見捨ててしまったのである。
 そういうことがあった後も、それなりにテレビは見ていたようにも思う。しかしながら、テレビがつまらなくなったという感想は(個人的には)真実ではあっても、あくまでテレビというのはそういうものだと思った訳だ。面白かったのも事実だし、つまらないのも事実だ。面白くなくなったという側面だけが、いつまでも事実でいられるわけがないじゃないか。
 もちろん今の状況は、テレビ以外の娯楽がたくさん登場して、テレビというのは娯楽の王道ではなくなっているという意味で言っている人も多いのだろう。そうかもしれないけど、しかしいまだに王道であり続けていることの方が事実らしい感じもある。以前と違うスタイルや多様化は見られるとはいえ、ぜんぜん終わったものではないだろう。むしろ日本のような高齢化社会では、テレビというものの影響力は増しているようにさえ見える。それはまた別に論じる必要がありそうだが、構造的な多数の選択は、依然テレビであり続けているのが現実である。
 いつまでもテレビじゃないだろう、というのは、やはり社会的な問題以前に、個人の変化の問題に過ぎない。合成の誤謬というやつに似て、個人の事が必ずしも社会と連動しにくい例の一つという気がする。自分がテレビについて行けなくなった人もいるだろうし、テレビを置いて遠くに行ってしまった人もいるだろう。まあ、そういう訳でそういう感想なんてつまるところ何の意味も無いから、みな熱中して悪口が言えるという訳なのだろう。
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年度が替わると先生方は大変だ

2013-03-08 | ことば

 キラキラネームという言葉を知ったのは宇多田ヒカルのおかげだ。政党名の「国民の生活が第一」というのを受けて、ツイッターでキラキラネームと揶揄したとのこと。有名人の発言に盛り上がり報道が乗ったおかげで僕のような人間も知ることが出来た。
 発言の趣旨はまったくその通りで、自分の名前もヒカルというカタカナであることも含めて、面白い空気を作っていると思う。命名にはつけた人にはそれなりに思いがあってのこととは思うが、それを見た人や受け止める人のことをあんまり考えてない場合も多いのかもしれない。自分の子供なら自己満足でも(ある程度は)いいのかもしれないが、政党名にそのセンスはあんまりだというのが、まあ、それなりに普通の感覚なんではなかろうか。ところで今もこの政党ってあったんだっけ?
 僕はキラキラネームとかDQNネームとか言われるものは正直言って気持ちの悪さしか感じないが、ある意味でそういう名前の人がいるのは、出会った時点で先入観が出来上がっていいこともあるかもしれないとは思う。少なくとも親はかなりの馬鹿であることは分かる訳で、遺伝や環境の影響を受けている可能性があるくらいは分かりえるのである。そうでなければ意外性があって好感度もあがる訳で、それもまあ良しとしようではないか。
 将来的な問題としては、いや、既に現在もそうかもしれないのだが、そのような名前というのがそれなりに市民権を得ている社会になってしまっていることではなかろうか。分かりえない事を当然として対処しなければならない社会というのは、住みやすいのか否か。またそのような事を容認している人が多数の社会というものの変貌に、はたして自分自身が適応できるものであろうか。
 しかしまあ、こういうのはあくまで感覚だから、どうでもいい人が多くなれば、さらにどうでもいいという連鎖が起こるということでもあり、さらにそうであるならばと過激になって、読めないどころで無い名前になる可能性もある。
 前にプリンスという米国ミュージシャンが、名前を発音できない記号にしたことがあった。仕方がないから皆「元プリンス」というしかなかった。結局名前は元に戻したようだが、コミュニケーション不能に陥るし、実害の方が大きかったのであろう。
 ちなみにこのプリンスは本名がプリンスで、ある意味では古典的なキラキラ命名の親である可能性がある。いや、実のところ、諸外国の方がこの傾向は既に目が当てられない状況になっているのかもしれない。世界的な馬鹿の連鎖ということであるのなら、やはり何か分かりえない価値観を大切にしている人々が増えているということなのであろう。
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評判のいいのはたぶんその通り。僕以外は観るべきかもしれない   サニー 永遠の仲間たち

