朝一番で訃報を聞きました。 故人のご冥福を祈るとともに、親族、関係者、そして家族同様の東村山市民の方に心からお悔やみ申し上げます。
昭和51年に三重に引っ越しました。 「近畿地方」に三重県は入ってますが、現実は「中部地方」の文化圏です。 国鉄時代は紀勢線は天王寺鉄道管理局で「近畿地方」でしたが、分割民営化で三重県部分は参宮線と名松線を含め「東海」エリアになりました。 そのためテレビ番組は「名古屋圏」のものが多く「お笑い」が好きな関西人には楽しい番組がありませんでした。 その頃、志村けん氏の「東村山音頭」で全盛期が始まった頃で「東京のお笑いも面白い」と思っていました。
志村さんのコントで好きなのは「オカマのラーメン屋」です。 オカマになりきる志村さんの芸も見事です。 また実際に「インスタントラーメンの屋台」があったのも、それがとんでもない値段だったのも「遊び人」の志村さんならでわの観察力でしょう。
お父様も二人のお兄様も学校の先生と聞きますが気丈にもインタビューの答えられていたお兄様でした。 マスコミがもう少し気を使って欲しいと思いましたが、弟がこれだけ人気者だったことを感じられたと思います。 それがお兄様の気遣いなのかもしれません。
昭和51年に三重に引っ越しました。 「近畿地方」に三重県は入ってますが、現実は「中部地方」の文化圏です。 国鉄時代は紀勢線は天王寺鉄道管理局で「近畿地方」でしたが、分割民営化で三重県部分は参宮線と名松線を含め「東海」エリアになりました。 そのためテレビ番組は「名古屋圏」のものが多く「お笑い」が好きな関西人には楽しい番組がありませんでした。 その頃、志村けん氏の「東村山音頭」で全盛期が始まった頃で「東京のお笑いも面白い」と思っていました。
志村さんのコントで好きなのは「オカマのラーメン屋」です。 オカマになりきる志村さんの芸も見事です。 また実際に「インスタントラーメンの屋台」があったのも、それがとんでもない値段だったのも「遊び人」の志村さんならでわの観察力でしょう。
お父様も二人のお兄様も学校の先生と聞きますが気丈にもインタビューの答えられていたお兄様でした。 マスコミがもう少し気を使って欲しいと思いましたが、弟がこれだけ人気者だったことを感じられたと思います。 それがお兄様の気遣いなのかもしれません。