![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/4f/d030af83d660c98db5b5134f8aa0dbcd.jpg)
東京五輪が終わり年末年始の大量輸送の本番を迎えたころの時刻表です。 それでも「超特急」は高値でしたので臨時列車が多数運転されてます。 この時刻表はいったん本棚から出すと最低3時間は見るので調べたらすぐに戻すことにしてます。 西行はともかく「東京か東北方面」(付録14)の品川1838発の3405臨時「おが」で赤羽1917で上野を経由しません。 今の「上野東京ライン」のルートならば新橋・東京・上野に止まればいいわけで、当時も線路はつながってました。 上野駅での混雑緩和のため品川発、臨時列車ホームから出発してたのでしょう。 そして川崎方に出発しますが、今の横須賀線ルートで目黒川信号場(今は蛇窪と共に大崎駅構内)で複分岐を渡り山の手貨物線を大崎・目黒・恵比寿・澁谷・原宿で右手に皇族用ホームを見て新宿・池袋そして赤羽に至ったのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/28/89a4d0b4be17ed24263f8d41014efd79.jpg)
当時、宮崎に住んでました。 京都の母の実家で年末年始を過ごしますが、いつもは「かもめ」で往復してました。 「かもめ」は今は長崎の特急ですが設定当初の36-10から40-10までは基本編成が京都~長崎、付属編成が京都~宮崎でした。 当時の国鉄が昼行列車の当日中に終着駅に着くことを追求してたようでその限界が宮崎でした。 京都・宮崎を800に出発し2200に着くというダイヤでした。 父の話では「かもめ」の指定席がとれずに「高千穂」に乗ったという話でした。 そして「食堂車がなかった。」と言う話でしたので時期が限定されます。
お昼を過ぎた14時35分「高千穂」は南宮崎を発車、京都は9時21分着の19時間の旅でした。 さて大淀川を渡ります。