記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

福岡市史講演会「空の福岡、海の福岡」の感想と自問

2016年12月01日 23時42分25秒 | 福博まちの記憶

11月26日(土)午後、時間を作って福岡市博物館・福岡市史講演会「空の福岡、海の福岡」に受講生で参加させていただきました。

初見の資料もあって収穫が多かった反面、柴多先生の講演は個人的に期待値が高かった分、少し物足りなさを感じたのも事実です(先生ご自身、終了後にご自分で分析不足を自認した発言をされていました)。

石橋先生の研究成果発表は研究の一端をお手伝いさせていただいた事も含めて、解りやすい内容でした。有馬館長を含めたセッションでの石橋先生の慌てぶりも好感色(笑)。

というか、この日の講演内容と資料を現状最先端研究と受け取ると、近現代の福岡市の都市形成・発展についての研究が始まったばかりであることを再認識できて、私のような在野の研究者でも積極的に発表できる分野なのだと分かり有意義な時間でした。1960年代に都市の方向性を180度転換したからこそ今の福岡市がある、50年前の決断が今の福岡市を創り、今決断することが50年後の未来へ繋がるという意味の有馬館長のまとめに賛同します。

ところで、講演のなかで私が一番気になった雑な分析は「福岡市が昭和に入って急激に人口が増加する、それと飛行場整備の因果」が無理にリンクされていたことです。人口の急増は、明治末の福博電気軌道と博多電気軌道開業に始まる、交通網をはじめとするインフラ整備と周辺市町村の合併交渉の成果(成立・市域拡大)を抜きに語ってはいけません。人口急増はほぼ合併によるものだからです。

以下、簡単にまとめた合併と人口推移
(福岡市五十年史より抜粋・付記まとめ)。

福岡市の人口推移
1889(明治22)年  50,847人(福岡藩時代の城下町福岡と商都博多)
1899(明治32)年  64,772人
1909(明治42)年  80,214人
1912(大正元)年   93,517人(警固村合併)
1915(大正 4)年   114,196人(豊平村合併、初の10万人突破)
1918(大正 7)年   97,157人(減少の原因は?)
1919(大正 8)年   102,818人(鳥飼村合併、再度10万人突破)
1922(大正11)年  138,207人(西新町、住吉町合併)
1926(大正15)年  156,288人(八幡村合併)
1928(昭和 3)年   201,965人(堅粕村、千代村合併、20万人突破)
1929(昭和 4)年   217,751人(原村、樋井川村合併)
1933(昭和 8)年   276,584人(姪浜村、席田村、三宅村合併)
1936(昭和11)年  302,068人(30万人突破、博多築港大博覧会、岩田屋開業)

参考:福岡市ホームページ(市域の変遷)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/shisei/profile/05.html

なにより、名島飛行場や雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場)が開設された当時は福岡市外です。水道・ガス・電気をはじめとする公共インフラ整備と道路や鉄道敷設などの交通網整備、公園や企業誘致などの好条件を提示して交渉を続け、合併を成立させたことは市議会史を時系列で追っていけば記載されています。

ちなみに、雁ノ巣飛行場が建設された糟屋郡和白町が福岡市に合併したのは昭和35年です。交通の要衝だった事や雁ノ巣が米軍基地となった事で、福岡市への合併が急務ではなかった事も一因かもしれません。

炭鉱閉山、工業都市化断念(工場用地を物流拠点へ転換)など複合要因のなかで、高度経済成長に乗って新幹線開通や福岡空港整備、他都市に類を見ないほどの団地開発とバス路線網整備などが絡み合っての成長。集合住宅率が日本一高い福岡市、都心と団地を結ぶ郊外バス路線網(急行・特急バス等含む)整備を含めて、天神地区の飛躍の理由など多角的に検証されるべきだと思います。

 

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