秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

奥祖谷夏の残像

2008年08月23日 | Weblog
夏山の熱き想いを朝な夕なに祖谷の山々に祈りて
しずかに山中を彷徨い歩いて自然に還りたい
風が流れて初秋の匂い、夏の残像を包んで行く

自然、山、花、風、雲 の時空間に私を委ねて流れるままに生きていますと
なにを感じているのだろう、山は、花は、風は、雲は と
いつのまにか私は が無くなっています。

自然界はいま受難の時代のような気がします
人間が主体で自然界を見ている思想からきているのではないでしょうか
個人主義をはき違えているのでしょう、私が主体の思想が極端に主張されます

それは登山においても例外ではなく、私が歩いたルート、私が見た綺麗な花として
強調されて情報化され流れてゆきます。

「山には、花には ひと夫々の楽しみ方がある」と 人間主体の思想で人間に
都合のいいまやかしの主義、人間の欲望を満たすためのわがままな言い草。





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奥祖谷夏の残像

2008年08月23日 | Weblog
消費生活が当たり前の社会になりますと消費しない者は罪悪感を催すのでしょうか
犯罪にさえ新商品が現れて真似をする不届きものさえ出てきました。
この消費社会に居りますと忙しいのなんの、暇にしているのが悪人のように思われるのでしょうか、時間さえ大急ぎで使いきろうとしている人が多いことか。

そんなこんなの生活をしていますと人は段々と欲望が膨らんできて並大抵の
欲望では堪えきれなく貪欲に消費しようと必死になり、為政者、企業の思う壺
に嵌ります。

「足るを知る」という言葉がありますが、それは昔の言葉になってしまい今は
「欲望を奪い取ろう」が旗印、なんとも殺伐とした風景になってしまいました。

人の貪欲な欲望は祖谷の山々にも及んでいます
いたるところに付けられた登山道、それを真似する人達によって段々と広がりを見せ、はげ山になりそうな勢いですし、貴重な花々は踏み荒らされて花の墓標がいたるところに立てられることでしょう。
ネットや口コミによる情報が大変なスピードで伝わり押すな押すなの入山ですが
「10人寄れば10人の山、花の楽しみ方があり、文句を言うな」を合言葉に
貪欲な欲望を満たそうとしているのでしょう。
この言葉には魔力があって、これを突きつけられると誰もが逃げ腰になって鉾を納めるようです。
欲望を抑える事が出来なくなった花ずきな人達は先日に撮った写真が出来が悪かったからというだけで二度三度と足を運ぶ人もいますが、これはもう花が好き、花を愛すると云ってはいても花の墓標を立てるのに夢中になっていて呆れるばかりですが
今年は無理でも来年また写真を撮りに行こうなどと平気でおっしゃっています。

一度見れば3,4年待てないのでしょうか、そのようにみんなが心がければ
花へのダメージを少しは減らせるものを腹立たしく思います。
花ずきのおばあちゃん ターシャーの言葉に、「じっと我慢して待っていれば
素晴らしい花園に出逢うことでしょう」と云っているのに。


長年の消費社会から抜けられない私たちは自然、山、花を消費物としか捕らえられず、特に花はペット化される傾向にあり、ちやほや猫かわいがりしてポイ捨て当然荒らされてゆくことでしょう。
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奥祖谷夏の残像

2008年08月23日 | Weblog
久保林道の木陰に腰を下ろして山々と霧の流れを眺めてぼーとしていることが好きでときには1時間あまりもじっとしています。
街の喧騒の渦のなかにいますと翻弄されて物事を考える事すら億劫になって
しまいますが、祖谷の山々に囲まれて時を過ごしていますと今まで見えなかった
諸々の事柄が見えて考えさせられることが多くなりました。

現代の消費生活社会をみて怒涛のごとく押し寄せる新商品や便利商品(企業のいう)を当たり前のように消費して捨ててしまう私たちの生活はほんとに豊かなのでしょうか。

経済至上主義の資本社会に人は翻弄されているようで私には納得できないのです
すべての物質、精神は消費のために存在しているを旗印に現代が動いているようです。
米国、日本、中国、インドなど東南アジア、欧州そしてあの精神至上を大事にしていたフランスさえ転向して一丸となって渦巻いています。

このようなことはほんの数十年前から徐々に浸透してここにきて怒涛のように
渦巻き、為政者、企業、人間を飲み込んでいます。

この精神が当たり前に為るのに時間は掛からずあっという間でした、で為政者は
国民を消費するものとして為政し、企業も右へ倣えで金儲けの対象としか考えず
そのなかで生活する私たちもまたすべてのものを消費するものとして捕らえて
平気なのかもしれません。

偏見の塊のような私のたわごとですが、消費社会から一歩身を引いて祖谷の山中
で生活していますと色々なことを考えてしまうのです。
祖谷ではおよそ消費とは縁遠い生き方をしていますが、なにしろお店は所々に2,3軒あるのですが、品数があまり無くてお金の使い道がない、池田の街に出かけようにも1時間30分は掛かりおいそれとは行けませんから、家にあるもので済ましますし、近所からの差し入れや自分で工夫して遣り繰りしています。

水道はなくて湧き水を台所に、洗面所は外にホースを引きドラム缶を半分にして
水を溜めて使い、便所は外にあり勿論水洗ではありません
気候のいい時は快適ですが、冬は大変です、50センチぐらいの積雪で雪が降っていますと雪を被りながらの洗顔、寒くてふるえます。

このような生活から街に帰りますとなんとも味気なくて息苦しく、おおよそ豊かな
消費生活とは縁遠くて、みなに囲まれているにも拘らず孤独を感じて祖谷に還りたい思いに駆られる始末です。
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