秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

空の標   SA-NE著     再掲載

2016年04月22日 | Weblog

追憶 格子戸の家

私には、もうひとつの、故郷がある。
佐賀県
唐津市。
父は、亡くなる一年前、36年ぶりに故郷の地を踏んだ。
高校卒業と同時に、長男で在りながら、家出同然に、故郷を捨てた。義理母とのぎくしゃくした関係、腹違いの弟。
父は居場所がなかったのだ。
父は、膨大なみかん畑を持つ、名主の長男として産まれた。

父が消息を絶ち、数年して、祖父は日本中の役所を、一件、一件電話で尋ね捜した。
父も父で、祖谷に疎開してきた事を知らせる、手紙を数回出した。

なぜか、祖父の手元には、手紙は渡されていなかった。
皮肉にも、祖父が父を捜しだせたのは、父が亡くなる一年前だった。

父は、幼い私に、
「唐津に帰りたいか?」「必ず、唐津に帰るばい」
なんの話しなのか、最初は解らなかったが、父は自分自身に、言い聞かせるように、私に話して聞かせた。
大島という島のまわりを、一人で泳いだ事、広いみかん畑の事、義理のお母さんが実子だけを可愛がった事、唐津の、青い青い海の色。
帰りたかった、故郷と繋がった日、父は私を故郷に連れて行った。
箱入りの洒落たお土産でも、持っていけばいいのに、父の土産は、『祖谷豆腐』

『これが1番たいっ!』
そう言って、新聞紙に豆腐を何回も包んで、段ボールの箱に入れ、ビニールの紐できっちりと十文字にしばる。
駅で、父の段ボール姿は、かなり、目立っていた。

朝、1番のバスで村を出て、唐津に着いたのは、夜だった。

初めて訪れた唐津。
初めての親子旅行。

今でも覚えている。
薄ら明かりの下に、格子戸があった。石畳みを少し歩くと、玄関にたどり着く。

幼い私でさえ、感じとった、気まずい雰囲気。
歓迎してくれていたのは、祖父だけだった。私はなにもかもが、ただ珍しかった。
知らなかった、いとこの存在。初めて逢った、おじいちゃんの顔。おばさんは、祭の用意で、台所と思われる場所を、忙しく動き回っていた。
その祭が、父から再三聞かされていた、
『唐津くんち』だった。
あくる日、父と私は初めて別行動を取った。私は、いとこと四人で、お祭りの屋台を歩いた。いとこの九州弁は、聞き取りにくく、私は何回も聞き返した。
何かを聞き返す度に、四人で大笑いした。
父は、あの日、祖父と何処に出掛けたんだろう。

翌年の夏休み。
今度は、祖父が、我が家を訪ねてくれた。
私の夏休みに併せ、しばらく滞在してくれた。
教えてもらった訳でもないのに、
私は、祖父を呼ぶ時も、手紙を書く時も、『おじいちゃん』と呼んだ。
祖谷の祖父は、『じいやん』だったのに、
なんか、可笑しく想いだす。
私は、それから後に、父亡き後、四回、
唐津の地を踏む事となる。


追憶 おじいちゃんの涙
《 拝啓ご無沙汰いたしました 唐津方面十七 八 九日雪ふりました 祖谷も雪がつもって居ると 思て居りました
唐津お国じまんが来て放送しました事見て居たかと思ました 其の時ねて見て居りました 店の客有りますかと思って居ります
御母様の云つけを聞くのが 子供のつとめで有ります 学校居てますか 手悪くて今だに 骨付にかよって居ります 夜 うづいてねむれません さよなら ( )》


祖父は、筆まめな人だった。
父を亡くしてから、祖父が他界するまで、八年間。度々、手紙や、みかんを送ってくれた。
最初は、母と私宛てになっていたが、晩年はすべて 私宛てだった。
身体の具合が悪くなって、床に伏せる日が多くなった。
封書は、やがてハガキに変わり、ハガキの文字は、震えていた。
さいごに必ず、さよなら 〇〇〇 と私の名を綴る。

私の返事が遅れると
『便り、おくれ』とハガキが届く。
その頃私は、高校生。初恋の真っ只中。返事が遅れても、無理もなかった。

高校三年の、秋。
唐津くんちに来るように、祖父から便りが届いた。
私は、母と叔母を連れて唐津を訪ねた。
今でも、叔母さんは、『唐津はよかったのー』
と言って、懐かしがる。

