AWA@TELL まいにち

南山大学で、日本語教育に携わる人材の養成を行っています。ホームページも是非ご覧ください。

成人の日を前に

2020年01月12日 | どーでもいいこと
20歳の時の自分は、漠然とした不安の中にいた、と思う。

大学の授業はそれなりに面白かったけど、就職活動を始める友達、教員採用試験に向けての勉強をする友達などを見て、

自分は日本語教師になりたいという思いばかりが募り、

インターネットなどはなかったから、本屋に行って本を読むんだけど、『月刊日本語』『日本語ジャーナル』アタリしかなくて、大学院受験案内という本を買ってきてめくっても、日本語教育が学べる「国公立」の大学院がどのくらいあるのか、よくわからなかった。

結果として、大学4年生の時に、筑波大学大学院、名古屋大学大学院を受験したんだけど失敗し、

一年浪人して、筑波大学大学院、名古屋大学大学院、富山大学大学院を受験して、富山大学大学院に進学したんだよね。

受験に失敗した時もしんどかったけど、それは、見守ってくれていた両親も同じだったと思う。

父は、学費や生活費を捻出するために、自営業のお店を母に任せ、会社勤めを始め、

母や、お店を切り盛りしてくれていたけど、癌が見つかり入院手術、という運びになった。

高校時代から奨学金を借りていたけど、大学では、金利のつかない第一種と金利のつく第二種を併用していただいて、アルバイトで月8万円程度稼いで過ごしていた。

富山大学大学院に在籍していた時、両親からは、故郷の防府市役所や山口県庁の公務員になることを熱心に進められた。

2年目の夏には、県庁の受験の申し込みはしたものの、帰省して、「受験しない」と告げて、博士課程の進学を目指した。

博士課程では、筑波大学、大阪大学、広島大学を受験して、広島大学に合格。

そして、ご縁をいただいて、韓国で働き、韓国で妻と知り合い、帰国後、博士論文を提出、学術振興会のPDに採用、就職も見つかり、結婚してPDを辞退、就職した。

今振り返って思うのは、

両親が慣れないことまでして夢を応援してくれたこと。

自分が、頑固に夢を捨てなかったこと。

この二つが、今の自分の基本になっているんじゃないか、ということ。

そのどちらかがかけていたら、きっと、妻には出会えず、子どもたちにも会うことはなく、こうして、大学で夢をかなえている状態ではなかっただろう。

子どもたちが、成長して大学受験をする年になり、

僕も、子どもたちの夢を応援したいと思う。

そして、20歳だった自分に、

あと10年踏ん張ったら、夢がかなうよ、と教えたい。

30年たったら、こんなことしているよ、って。

韓国で教えたのは26、27歳の時。

博士課程に入学したのは、25歳の時。

たかだか5年、6年のこと。

20歳の時の自分にとっては、人生の四分の一だけど、今の自分にとっては10分の一。

価値が違うよね、重さが違うよね。

でも、あと10年踏ん張るんだよ。夢に手が届くから。

刈谷市の下宿で悶々としていた自分に、夢の中でいいから声をかけてやりたい。

もう30年、たつんだね。

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