秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

回想前編 父ちゃん

2009年09月09日 | Weblog
私の小学校入学前、両親は古びた小さな家を、買った。祖谷川の崖っぷちに建つ、平トタン屋根。傾きかけていた、家の壁からは、どこからともなく、隙間風が、絶えず、吹き抜けていた。
ここを、購入した、理由はひとつ。場所は、村の中心地に近い。人通りも多い、その場所で、小さな食堂を開店した。
朝一番に、太陽に、手を合わせ、『パン、パン』と二回拍手。そして、頭を下げる。
それが終わると、家の前、それから道路を竹ホーキで掃く。それが、毎朝の父の日課だった。

父は九州の実家に背を向け、『九州〇〇劇団』を旗揚げし、座長として日本全国を、どさ回りしていた。母は、劇団の花形浪曲師だった。両親は、終戦と共に、劇団を解散し、母の故郷である、祖谷に疎開してきた。


私が生まれた時には、父は、錆びたリヤカー一台を、財産として、『古物商』を始めて、一家の生計を立てていた。
某タレントさんの書いた、ベストセラー本に登場する、リヤカーにヒモを垂らし、その先に磁石を付けて、道端に落ちていた、釘とか金属の切れっ端だとかを、起用に集める様子は、話題にはなっていたが、私には、珍しい光景ではなかった。
父も、同じ方法で、カネ屑を集めていた。
私は、学校が休みの日は時々、往復数十キロの山道を、父のリヤカーを押して歩いた。
私は、『金魚の糞』と父が名付けたように、絶えず父と、行動を共にした。

父の馬鹿が付く程の、大袈裟な愛情に包まれて、私は育てられた。
私の人生に於いて、必要な事は、全て父のリヤカーを引く、背中越しの声で、学んだ。

『よく学べ、よく遊べ!』中途半端は、父は絶対に許さなかった。
『便所を最初に掃除しろ、見えない場所が、一番大事!』

『人の嫌がる場所を、掃除しろ!』
『最後に笑う者になれ!』
挙げていったら、きりがない。

大柄な父、ゴツゴツした大きな手には、機械の油が染み付いていた。『正義』が好きで、『嘘』が大嫌いで、家族を、体中で、愛していた。

中学校になって、初めての運動会。
そこに、父の姿があった。弁当を引っ提げて、来てくれていた。照れ臭く、でもうれしかった。
父は父兄のでる種目に、張り切って、参加した。
『綱引き』の競技をしていた父の姿は、はっきりと覚えるいる。
後ろの方に陣取って、いつも以上に大声を張り上げながら、顔を歪ませながら、綱を引いていた。

父は、満足気だった。娘の運動会に、参加出来た事。父は家に帰ってからも、競技の話しを繰り返していた。

父の最初で最後の運動会。
父の体内で息を潜めていた、肝臓ガンは、皮肉にも、過剰に力を出しすぎた『綱引き』で、一気に暴走を始めた。

運動会が終わって、暫くして、父は身体の不調を、初めて口にした。

山々は、秋の色を静かに迎えようとしていた





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