次に訪れたのは、
祖父が亡くなる半年前だっただろうか。
唐津の叔父さんから、電話がきた。
祖父の容態が悪い、私に逢いたがっているとの事だった。
母は、親類からお金を借りて、私を唐津に行かせた。

その旅は、祖父との最期の、時間になった。小柄で、足が達者だった祖父が、寝たきり状態に、なっていた。
介護疲れなのか、叔母さんは、イライラしていた。
『たまに来た位で、私の苦労はわからないだろう!』
そんな言葉を並べ、私に祖父の食事の介助を、目配せした。

祖父が、小さく小さく見えた。私は必死で、涙を、堪えた。
祖父の声も、か細く、何を伝えたかったのか、聞き取りにくかった。
ただ、祖父は、涙を流していた。目尻の皺を、涙が這うように、落ちていた。

それから半年後。私が二十歳の冬の日。祖父の訃報が届く。


当時、私の月給は一日8時間働いて、二千円。母の食堂の収入も、僅かなものだった。
成人式の通知も、欠席に〇を入れて、返信した。何万円の洋服を買う余裕など、全くないことは、私には理解出来ていた。
『出席するの、めんどくさい!』
母にはそう言って、ごまかした。

黒の礼服は持っていたが、コートを買うお金がなかった。
特別な外出着もなく、私は、黒い礼服のスカートを着て、その上からいつも着ていた、白い長めのカーディガンを着た。その恰好で、唐津に向かった。
博多のホームの風が、身体中を、吹き抜ける。足の先が、痛くなった。薄いカーディガンなど、何の役にも為らなかった。
綺麗なコート姿の、いくつもの視線が、私を通り過ぎて行った。

追憶 祖父の遺産

格子戸を開け、玄関に入る。叔父さんが、優しく、迎えてくれた。叔母さんは、私のカーディガン姿を見て、驚いた様子だった。
奥の座敷に通された。
おじいちゃんの顔を見た途端に、堰を切ったように、涙が溢れてきた。鳴咽が、込み上げてくる。

私は、父が亡くなってから、母の前では泣かない娘だった。
何かに付けて、被害妄想が強くなった母は、父さえ生きていれば…と口癖のように、呟いた。
呟いては、ただ泣く。悔やんでは泣く。
私は、父が息を止めた、冬のあの日の朝、折れた枝のように泣き崩れた、母の背中を見た時に、きっちりと自分自身に決めていた。
〈父の代わりになる〉
だから、私は泣けなかった。泣きたい時は、父のお墓の前で、泣いた。布団の中で、泣いた。

祖父の葬儀が済み、
私はその日の夜行列車に乗った。
列車の窓から、遠退いていく、唐津の町の灯を見ながら、ただ悲しくて、涙が溢れた。
人目も憚らないで、泣けた。

途中の駅から、一人旅の若い女性が、前の椅子に向かい合わせた。
彼女は、黙ったまま、キャラメルの封を切り、泣きじゃくる私に、そっと、それを差し出してくれた。
キャラメルを口の中にいれ、唇を噛み締めると、また涙が溢れて落ちた。
言葉の要らない優しさの存在に、初めてであった。あの日の夜汽車の温もりは、今でも私の心のフイルムに、きっちりと、焼き付けている。

祖父の死後、
母のもとに、一枚の封書が届いた。
それは、大阪に住む、父の実の妹さんからだった。
母が一枚の用紙を、私の前に、差し出しながら、聞いた。
「これ…どうする…」「何?この紙?」
「唐津のじいちゃんの財産、一緒に請求するのに、ハンコ押してって、書いとるわ…」
母は、一度座りなおした。
「何で、財産なん?」ピンとこなかった私は、また問い直した。
「親が死んだら、残った財産、後の子供が貰えるんじゃ…、一緒に請求せんかって、書いとるわ…」

今、思えば、こんな大事な話の結論を、母はたかが二十歳の私に、決めさせた。

私はあの時、速答した。
「じいちゃんの遺したものは、じいちゃんの看病をした叔父さん、叔母さんのものだろう!
なんで、じいちゃんの世話してないのに、貰えるん!いらんよ!そんなん、おかしいわ!」