2013-03-07 | 映画
サニー 永遠の仲間たち/カン・チョンヒル監督

 うーん、今回はちょっとごめん、という感じはした。悪い映画ではないし、いやむしろよくできているんだろうし、感動できる映画だろうことは予想できる。でもまあ、僕には合わないというだけのことのようである。評判のいい映画だし、多くの人を感動に包むだろうことを考えると、僕の感想なんて、本当に野暮の極みだ。
 ということなんだけど、やはり青春時代というのは、いわば輝ける時代としては貴重なものであるという認識は、たぶん共通感覚だろう。それぞれの個人的な体験でありながら、そこのところは共感の多い物語かもしれない。韓国の女子高というのはそうなんだ!という側面はあるように思うが、いや、考えてみると、分からないではない。学校というのはつくづく多様性のない社会なのかもしれないです。
 音楽の使い方と場面の設定もなかなか上手いものである。十代のころに見た映画の感覚がよみがえって来て、ああ、実はこれが目的で、この映画を再構築したのかもしれないとは感じた。それだけでもいいので観る価値というのは、特化すべきということにはなるかもしれない。
 いわゆる韓国ドラマのアイチ・テーゼという視点はあるようだ。韓国が劣った国だということはないし(政府はともかくとして)、ましてや、韓国国民がおかしい人種ということはまったくないが、やはり誤解を受けるということはある可能性はある。それは将来的に頑張ってくれればいいことで、他国の僕がとやかく言うことではない。また、勝手に彼らが考えてくれればいいことだ。そうでもあるし、だからといって変える必要を感じないのであれば、勝手にやってくれればいいだけのことだ。関係のあることは文句は言うが、好きにしていることに何かを言うほど、僕は精神の曲がった人間ではない。
 しかし、ということを感じるのは僕の後進性の所為だという気がする。つまるところご都合主義が納得できないということに尽きるのだが、せっかくのいい気分を裏切られたような感覚があるのだろう。それは多くの観客には心地よかったはずだということは分かっていて、僕は孤立するしかないのかな、という感じだった。いいところは多かったので、本当に惜しい感じだった。
 時代が行きかうアイディアと、その仕掛けそのものは大変に成功している。お芝居がかった設定も悪くはない。でもどうしても僕には合わない。そのことが悲しい反面、当然という感じもする試金石のような映画でる。詳しくはすでに他の映画でも述べていることかもしれない。傑作という呼び声の高い、しかし僕だけを阻害する目的でもありそうな、映画というしかないのかもしれない。
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劣った生命の身の振り方   できそこないの男たち

2013-03-06 | 読書

できそこないの男たち/福岡伸一著(光文社新書)

 オノヨーコは男女同権に反対なのだという。その理由は「なぜ優れている私たち女が、男たちのところまで下がってきて、平等にならなくちゃいけないの?」ということらしい。
 なるほどその通りだなあ、と同意できるかはともかく、実はこの考えは極めて当たり前のことである。生物的に圧倒的に優れた存在であるのは女の方である。何故ならもともとの完全体は女であり、男は極めて不完全な存在なのだから。
 生物の進化の過程で、生き物としての多様性を模索するために、遺伝情報を運ぶ役割が必要になったものと思われる。いわば使いっぱしりとしての作られた性が男であるのだが、そのためにあまり出来栄えがよろしくないようだ。あり合せの状況で、無理に体を男性化させるしかなかった。女の形を無理に男にするために、体のパーツはどこかいびつである。性器だって独立した用途に使われることはなく、尿の排出と兼用になってしまった。遺伝情報さえ運べば用は済む訳だから、それでもまあいいか、ということなんだろう。
 たくさんの相手を出来る可能性があると喜んでいる男もいるのかもしれないが、つまるところそういう習性に生まれなければ役立たないからに他ならない。考えてみると確かに女というのはその存在自体に価値があるが、男はその用途や能力が無ければあんまり意味がないようだ。相対的な見方で無くとも、代用可能はどちらかというのは、多くの場合明確そうだ。社会的な役割を必死で作ろうとする一生を送っているようで、つまるところ誰かが代わりになるだろう。しかし、女(たとえば母親)の代わりは、意味そのものを失いそうである。
 男は女に利用されるための存在なのだが、そのために用途が拡大したという解釈も出来るかもしれない。おもに子育て支援のために用立てする意味がなければ、あまり価値が高いとはいえない。多くの場合男が値踏みされる存在であるのは、そのためかもしれない。性格なんて付属的な要素とも言えて、結果的にそれなりだったらいいだけのことかもしれない。
 若い頃には、男という存在がどうしてこう女と比べて不幸そうに思えるのか不思議な感じもした。男が威張っているとか、女は損だとかいう声を聞いた覚えはあるものの、当の本人の実感としては、男というのは悲しい感じがぬぐえない。多くの男の作家たちが女たちを欲する戦いの話を書き、そしてやぶれて嘆き悲しんでいる。女の作家は今でこそたくさんいるが、職業として副業のあてがあったからという感じではないか。
 まあ、個別のことはいろいろと幸不幸に偏りはあろうものの、全体像の平均を取ると、男はいつまでたってもつまらない一生を我慢してやり過ごそうとしており、女というのは厳しい境遇でも楽しみながら生きているような感じである。おそらく笑う時間で比較すれば、相当な差が出てしまうのではなかろうか。
 そういう運命づけられた不幸を背負っている事実を知ることは、ちょっと程度には慰めになるかもしれない。なんと言っても、本当は自分だけの責任では無いかもしれない。能力やら競争やら巷ではさまざまにいわれているけれど、生物として劣っているのなら、生まれた時点でその不幸は確定していたのである。
 そこで諦めるか、かえって奮起する気持ちになるかどうかは選択出来る。それを、希望と呼んでも叱られることは無かろう。劣っているなら、その分努力するしか道は無いのである。
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几帳面な心がけ

