このY字路は、手前が旧川越街道で、右手が下松原へ抜ける道である。
空地だと聞いていたが、なにやら工事中だった。

以前、ここには大きな石のお地蔵さんがあった。
お地蔵さんは覆堂の中に安置されていたが、お堂もろとも完全になくなっている。
この写真は2009年のものだが、周囲の建物もかなり変っている。

2年ほど前、このご近所の方から連絡を頂いた。
この地蔵尊が壊されている。
ついては、ブログの写真を使わせてもらえないか、という依頼だった。
あまりに意外な話だったが、その方のブログを拝見すると、確かに地蔵尊が壊されている写真があった。
在りし日の写真は外にないということなので、どうそお使い下さいとお伝えした。
地蔵尊はかなり大きく、外からはその顔が見えなかった。
柱には「開明地蔵大菩薩」と書かれていた。

お堂の入口から見上げると、文字の書かれた白い布を首に巻いたお地蔵さんの顔があった。

新井博さんの「埼玉ふるさと散歩《川越市》」には、次のように紹介されている。
「これは宝永6年(1706)3月の建立で、川越藩の「御仕置場跡」つまり処刑場があった場所である。仙波、小中居上留村、自井沼、上村、留村、二ノ関の各村より二人ずつの僧と、近くの村に住む有志が建てたもので、一名「首切り地蔵」とも呼ばれている。もとは烏頭坂の近くにあったが、だんだん人家が出来たので、江戸時代中期になってこの地へ移したのだという。」
なぜ、壊されることになったのかは、分からない。
先ほどの方のブログには、工事を担当した会社からコメントがあり、近くの東光寺などいろいろ当たったが引取手がなく、やむなく壊したとあった。
別のところから聞いた話では、市立博物館で引き取るという案もあったそうだが、まとまらなかったらしい。
「埼玉ふるさと散歩」には、つぎのようにも書かれている。
「その右側には、明治45年(1912)吉野半蔵によって建てられた「三界万霊有無両縁」の石塔もある。」
お堂の右側の囲いの中に、尖端の尖った小さな石塔があり、その前には花が供えられていた。
これも当然、撤去されてしまっただろう。

ご近所の方ブログには、お地蔵さんを壊す外国人の作業員の写真があった。
さすがに地元の会社は遠慮したのか、県外の会社が請け負っていた。
その方のブログには、お地蔵さんの頭部を持ち帰り、家の庭に置いてあるとも書かれていた。
その後、直ぐ見に行こうと思いながら、いつの間にか2年ほどが経ってしまった。
Y字路の三角形の土地には、敷地一杯に基礎が出来ていた。
どんな建物が出来るが分からないが、ここに大きな地蔵尊があったことは、忘れられてしまうだろう。

いろいろ事情はあったと思うが、やはり貴重な遺産が失われたことは間違いない。