今だから理解できる。母は、あの時、一緒になって請求することを、父に恥じたのではないだろうか?
そして、何よりも、父の存在以外、母には何ひとつとして、価値がなかったのだ。
相変わらずの貧乏暮らしだったにも関わらず、私の、一言で、母はあっさりと、祖父の遺産を放棄した。
あの時、放棄した遺産は、莫大な金額だったらしく、父が生前、私に
『人間は最後に笑うたもんが勝ちたい!』
と言っていた深い意味が、理解できた。
『ボロ買い』
と人から言われても、何一つ、怯むことなく、心に糊をピーンと貼れていたのは、資産を持つ、地主の長男としての、プライドだったのだ。
私は、父亡き後、学べた多くの事が、何よりもの父からの財産だと思っている。
その財産は、風でも吹き飛とばないし、誰にも燃やす事も、出来ない。語り継ぐ限り、永遠に消えない、不滅の遺産なのだ。

私は、それから後、再び第二の故郷に向かうー。


追憶  兄と妹

父は、亡くなる一年前、故郷と繋がる事によって、妹との再会も果たせた。
私は、幼い頃から、まるで本の読み聞かせのように、父の故郷の話を聞かされた。

『人生の並木道』
は父の十八番の一つだった。
泣くな妹よ
妹よ泣くな
泣けば幼い 二人して
故郷を捨てた
甲斐がない

時折、涙を浮かべながら、口ずさむ。
そして、話しだす。
学校から帰って、お腹が空いて、何か食べたいと思っても、義理の母親は、実子だけに食べ物を与え、父と妹には、与えてくれない。
父親には、言えずに、毎日、我慢ばかりを繰り返した。
ある日、父は妹を連れ、家出を決意した。
行くあてもないまま、線路伝いに、幼い妹の手を引いて、歩いた事。
まさに人生の並木道。泣きながら、唄っても無理はなかった。

私は、父と妹の36年ぶりの再会に、また、連れて行かれた。

叔母さん、そしてその家族に、初めてあった、緊張感。
あの時の大阪は、幼い私には、ただ夢心地で、異常に続いたアスファルトが、不思議だった。
叔母さんは、大手の保険会社の主任さん、ご主人は、会社の部長職だった。
生まれて初めて見た、大阪の住宅街。
従姉妹にあたる方は、社会人で、掛け離れた大人に見えた。
「鏡台」が二階の廊下の隅に、あった。たくさんの、小物が目に映り、私は、それらを見て、ただ驚いていた。
すべてが、祖谷の暮らしの中には、存在しないものだった。

あくる日、
叔母さんは父と私を
ある場所に、連れて行ってくれた。
今でも父との、大切な思い出の場所の一つになった。

『宝塚劇場』
での観劇体験。
当時の私には、理解しがたい世界だった。
父は、場の空気を読めない大人だった。
当時の私でさえ、あの高級な空気を理解できたのに、父はワンシーンが終わると、隣の席の私に、内容を説明した。
普通の大きな声で、説明した。もちろん、九州弁だ。
前の席の方が、迷惑気に私たちを振り返る。
斜めから、振り返る。そして、とどめに後ろの席から、
『ちょっと、静かにして下さい!』

私は、真下をずっと向いていた。恥ずかしかった。観劇どころではなかった。
少しだけ静かになった父が、演劇のクライマックスで、感動の余り、立ち上がった!!!

父の右腕を叔母さんが、引っ張って、小声で甲高く叫んだ。
『ちょっと、お兄ちゃん!』



初めての宝塚は、散々だった。
私は、あの時、父に聞いた。
「タカラズカのどこがええん~?」
父は、劇場を振り返りながら、一言言った。
「大人になって来たらわかるばい!ここの良さは、子供にはわからん!」

別の意味を、込めて、大人になって、大変理解できました。
父ちゃん、劇場は、黙って見るものです。
競艇で、観戦した時と、同じではイケマセン!