2013-03-05 | 雑記

 僕はいわゆる几帳面な人間では無いが、他人の几帳面が嫌いなわけではない。人間こだわりを捨てるのは難しいが、妙なところでこだわってしまう悲しい生き物である。いわば肯定している訳で、バカボンパパに言わせると、それでいいのだ。
 時は遡るが、僕は小学生時代、ご多分にもれず小学館の雑誌「小学○○生」というのを読んでいた。ドラえもんの連載のあるあの雑誌だ。付録もたくさんついていて、二三日は熱中して遊べた。
 最初に漫画を読んでしまうと、仕方がないので記事のところもだいたい読む。いや、たぶんほぼ全部読んでいたのではないか。興味が無くても、とにかくあらかた読んでしまう。いつの間にか読まなくなったのは不思議だが、あれは初期の雑誌体験だったことは間違いない。
 そこで野球選手の話が載っていることがけっこうあって、僕はソフトボールくらいはやったことがあったが、あんまり野球に興味があった訳では無かった。王選手くらいは知っていたが、その時代は田淵だとか田代だとかいうようなスラッガーもいたようだった。高学年になると興味を持つようになったような気がするが、低学年時代には野球中継で見たいテレビ番組がつぶれる方が腹が立った方である。
 そういう訳で誰の談話だったのかよく覚えていないのだが、野球選手だったのは間違いがない。彼は僕ら小学生の低学年生に向けて、生活の心がけのような事を言っていた(恐らく記者の紹介文であろう)。しっかり練習を積むことは当然だけれど、普段の生活態度から、しっかりするべきだということだった。まるで先生がいうことと同じだ。つまらないが読み進むと、例えば、自分は必ず心がけている事があるという。そういう生活態度こそが、日頃のまじめさの現れであると言いたげである。それはいったいどんなことであるかというと、その野球選手は、寝る前に必ず明日穿く靴下を事前に穿いたまま寝ているのだという。そうやって準備を怠らない態度が、プロの選手としてやっていける秘訣である、という意味だったように思う。
 選手の名前を思い出せないので、うろ覚えには違いないのだが、よく覚えている感じがするのは、その衝撃的な几帳面さの告白内容の所為だと思う。明日穿く予定の靴下をはいて寝るのが几帳面な行いだとは、僕はどうしても信じられなかったのである。むしろ、なんというか、先走ったズボラというか、とにかく奇妙で非常に滑稽ですらある。そうであるのに、この人はそういう習慣をむしろ誇らしく思ってさえいるようなのである。
 僕が小学生ながら悟ったのは、几帳面さというのは、必ずしも共通の概念ではなさそうだということだ。ズボラなことをしておきながら、堂々と几帳面だと信じられてるような大人もいることだし、ましてや僕のような子供が毎日主に母親に叱られるようなズボラさなんてものは、あんがいどうでもいいことなのではなかろうか。そういう意味ではあんがいこの野球選手は、いいことを言っていたのかもしれない。
 もっともそのために、僕は後の人生で多くの人に迷惑をかけることになっているのかもしれない。すべての責任が名前を忘れてしまった野球選手にあるとは言わないが、かなりの責任の一端はあるのではなかろうか。それともそんな記事を子供に読ませても問題無いと考えていた当時の大人たちというのは、かなりおおらかだったのだろうと思う次第である。
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必死の形相で頑張ってみよう

