血管が一目瞭然「HEMS」
手術を行っている医者に、人間の目では見えない血管やリンパ節の位置を指し示してくれる、画期的な手術ナビゲーションシステムが開発された。その誕生ストーリーの裏側には、1人の志ある研究者が紆余曲折の末に実現させた。
「例えば心臓のバイパス手術をするとき、手術をする医師の目には、連結すべき冠動脈はほとんど見えていない。心臓の表面を覆う脂肪組織をほじりながら、『だいたいこのあたりだろう』と勘をはたらかせて冠動脈を探し当てている。しかし、このHyperEyeMedicalSystem(HEMS)を使えば、冠動脈の位置を目で確認しながら、手術を行うことができる」
そう胸を張るのは、高知大学医学部の佐藤隆幸教授。血管やリンパ管など、体内の構造物を可視化し、安全で安心な手術を可能にする画期的な手術ナビゲーションシステムHEMSの生みの親だ。
リンパ管も一目瞭然
HEMSが威力を発揮するケースの1つに乳がんがある。乳がんの手術では、転移の有無を診断することが大切だ。そのためには、センチネルリンパ節の細胞をとり、検査する必要がある。
センチネルリンパ節とは、がん細胞がリンパ流に乗って最初に到達するリンパ節のこと。がんの転移の有無の診断に有効なことから、「見張りリンパ節」ともいわれる。
乳がんの場合は、わきの下に多数存在するリンパ節のうちの1つがセンチネルリンパ節となるが、正確な位置を肉眼で特定することは難しい。そのため、リンパ節のある部分を広範囲に切除する手術がこれまで行われてきた。
しかし、術後に腕がむくむ、痛みが強い、腕が上げにくいなどの不快な症状があることが問題とされてきた。センチネルリンパ節の位置を正確に検出できれば、切除する部分は従来と比べてはるかに小さくてすむ。
すでに、検出方法もいくつか開発されてきた。しかし、特殊な技術が必要なため専門医が一定のトレーニングを受けなければならない、放射線を利用するため人体への影響が懸念されるなどの問題があった。
「HEMSを使えば、センチネルリンパ節の位置を光で知らせてくれるので、特別な技術などなくても誰でも確認できますし、患者の体に負担をかけることもありません」
インドシアニングリーン(ICG)
技術的な核となるのは、インドシアニングリーン(ICG)と呼ばれる物質だ。インドシアニングリーン(ICG)とは、肝臓や眼底などの検査試薬として知られる物質。近赤外光を照射すると、励起されて近赤外蛍光を発する。
近赤外蛍光は皮膚や脂肪組織を通過するという特徴を持つ。このため、近赤外光を照射すれば、ICGが体内に入った後、血管やリンパ管を通って流れている様子が外からも確認できるというわけだ。
その効果のほどは、実際の手術室での使用例を見れば明らかだろう(P11右下囲み記事参照)。
医学が社会の役に立つには工学の力が欠かせない HEMSは、佐藤教授が先駆者の1人として取り組んできた「バイオニック医療」の大きな成果でもある。
医学と工学が幸せな結婚
話は佐藤教授が国立循環器病センター研究所の研究員となった1994年にさかのぼる。この頃、佐藤教授の心のなかではある問題意識がふくらんでいた。
「科学技術は社会の役に立つものでなければならない。それなのに、医学が“ 基礎”科学と見られることに違和感を覚えた。科学の歴史を変えるような根本的な理論を生み出せるなら“基礎”にとどまっていてもいいかもしれない。しかし、自分はある程度短い時間で患者さんの役に立つ“応用”を意識しなければと考えた」
当時の上司だった砂川賢二・現九州大学教授も同じ問題意識を持っていることを知って意気投合。議論を深めていくうちに、進むべき道が見えてきた。
「例えば新しい薬を生み出すにしても、画期的な治療器具を開発するにしても、医学が社会の役に立つには、工学の力が欠かせません。医学と工学の幸せな結婚を目指すべきだとわかったのである」
日本の得意分野を伸ばせ!
意識したのは、日本が勝負できる分野に打って出ることだ。
「例えば人工心臓などは、陸上競技にたとえれば、すでにアメリカが第3コーナーを回っている段階で、いまからスタートしようとする日本が追いつこうとしても難しいかもしれない。工学のなかでも日本が強い制御工学と結びつけば、社会の役に立つ、新しい治療機器を開発できるのではないか。それには、新しい技術を開発しなくても、既存の要素技術をいくつか組み合わせれば十分だろうと考えた」
名づけて「バイオニック医療」。元になったのは、1970年代のアメリカのテレビドラマ『地上最強の美女 バイオニック・ジェミー』だ。主人公の女性は、瀕死の重傷を負いながら、最先端の医療技術を駆使した“バイオニック手術”により一命を取り留め、超人的な能力を手にする。そんなテレビドラマの夢物語を現実にするべく、佐藤教授は未知の世界への一歩を踏み出した。
自動血圧制御装置
工学の専門知識を独学で身につけた 最初に取り組んだのは、血圧を自動制御する装置の開発だ。
「血圧は、寝たり立ったりするたびに変化します。私たちは自律神経のはたらきによって血圧の変化を感知し、調整しているのですが、その自律神経に障害があると、うまくはたらかないケースがある。重症の患者の場合、ベッドの角度を45度くらいに上げただけで、吐き気がして失神することもある」
血圧を調整する薬もあるが、効き目が現われはじめるのは静脈に注射した場合でも数十秒経過してからで、安定するまで6分以上かかる。ベッドの角度を変えてから失神するまでの時間はわずか数秒。薬ではとても間に合わない。そこで佐藤教授は、人体の血圧が電気信号によって制御されていることに目をつけた。
「血圧の変化を察知するセンサーは首にあり、低下の情報が脳に伝えられると、脳から交感神経を通じて全身に、血圧を上げろとの指令が電気信号として送られる。そのシステムが壊れると血圧が調節できなくなるわけだから、代わりとなって血圧を感知し、自動的に電気刺激を送ってくれる装置を開発できないかと考えた」
HEMSの開発
医学と制御工学の結婚がもたらす効果を実感した佐藤教授は、大きな手ごたえを得て開発した装置の製品化に乗り出す。しかし、それは想像以上に苦難の道のりだった。
HyperEyeから近赤外光を照射すると、ICGが励起され近赤外蛍光を発する。それを肉眼で見える可視光とともに撮影し、カラー映像としてモニターに映し出す。近赤外蛍光は微弱で、手術室という明るい環境で両者を同時に撮影するのは「太陽光の中で蛍の光を撮影するようなもの」だが、最先端の制御工学によりその難題を解決した。
こうしてできあがった「HEMS」を使って、がん手術後に転移の有無を診断する「センチネルリンパ節の細胞摘出」の手順を追ってみよう。
(1)がんに侵された部位にICGを注入してしばらくすると、ICGがリンパ管の中を通る。
(2)これをHyperEyeから近赤外光を照射すると、ICGが励起され近赤外蛍光を発する。
(3)これをカメラにとらえ、モニターに投影すると道筋が白く光って見える。
(4)これを手がかりにセンチネルリンパ節の位置を特定。ピンポイントで摘出することができる。
(5)摘出したセンチネルリンパ節も白く光っているのがわかる。
参考HP 科学技術振興機構「外科手術中に切除部位を視覚化できるシステム」
臨床医のための近赤外分光法 新興医学出版社 このアイテムの詳細を見る |
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