今でも、覚えている。叔母さんの、「お兄ちゃん」と呼ぶ声。
そして、振り返る父の顔は、私も母も多分、見た事のない、顔だった。「お兄ちゃん」の顔だった。


最近、父への回想を、書き出してから、なぜか気が付けば、「人生の並木道」を口ずさんでいる。
なぜだか、涙が、勝手に零れてくる。


時空を越え、幼い兄と妹の、線路を歩くふたつの影を、想い浮かべてしまうー。


兄と弟

祖父亡き後も、縁の糸は繋がったまま、深く結び付いていった。
叔父さんから数回、便りが届き、毎年、叔母さんは、お手製の「粕漬け」を送ってくれた。
数年、お互いに声の便りを届けながら、何か届く度に、父にお供えした。
そんな時は、いつもより力強く、お仏壇のリンを鳴らした。

お礼の電話をかけると、いつも真っ先に叔母さんが出る
次に必ず、叔父さんと話す。
後で、叔母さんに聞いた話によると、テレビで四国や、祖谷地方と流れるたびに、叔父さんは、画面を食い入る様に見つめながら、
「あの、近くに住んでいるのか…」
と、話していたと言う。
私も私で、テレビで『唐津』の話題が流れたり、九州ナンバーの車を見つけると、胸がワクワクしたものだった。
数年の間に、父の弟、妹も、亡くなっていた。皮肉にも、莫大な遺産を手に入れた、二人は、病気で呆気なく、この世を去った。
手に入れた敷地を、手入れに出掛けても、〈後には売却〉本家の叔父さんを訪ねる事は、なかったそうだ。
今でもふと思う。叔父さんが私の事を大切にしてくれたのは、私が遺産を放棄したからではなく、叔父さんは、そんな私の中に、私の父を見たのではないだろうか。
腹違いの兄弟だとしても、他人には入る余地のない、深い愛惜の念がある。


叔父さんとの別離は、すぐ側まで、来ていた。
平成八年、十二月一日、
大雪が降った早朝、
唐津から訃報が届いた。
叔父さんが、急逝した。
事故だった。
その日は、祖谷に数年に一度降る位の大雪で、町まで出かける事も出来なかった。

私は、葬儀にでる事を、断念した。
ありきたりの、電報を打った。
余りにも突然の別れに、涙も出なかった。


「あー、もしもーし、〇〇〇~元気にしちょらしたかばい!」
その声の便りは、二度と届かなくなった。

心の奥の深い谷間で、故郷が壊れる音がした。





追憶 (最終章) 父への贈り物

ひとつき以上が過ぎた。慌ただしい日常の中で、私は心のどこかで、諦めていた。叔父さんによって、繋がっていた「故郷」だったと諦めていた。
そんな時、納骨を終えた叔母さんから、葬儀のお返し物が届いた。私はすぐにお礼の電話をかけた。
最愛の伴侶を失った叔母さんの声は、今まで聞いた事のない、弱々しい声だった。そして、何よりも、歳月の流れが、そこにあった。
ある日、叔母さんから祖父の十七回忌を、今年営むとの、知らせが届いた。
いつも電話を切る時に、
「家族で遊びに来なさい」と言ってくれていた。
私は私で、父の二十五回忌を控えていた。
私は、迷わずに、叔母さんに相談した。
「父の法事を、唐津で一緒にさせて頂けませんか?」
叔母さんは、ひとつ返事で、心よく承諾してくれた。

『父は再び、故郷に帰れる』
私の唯ひとつの夢が、今、叶おうとしていた。


平成十年十一月末、
十六年ぶりの再びの故郷に。
私はあの日の父のように、中学生になった娘達二人を、連れて帰る事にした。
主人は、
『ゆっくり、三人で行ってこい』
と言ってくれた。
正直、体調のすぐれない主人を遠出させる事に、一抹の不安はあった。

家を出る朝、
仏壇から、父のお位牌を下ろし、真っさらな風呂敷にそっと包んだ。
大きな、リンを鳴らして、大きな声で父に言った。
『父ちゃん!帰るよ!一緒に唐津に帰るよ!ついてきなよー』


娘達と、三人の家族旅行。

新幹線、そして博多、乗り換えて、汽車。

唐津に差し掛かると、汽車の窓から、少しずつ海が広がった。
沈みかけた、太陽の雫を浴びて、父の愛した、青い青い海が、輝いていた。私は、バックの中から、そっと父の位牌を取り出し、窓際に置いた。
娘達が、私を見て、ニンマリと笑った。


父の生家は、区画整理とともに新築され、道路も広くなり、昔とは随分様子が変わったと、叔母さんから、聞いていた。

夕方、唐津駅に着いた。タクシーを降りた。
娘達は、少し不安げだった。
私は、旅行かばんを両手に持ち、ある一軒の家の灯りに向けて、ゆっくりと歩き始めた。不思議な感覚だった。迷いはなかった。
真っ直ぐに、歩を進めた。
表札を確認した。