2013-03-04 | culture

 マラソンの川内優輝選手の活躍は、本当に素晴らしいものだと思う。定時制高校の事務をとる傍ら、市民ランナーとして走りながら日本を代表する選手であるという特殊性もさることながら、やはり何と言ってもその走っている姿そのものが、多くの人々に訴えるパワーを持っているということだと思う。はっきり言ってその苦しい表情のまま走りきるというヒヤヒヤ感と、好成績を達成する爽快感の両方が素晴らしいのだ。
 実際のところ組織的なバックアップのある実業団の選手を差し置いていい成績を上げ続けていることは、関係者にとっては決して都合のよいことではないだろう。しかしながらそれは世論の一部が、そのように強い選手を育てられない組織を暗に批判したり、または川内選手のようなそうでない立場というものに肩入れして喝采をおくったりすることのバランスにあるようだ。それを受けて組織側が妙なメンツを傷つけられているからに他ならないからで、本来の川内選手の素晴らしさの本質とは違うものだという気がする。
 特殊な環境にありながら勝つことは爽快でもある半面、しかし組織に属しながら鍛錬を積む選手の阻害につながるために頑張っている訳ではなかろう。いろいろな選択の中やれるという可能性を示すことには意義はあろうが、やはりバックアップがあった方が普通の人には力を出しやすいだろうことは容易に想像できることで、むしろ川内選手においては、無理をしながら寿命を削ってしまうのではないかという心配さえ感じるのである。自分自身が自由に生きるというのは、マラソンのような競技を続けることにおいても大変に困難だということは言えて、日本の様に陸上競技というものの関心の高い国であっても、環境が個人を苦しめている要因であるというのは間違いのない問題だという気さえする。
 ところであるブログで、川内選手の表情が日本という国というものの印象さえ変える可能性があるのではないかという指摘を読んだ。どのような印象を持たれているのかというのは確かに自国民にとっても影響のあることかもしれないが、なかなか面白い指摘ではないか。
 日本という国は、何かと誤解を受けている可能性というのはあるだろう。気にしなければいいことだと一蹴してもいいけれど、出来ればいい印象を持たれていることに越したことはあるまい。そういう中で日本の代表である川内選手が、苦しい表情をしながらも最後まで頑張る姿を世界中の多くの人に見てもらうことで、日本人そのものの頑張りという良い印象を生むことにつながる可能性は無いとはいえない。ブログ主においては、川口選手のような素晴らしさは、日本人の持つ素晴らしさの特性の一面を表していると感じてのことなのだろう。
 しかしながら僕は、やはりここでふと思うのである。多くの国の人々は、やはり日本人という属性を持つ川口選手そのものには感動をしても、日本人全体が、同じように頑張っているとは思わないのではあるまいか。アベベ選手が素晴らしくても、エチオピア国民が必ずしも素晴らしいと感じないのではなかったか。
 やはり川口選手の属性と日本人の気質とは、基本的に何の関係も無いことだと思う。日本人の多くは、たぶんあんまり歯を食いしばって必死の形相で頑張る姿というのを他人には見せない人の方が多いのではないか。いつもそのように苦しいというのも問題があるし、アピールが良いから出来ることであれば、やはり最終的には他の国に敵わないような気がする。いっそのことみんなで表情を崩して頑張ってみようというキャンペーンを張ることが出来れば、少しばかりは効果がありそうだが、そういうことは、たぶん全体的に支持されないのが日本という国なのではなかろうか。
 川口選手に勇気づけられた人々が、それぞれの部署で同じように頑張っていく。つまるところそういう地道さしか無いような気がする。そういう気持ちが共通ならば、可能性は無くは無い。アピールというものはそのように難しいもので、分かる人には分かるというだけでは、やはり厳しいものがあるということだけは、確かそうなのであった。
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究極の選択を選べるものだろうか