「駅から電話かけてくれたらよかったのに、家が、よくわかったなあー」
叔母さんは、びっくりしていた。

私達は、叔母さん達家族と、叔父さんの生前の話しを、沢山聞いた。叔父さんが、私をとても心配していたこと。話しは、尽きなかった。
時間は、瞬く間に過ぎた。
叔母さんは、二階の部屋に、布団を出してくれた。
布団が三組、枕が、みっつ。
娘達と、川の字になって、天井を見た……。「感無量」
それ以外、何の言葉も浮かばなかった。

翌日、
二十人程の、親戚が集まった。
私達を、誰もが、歓迎してくれていた。
高齢の方が、一人、父を知る唯一の、方だった。
私を見て、何度も何度も、頷いて泣いていた。私も、言葉に出来ない熱い思いに、自然に涙が頬を伝った。

今でも可笑しい想いだす。
お経が始まる前に、叔母さんが、父の位牌を私から受け取り、祭壇に置いた。
祖父のお位牌と、父のお位牌は、余りにも高さが違い過ぎた。
本家のお位牌は、立派だった。少しだけ、心の中で、父に詫びた。
晴天白日、
窓からは唐津の風、
静々と、流れる時間。
祖父と父の高さの違う、
並んだ二つの位牌を、お経が包んでいく。
時折、聞こえる九州弁が、父にはお経以上に、浸みる筈だ。

光陰矢の如し

人生という名の、頂上を目指し、そこに到達し、導かれたすべての生命に手を合わせ、永遠の風になる、そして、空に還る。
それが「生ききる」
ということ。

『人間は最後に笑うたもんが勝ちたいっ!』父ちゃん、
どうだ、笑ったでしょう!
最後には、笑えたでしょう。

『よか、人生!』
だったでしょう。
父ちゃん
大好きだったよ
父ちゃんー








回想 前編 父ちゃん    


私の小学校入学前、両親は古びた小さな家を、買った。祖谷川の崖っぷちに建つ、平トタン屋根。傾きかけていた
家の壁からは、どこからともなく、隙間風が、絶えず、吹き抜けていた。
ここを、購入した、理由はひとつ。場所は、村の中心地に近い。人通りも多い、その場所で、小さな食堂を開店した。
朝一番に、太陽に、手を合わせ、『パン、パン』と二回拍手。そして、頭を下げる。
それが終わると、家の前、それから道路を竹ホーキで掃く。それが、毎朝の父の日課だった。

父は九州の実家に背を向け、『九州〇〇劇団』を旗揚げし、座長として日本全国を、どさ回りしていた。
母は、劇団の花形浪曲師だった。両親は、終戦と共に、劇団を解散し、母の故郷である、祖谷に疎開してきた。


私が生まれた時には、父は、錆びたリヤカー一台を、財産として、『古物商』を始めて、一家の生計を立てていた。
某タレントさんの書いた、ベストセラー本に登場する、リヤカーにヒモを垂らし、その先に磁石を付けて、道端に落ちていた、釘とか金属の切れっ端だとかを
起用に集める様子は、話題にはなっていたが、私には、珍しい光景ではなかった。
父も、同じ方法で、カネ屑を集めていた。
私は、学校が休みの日は時々、往復数十キロの山道を、父のリヤカーを押して歩いた。
私は、『金魚の糞』と父が名付けたように、絶えず父と、行動を共にした。

父の馬鹿が付く程の、大袈裟な愛情に包まれて、私は育てられた。
私の人生に於いて、必要な事は、全て父のリヤカーを引く、背中越しの声で、学んだ。

『よく学べ、よく遊べ!』中途半端は、父は絶対に許さなかった。
『便所を最初に掃除しろ、見えない場所が、一番大事!』

『人の嫌がる場所を、掃除しろ!』
『最後に笑う者になれ!』
挙げていったら、きりがない。

大柄な父、ゴツゴツした大きな手には、機械の油が染み付いていた。『正義』が好きで、『嘘』が大嫌いで、家族を、体中で、愛していた。

中学校になって、初めての運動会。
そこに、父の姿があった。弁当を引っ提げて、来てくれていた。照れ臭く、でもうれしかった。
父は父兄のでる種目に、張り切って、参加した。
『綱引き』の競技をしていた父の姿は、はっきりと覚えるいる。
後ろの方に陣取って、いつも以上に大声を張り上げながら、顔を歪ませながら、綱を引いていた。

父は、満足気だった。娘の運動会に、参加出来た事。父は家に帰ってからも、競技の話しを繰り返していた。

父の最初で最後の運動会。
父の体内で息を潜めていた、肝臓ガンは、皮肉にも、過剰に力を出しすぎた『綱引き』で、一気に暴走を始めた。

運動会が終わって、暫くして、父は身体の不調を、初めて口にした。

山々は、秋の色を静かに迎えようとしていた


回想 後編 父ちゃん 別離   


私が小学校二年生の年に、母が初めて倒れた。重症な高血圧だった。
父は、母の身体をいつも気にかけていた。両親が、喧嘩した光景など、一度も見たことがなかった。
父の愛情は、いつも私には、大袈裟だった。
私が、風邪をひいた時は、熱が下がるまで、布団から絶対に出してもらえなかった
そんな時は、テレビも禁止で、平熱になるまで、肩にピッタリと布団をかけられた。
夜中に、私を背中におぶって、1キロ先の村医者の玄関を叩く。父の大きな背中で、跳ねた感触は、今でも覚えている。
『愛情の温度は連鎖する』
私は娘達には、何時だって、大袈裟な親だ。

そんな、父が、始めた弱音を吐いた。
十月の半ば頃、いくつかの身体の不調を訴えた。
お腹が張る、痛い、歯茎からの出血。
町の病院にも、一人で出掛けて行った。
一向に変わらない、父の病状に、私は母に、尋ねた時があった。
「母ちゃん、父ちゃんはどこが悪いん?病院に行ったんだろ?」
「それが、先生、なんにも言わんかったらしい」
母は、ただ首を傾げていた。
暫くして、父は寝込むようになった。
十二月に入ったある夜、父が訳の解らない譫言を並べ始めた。
母は、近所の人を呼んだ。
村の日赤のマークが入った白いバンに乗せられて父は町の病院に運ばれた。
明くる日の授業中、担任が入ってきて、私に、すぐに帰る準備をするように言った。
なんの事なのか、解らなくて、クラスの視線を、一斉に浴びた、そのざわめきに、私は少し照れながら、教室を出た。
校門に出ると、近所の土建業を営む、〇石のおっちゃんが車で迎えに来てくれていた。
私を乗せ、暫く走り、おっちゃんが一言だけ、ポツリと聞いた。
「…唐津のじいちゃんの住所、わかるか…」
「う…ん」
私が、そう答えると、おっちゃんは、前をずっと見たまま、
「…連絡せないかん」そう呟いた。
〇石の、おっちゃんは、温もりを持ちながら、無駄な言葉は並べずに、必要な事を黙ってこなす。
いつだって『老舗』のような大人に見えた。
あの時、おっちゃんは、片道二時間近く掛かった、町への距離を、私達家族の為に、何回往復してくれただろう。
今でも、おっちゃんは、私の中の、永遠の優しい老舗なんだ。

町の小さな病院に着いた。
褪せた白い壁の病室に、父は眠っていた。
親類達が、来ていた。
その日の夜、母に近くの銭湯に付き合わされた。
湯に浸かりながら、母は突然、泣き出した。
「父ちゃん、死ぬんじゃ…後一週間しかもたん、お医者さん、言よった」
掌で顔を覆うようにして、泣き崩れていた。
それでも、私は信じていた、
『父ちゃんは、死なん!絶対に死ぬわけない!』
一週間は、余りにも短かすぎた。
最期に父が言葉を搾り出すように、私に言った。余りにも、父らしかった。
『……勉強せ…えよ』私は、精一杯涙を堪えて、
『…う…ん…』と答えた。

昭和四十九年、
十二月十四日、雪の舞う朝。
引き潮、11時57分、
父は、最期に小さく口を三回あけ、冷たくなっていった。


父ちゃん、大好きだった父ちゃん。
父ちゃんに愛された、12年が、終わった。
もう、リヤカーは押せないんだね。
金魚の糞は、金魚から離されたんだ。


あれから35年、
波瀾万丈だった、
父の人生に、父の昭和に
今、娘は
心から万歳を贈ります。
『よか、人生ばい!』父ちゃんの声が、身体中に聞こえるー。

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