2013-03-03 | HORROR

 気球の事故のニュースに心を痛めた人は多かったことだろう。ほとんど悪夢のような状況にいたたまれない気持ちになる。亡くなった方々においては心からご冥福をお祈りしたします。
 最初はエジプトということで、テロではないかという予感が走った。報道のほうもなんとなくはっきりした感じがなかった。因果関係などを考慮したせいだろう。管理面においては問題があったようなことはあるようだが、テロという可能性は低くなっているように見える。いいとか悪いとかという問題ではないが、勘違いの思い込みで犠牲が増えるのはやりきれないことである。
 実は僕がこの事故において気になるところは、感情的な部分なのである。タイタニックでもそうなんだけど、このような事故現場に遭遇した時に、いったい僕はどういう行動をとることになるんだろうか。気球自体が恐ろしげだということはあるかもしれないが、せっかくエジプトくんだりまで観光に来て、そのような観光オプションがあるというのであれば、僕の性格からすると、まちがいなく乗っているに違いないのである。亡くなった日本人の二組の夫婦ということであるが、僕だったら乗りたくないというに違いないつれあいを必死に説得するだろうとおもうのである。そうして重大な事故に遭遇してしまう。操縦士は火だるまになって先に気球から飛び降りてしまう。爆発が数回あったということだから、ほかの人も火に包まれていたのかもしれない。軽くなった気球はさらに高度を上げていく。乗客が具体的な行動をとれたとは考えにくいが、もうだめかもしれないという状況において何をすればいいのか。ダメかもしれないと思いながら、火の具体的な苦痛と高所というどうにもならない場所にいるということになると、選択できるのは死に方のスタイルのみということかもしれない。つまり飛び降りるか焼け死ぬか、待っていて結果的に落ちて死ぬかである。いや、その選択は終わってみての選択だからすべては不確実だ。絶望的に見える状況の中、選べないという選択こそ、自然と考えるべきかもしれない。
 具体的に自分自身に火がついていたのであれば、飛び降りるということはあるかもしれない。しかし本当につれあいを残して自分だけ死ねるのか。もしくは相手が楽に死ねる方法を考えることはあるんだろうか。そう考えたとしても実行できるかも不明瞭だ。結果的に落ちていくことになるときに、何を言うべきなんだろうか。予期してない時に言うべきことなどあるのだろうか。
 事故で命が助からないというのであれば、できる限り一瞬であってほしいと思う。選択の余地のないほどに死が訪れるのであれば、考える必要もないだろう。爆発か何かで最初から死んでしまっていたというような、そういう被害者になれるものならなりたいものだと、無責任な僕は考えてしまうのだった。
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集落の自警団

2013-03-02 | HORROR

 非常にローカルな話なんだが、職場のある集落において、いわゆる変質者というのが出ているらしい。具体的な被害は、昨年末からどうも二件ほどあったらしい。特にその一軒は悪質で、風呂上がりで下着姿でいた女性に、覆面をかぶった男が抱きついてきたのだという。詳しい設定はよく分からんが、とにかくそれで逃げてしまったようだ。
 うちの職場にも男性は居るので、刑事が「いちおう」と言いながら聞き込みに来た。二十代前後の人間だけを見て回っていたので、つまり犯人は若い男性であるらしいというとなんだろうね。一通りどういう人間が居るか、顔を見たりして帰って行った。
 また被害が起こるといけないし、やはり気持ちの悪いという声も多くて、自警団というものが組織されたものらしい。定期的に見周りをしたり、夜間に当番を決めて巡回したりしているのだそうだ。僕も近所を散歩するので疑われている可能性はあるが、まあ、今のところ呼び止められたり、捕まったりしたことは無い。ごくろうさまだとは思っております。
 ところが先日、どうも若い男が二人乗った白い車が、ちらほら山道のあちこちに駐車したままでいるらしいという情報が入った。自警団には臨時招集がかかり、挟み打ちして尋問すべきだということになった。山の上の方と下の方から車で行き場を固めて、数人で車に近づき窓を叩いて「ここで何をしているか」と問いただしたのだという。中にはやはり若い男性が二人乗っていて、「今張り込み中です」ということだったそうだ。
 つまり事件を受けて刑事が巡回したり張り込んでいたりしていたものらしい。お互いバツが悪い思いをしたということでありました。
 もっとも現在もまだ犯人が捕まっている訳では無いので不安な日々が続いている訳だが、こういう捜査はお互い協力してやった方がいいような気がしないではない。言えないこともあるんだろうけど、何となく容疑者もいるんではないかということだった。もっともこれはなかなか確信が無ければうかつに言えることではないので、ますます慎重になってしまうということもあるんでしょうね。
 はたして続報を伝えることが出来ますかどうか…。皆さんもくれぐれもご用心を。
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